風切り羽-73

圧倒的な憎しみ

「あなたに会いにきたの」
 聖樹さんは、女の人から目を背けた。おっとりした聖樹さんにしては、明白な拒否だ。
「僕には、君に会う理由はない」
「あなたと話したいのよ。だから来たの」
「話したくない。君の顔も見たくない。帰って」
「あなたが嫌なのは分かるわ。でも、私にはあなたしか浮かばないのよ」
「彼が待ってるんじゃない? それとも、捨ててきたわけ?」
「喧嘩しにきたんじゃないの。私ね、分かったのよ。私にはあなたが必要なの」
 聖樹さんは女の人に顔を上げ、何か言おうとした。が、口をつぐんでこちらを一瞥した。四人はまっすぐ、僕はおろおろと見返す。聖樹さんは息をつくと、静かに立ち上がった。
 聖樹さんは僕のそばに来てゆっくりと微笑むと、「預かっててくれる?」と自分の胸にもたれる悠紗の頭を撫でた。僕は聖樹さんを見上げた。どのぐらいの人が見取れるか分からない。眼鏡の奥の聖樹さんの瞳は、恐怖と憎悪が交錯し、相容れない乱れの破裂に泣き出しそうになっていた。
 僕はそろそろと悠紗を受け取る。悠紗はぐったりと僕に体重を預ける。
 三人には、「すぐ終わるから」と言った聖樹さんは、不安げに涙を流す梨羽さんには優しく謝罪する。三人は仕事を再開し、梨羽さんはうなだれて膝に顔をうずめた。
 聖樹さんは、見知らぬ僕を訝る女の人に向き直る。
「要たちが片づけ終わるまでだよ」
「足りないわ」
「じゅうぶんだよ。そっち行って」
「あの男の子、誰なの?」
「説明して君が理解するとは思えないな」
 聖樹さんの声は冷ややかだった。ふたりは車の向こうの壁際にいった。話し声は聞き取れなくもなくも、それより僕は、ずり落としてしまいそうな悠紗を抱き直すのに必死だった。
 葉月さんに肩をたたかれ、「おぶりなさい」と言われる。僕は葉月さんに手伝ってもらってそうした。ちょっと楽になり、なったがゆえに、どうも話し声に耳がいった。
「悠紗、大きくなってたわね」
「君と悠紗の話はしたくない。何しにきた?」
 女の人は黙った。悠紗の話はしたくない。僕も鈍感ではない。あの女の人が何なのか、心当たりはある。ただ、出現が突拍子なくて断言できかねた。
「私、分かったのよ。あなたと離れて、分かったの。私が間違ってたわ。反省してるの。勝手すぎたわ」
「君は何かを理解するのにいったい何年かけるの? 悪いけど、僕は君がいない生活に慣れたよ。よりを戻す気はない」
 どきっとした。やっぱりそうだ。あれは聖樹さんの別れた奥さんだ。悠紗の母親なのだ。
「私、自分が悪かったって思ってるの」
「男はどうしたの?」
「………、置いてきたわ」
「僕なんかあきらめて、そっちにそう言ったら」
「あの人とはもうダメなの。終わったのよ。私のこと殴ったりもするわ」
「僕には君に同情をかける義務はないよ。おとなしく殴られてたら?」
「あなたが怒ってるのは分かってる。私、ひどかったかもしれない。でも、あれはあなたのこと愛してたからなのよ」
「今でも、君の頭の中はそのことだけ?」
 女の人は口ごもった。聖樹さんの声はひどく疎ましそうだ。
「だったら、彼にでも、ほかの男にでもすがってくれないかな」
「あなたがいいの」
「君には僕のことなんか分からない。あのときだってそうだった。頭ごなしに泣きわめいて出ていって、最後にはほかの男だ。君は僕をバカにしてるよ」
「してないわ。だって私、あなたのこと分かりたかったのに──」
「もっと別のこと話しにきたんだろ。こんな話は、あの頃さんざんやってうんざりしてるんだ」
「またそうやって逃げるの? 頭の中はそれだけって、夫婦には深刻なことじゃない。私は愛してたら軆だって欲しいの。誰だってそうだわ」
 沈黙が来た。表面は苦々しくても、底には隠微な恐怖と憎悪が流れていた。僕はそれをくっきり感知できた。
 軆。やはり性がとどこおったのが、関係が壊れた大きな原因なのか。
「あなたがどうしてそんなにセックスを嫌がるか、私、分かんないわ。あのときはそれしか見てなかったって思う。反省してるわ。頭の中はそれだけだった。今は違うの。それでもいいの。せめてあなたがセックスを嫌がる理由を教えて。知りたいのよ。そうしてくれたら、私、あなたに無理させたりしない。約束するわ。あなたがいればいい。ほんとよ」
 聖樹さんは何も言わなかった。女の人の言うことが、嘘なのか本当なのか、僕には分からなかった。
 しかし、隣で片づけをする要さんと葉月さんは、顰め面をしたり吐く真似をしたりしていた。女の人と接してきた大人の耳だと、出任せにしか聞こえないらしい。
 そこで僕は聖樹さんが心配になる。聖樹さんは大人でも、女の人にはほとんど接していないはずだ。騙されたらどうしよう。
「私、あなたのこと分かりたいの。あの頃の私は、何にも分かってなかったし、あなたにひどいこともした。反省してる。私、変わったのよ。信じて。あなたが何かに苦しんでるんだったら、私が助けたいって思ってるのよ」
 聖樹さんは無言だ。その緘黙が何なのか分からなくなってきた。もしかして、ぐらついているのではないか。聞こえるだけで、見えないのが歯がゆい。
 あの女の人は良くない人だ。沙霧さんもそう言っていた。そう、沙霧さんはあの人をついに許さなかったし、今でも憎んでいる。
 聖樹さんが騙されたら。あの人が部屋に帰ってきたら。僕は、聖樹さんが、沙霧さんが、当然自分自身が心配になる。そして何より──
 背中の悠紗の体温を感じた。そして、意識して気がついた。
 悠紗の総身が、こらえきれない震えをたたえていることに。
「悠──」
「帰ってよ!」
 しんと冷たいそこに、その悲鳴は大げさなくらい響き渡った。僕たちは悠紗を見た。悠紗は僕の背中をもがいた。あわてて僕は悠紗を地面に下ろす。悠紗は僕の手を引っ張って、両親のところに走った。
 女の人は聖樹さんの肩に手をかけ、聖樹さんの頬はこわばっていた。ふたりは、凄まじい敵愾心を燃やす悠紗を見た。悠紗の瞳には、本能的な憎悪が滾っていた。背丈に見合わず、信じがたくさえある憎しみが。それは迷わず、母親に突き刺さっていた。
「もう帰って! おとうさんがどんなに苦しいか分かんないくせに、助けるなんてふざけないでよっ。あんたなんかおかあさんじゃない、邪魔なんだから帰って、早くどっか行って、もう来ないで!」
 その憎悪は圧倒的すぎて、悠紗は幼さでは抱えきれないものなのだろう。悠紗は踏んばって僕の手を握りしめ、それでかろうじて立っていた。
 悠紗の眼には殺意さえちらついていた。誰かを──聖樹さんを守るための殺意だった。
 女の人はそれに衝撃を受けていた。悠紗の悲壮さには胸が痛んでも、それには心が冷める。この人には、衝撃を受ける権利もないのではないか。聖樹さんが肉体関係を拒んだからといって、赤ん坊だった悠紗も放って男と逃げ、その男とダメになったので恬然とすがたを現わし、果ては修復を迫る。
 悠紗の中では、母親について白紙だった。そのままだったほうが、どんなによかったか。これで悠紗は、母親への期待も希望も奪われた。悠紗は今ここで、母親と名のつく女性を、浅ましく憎むべき存在として書きこんでしまったのだ。
 みんな動けなかった。誰も通りかからなかった。片づけの音もやんでいた。ただ梨羽さんのすすり泣きが通り抜ける。重苦しかった。
 これを立ち直ってはならないのは、女の人だった。のろのろと去っていくべきだった。むずかしくはない。これで理解できないほうがおかしい。それほど、ここの憎悪や嫌悪は女の人に集中していた。その人さえ去れば、みんな悪感情を捨ててしまえた。
 しかし、最低は起こった。女の人は聖樹さんから手を離すと、あろうことか悠紗に微笑みかけた。

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