おかあさん
やがて、車はマンションに到着した。大量の荷物は、これから何回かに分けて部屋に連れていくそうだ。
普段は見張りとして置いていくのは梨羽さんひとりでも、今日は紫苑さんを付き添わせ、要さんと葉月さんのふたりで運び出すという。
それを聞くと、「梨羽とここにいていいよ」と聖樹さんは申し出た。要さんと葉月さんは顔を合わせ、聖樹さんは頼まれることになる。そんなわけで紫苑さんは荷物の運び出しに参加し、僕と悠紗はひと足先に部屋に帰った。
聖樹さんから預かった鍵を右手に、左手には眠たそうな悠紗を引いて、二階の鈴城家に向かった。一階や廊下は非常燈になっていた。鍵を開けてドアに滑りこみ、明かりをつけると、部屋の空気に肩の力を抜く。
時刻は一時を過ぎていた。
僕は悠紗を置いて上着を脱ぐと、あくびをする悠紗をとりあえず着替えさせ、トイレに行ったり歯を磨いたりさせた。全部終わると、悠紗は習慣のまま寝室に行った。
躊躇ったものの、僕もついていく。いつも聖樹さんがついていっているので、何か手が必要なのかもと思ったのだ。ここに来て一ヶ月近くが経ち、実はこの部屋に入るのは初めてだったりする。
真っ暗だったので、悠紗に右手にスイッチがあるのを聞いて、手探りで明かりをつけた。さっぱりした部屋の情景が浮かび上がる。シングルベッドがふたつ、クローゼット、窓がある。カーテンが開いているので閉めておいた。
悠紗は右手のベッドにのぼり、僕はベッドサイドに近寄った。ふとんと毛布をかけてあげると、悠紗は照れ咲いする。僕は咲い返し、出ていくかどうかを尋ねた。「寝るまでいて」と言われ、フローリングに座りこもうとする。その前に、悠紗があちらのベッドにあるリモコンで明かりを落としてほしいと頼んできて、そうした。
電気が橙々の非常燈になる。虹彩が仄暗さに慣れると、ベッドサイドの床に座りこんだ。
暗闇で悠紗の瞳が僕を捕らえていた。「眠たくないの?」と僕が咲うと、悠紗はあやふやにうなずく。身動ぎしたのか、ふとんとの衣擦れが聞こえた。
「疲れたでしょ」
「う、ん。あのね、萌梨くん」
「うん」
「萌梨くんは、おかあさん、好き?」
「えっ」
「おかあさん、出ていっちゃったんでしょ。それでもおかあさん、好き?」
悠紗を見た。
何をいきなり、とは思わなかった。果敢に聖樹さんを守ったとはいえ、母親との再会に悠紗も衝撃はあったに違いない。さすがに実の母親を憎むのには、人が何と言おうと、という態度を押し通すのに不安もあるのだろう。
「好きじゃないよ」
「ほんと」
「好きではいられないよ。でもね、僕がおかあさんを嫌いなのは、出ていったからじゃないよ。元から好きじゃなかった。おかあさんは僕を見てくれなかったんだ。何でも分かってほしいっていうのじゃないよ。母親として最低限のことも無視されてた」
悠紗は、シーツの上にあった僕の手を握った。僕は、僕でも包めるその小さな手を包み返す。
「それも合わせたら、嫌いとか好きじゃなくなってくる。何で、って思うよ。兄弟いなかったし、友達もいなくて、おとうさんはダメだった。守ってくれるのは、おかあさんだけだった。だから余計に、何で僕のことあんなに放り出したのかなって。好きにはなれなくても、嫌いだって思ってばっかりなのも疲れちゃうんだ。それで、きっぱり嫌いとも言えなくなってる」
「……そお」
悠紗は、複雑そうに空中に目をやった。悠紗にはむずかしいだろう。僕は相手に対しての感情が新鮮ではない。あれこれ思うのが憂鬱な心は、どうしても対象に鈍くいい加減になり、だるい無関心になってしまう。
「悠紗は、聖樹さんが言ってた通りでしょ」
「え、うん。あの人──へへ、おかあさんって感じ、ほんとにしないの、あの人はね、嫌いにならなきゃいけないと思ったの。おとうさんとおかあさんが仲良かったらなあって思ってたけど、あの人だったら仲悪いほうがいいやって。おとうさん、あの人にはもったいないでしょ」
僕はうなずいた。悠紗は天井に目を据えている。
「いらいらしちゃった」
「えっ」
「聞いてて。僕、ああいう人、一番嫌い」
「……うん」
「梨羽くんが泣き出しちゃう前、笑ってきたでしょ。ぞわっとしちゃった」
「僕も」と言うと、「ほんと」と悠紗は目を向けてくる。うなずくと、悠紗は嬉しそうに咲った。
「やっぱし、萌梨くんは味方だね。僕、あそこでそうならない人、嫌いだよ」
首肯しながら、梨羽さんも虫唾が走ったんだろうなと思った。垂れ流しの媚がうるさかったのだ。ただでさえ歌ったあとで過敏になっていたのに、梨羽さんには心をかきむしられる雑音だっただろう。そうでないと、歌うとき以外で梨羽さんがあんなに感情を表に出すとは思えない。
「いつから聞いてたの」と僕は訊いてみた。「萌梨くんにおんぶされて」と悠紗は答えた。僕がずり落としそうになっていたのが悪かったのか。謝ると、「起きてよかったよ」と悠紗は僕を制した。
「そ、う。おかあさん、ってすぐ分かったの」
「分かった、かな。うん」
「内容で」
「は、よく分かんない。おとうさんが怒ってたから、あの人はしょうもないことを言ってたんでしょ」
「ん、まあ。そう、なのかな」
「あのおとうさんの声、僕、憶えてたの。それに言い返す声も。それで分かった」
「憶えてる、って」
「分かんない。ぼおっと、何となく。赤ちゃんのとき、いつも聞いてたのかな」
僕は悠紗の手を包み直した。
そっか、と思った。聖樹さんも、あの頃さんざんやってうんざりしてると言っていたっけ。
「何か、嫌だよね」
「え」
「おとうさんがおとうさんなのはよくても、あの人は嫌だな。子供って、おかあさんのお腹から出てくるんでしょ」
「知ってるの」
「前ね、要くんが教えてくれたの。キャベツ畑とかくだらないって」
悠紗は伏目がちになった。悠紗の指は僕の指に絡み、離れるのを怖がっている。
「僕、あの人の中にいたんだよね。あの人から出てきて、ここにいるんだ」
しかし、悠紗は六歳だ。お腹から出てくる、というのも漠然とした心象だ。そしてそれは、かえって生々しくあの人の軆の中にいる自分を想像させるのだろう。
「あんな人って、知らなきゃよかったな。沙霧くんに訊いて、無理やりちょっと教えてもらってたけど。話だったら、ぼーっとしてたもん。あんなの嫌だよ。僕、嫌いな人とはつながるの切るけど、あの人はダメなんだよね」
「そんなことないよ」
「おかあさんなんだよ」
「僕は、親だからって親のこと好きじゃないよ。血のつながりで、気持ちを決めつけなくてもいいんだよ。それに、つながるのを切ったのはあっちなんだし」
「そう、なの」
「そうだよ。捨ててほかの男の人とどっか行っちゃって、それでも好きでいてもらうなんて都合よすぎるよ」
「……うん」
「僕もね、あの人いなくていいと思う。言う立場じゃないけど」
悠紗はかぶりを振り、「萌梨くんはあの人より僕たちのこと分かってるよ」と言った。僕はおもはゆく咲う。
「あの人がいたら、悠紗はこんなになってなかったかもしれないし」
「え」
「自分の思うこと通したり、嘘咲いしなかったり。あの人がいたら、そういうの全部もぎとってた気がする」
悠紗は一考した。そして同感に突き当たったのか、こくんとする。
「僕、今の僕が好き」
「うん。嫌いでいいんだよ。悠紗には、あの人はいらないんだ」
悠紗は笑みになると、「ほわいとかーねーしょんだね」と言った。僕は一瞬きょとんとして、すぐ咲ってしまう。
「萌梨くんもそうでしょ」
「うん」
「ほわいとかーねーしょんだ」
あのとき悠紗は髪を乾かしていたけれど、聞こえていたのか。母親を殺したいほど憎んでいる。悠紗は今日明らかにそうなったし、僕も精神力さえあればそうだ。
憎んでいる。母親を。死ねばいいぐらい。白いカーネーションを突きつけてやりたいぐらい。
「悠紗」
「んー」
「あの人にああ言ったの、僕もよく言ったって思うよ」
「え」
「あんなの、もしかすると大人でも怖くて言えないよ。強かった。聖樹さんのこと守ってた」
「そ、かな」
「うん。聖樹さんも、あの人がいなくても、悠紗がいればいいんじゃないんかな」
「そっか」と悠紗は安心した様子で、まくらに頭を沈めた。
【第七十六章へ】