風切り羽-77

楽になるのなら

 そうだよなあ、と思った。何であんな人を好きになれたんだろう、というのは間違っている。そもそも、聖樹さんは恋愛感情や情欲をつかむのが困難になっている。好きとかどうとか以前に、そういった感情がどんなものなのか聖樹さんは分かっていなかった。さまざまな不可解は、初恋だからという理由で片づけ、未だに経験がない周囲とのずれも瞳を混濁させた。
 あの人はそれらに、意識的にではなくとも、つけこんだ。つまり聖樹さんは、分からなかったから流され、暗示をかけられるままにこれは恋愛だと思いこんだのだ。まるで子供の頃みたいに──そう想到したとき、わずかにぞくりとした。
「悠紗は、十九のときにできたって」
「僕は誕生日十二月なんで、悠が生まれたのは正確には十八のとき。あの子は九月生まれなんだ」
「……十八」
「すごいよね。今考えると、何でそんなに突っ走れたんだか。彼女は加減なしに僕を引っ張りこんで、僕はそれにどこから抵抗すればいいのか分からなかった。それでも、子供ができたって聞いたときには、頭の中が真っ暗になったよ」
「嫌だったんですか」
「嫌、というか、まさかそんなに早く父親になるなんて思ってなかったし。十八の学生だったんだよ。こんなの、絶対悠には言えないけど、堕ろすお金もないとかとっさに思った」
「………、学生、っていうと」
「高校生だよ。聞かされたときは、受験がやっと片づいた頃」
 受験なんて言葉を使われると、妙に生々しかった。確かに、経済力も責任感も満ちた年齢とは言えない。
「堕ろさなかったんですね」
「彼女が成人して働いてたしね。僕もどこか新しい居場所が欲しかったのかな。僕が高校卒業して、結婚したんだ」
 僕はお茶を飲むと、子供ができないようにはしなかったのかをぼそぼそと訊いた。僕の様子に聖樹さんは少し笑み、「したりしなかったりだったよ」と言った。
「したり、しなかったり」
「僕、そういうときには、相手の言うままになるんだ。完全に受け身で、彼女がつけないでっていったら逆らわずにつけなかった。小さい頃のまま。舐めろっていわれたら舐めたみたいに、僕は彼女の言いなりにしかなれなかった」
「そう、ですか」
「彼女、変わってなかったな。結局持ってきたのはそういう話だったね」
「あ、まあ」
「彼女の関心はそれだけだったんだ。何で僕があんなにセックスに拒否反応があるのか。探りたくなるくらいひどかったのは確かだよ」
 聖樹さんは僕を見る。僕はこくんとした。吐き出したほうがいいと思うなら、そうしたほうがいい。不快な記憶であればあるほど、楽になるかもと考えること自体、稀なのだからそうすべきだ。
 聖樹さんは、スプーンをピラフの中で逡巡させる。
「分からないうちは、僕自身、病気なのかと思ってた。自分で動くのが怖くて、でも彼女に優位に立たれると頭が真っ白になる。最初はそうでもなかった。どんどんそういうふうになるのは強くなっていった。怖くて気分が悪くなったり、いつ終わるんだろうって気が遠くなったり。彼女に何かしてって求められても、僕には男としての主導権がちっともなかった。言われるままの受け身にしかなれなかった。ぐちゃぐちゃになりすぎて、途中で泣き出して、『勝手に使って』って言ったこともある。触られて、押し退けたくてたまらなくなって、でも動けなくて最後まで言いなりになるしかなかったのなんてしょっちゅうだよ。彼女の波に合ったことは一回もない。肌をさすられて心臓がすくんだり、口をつけられて動けなくなったり、息遣いが耳鳴りみたいに聞こえたり、たまに使える状態になったと思ったら勝手に終わったりね。終わったあとはぐったりして、吐くようにもなった。で、いつか終わったあと『助かった』って思ったんだ。無意識に。心底から。それであのことを思い出して」
 聖樹さんはうつむいた。短い沈黙ののち、「すごくつらかった」とつぶやく。
「彼女とそういうことするのも。女なのに。男じゃないし、まさかあの人たちでもないのに。分かったあと、何回もそう言い聞かせたよ。ぜんぜんダメだった。むしろ、分かった途端、閉じこめてたものがあふれてきて、錯覚するときとかも出てきて。息とか手触りとか、あのときのに似てるんじゃないかって思ったら、ダメなんだ。感覚が現実より記憶に走る。笑い声の幻聴とかがするときもあった。怖くて、だから余計に戻したりするのが激しくなった。死にたい、とかも思うようになった」
 記憶が鮮烈になったのか、聖樹さんは緘黙した。
 それに対してどうしたらいいのか、何かすべきなのかも分からなくて、僕はただ見つめた。僕自身、動揺していた。
 僕としては、憂鬱にならざるを得ない話だった。僕も将来、女の人とそうしたとき、そういう状態に陥ってしまうのか。まあ、それはいい。したくなければしなければいいのだ。仮に僕に好きな人ができたとして、その人にもそうなってしまうのだったら怖い。
 本気で好きで、軆を許したい人にも、そうやって嫌悪を感じてしまったら。無論、もともと僕が恋愛感情を抱く甲斐性を踏み躙られているとも思う。というより、恋愛したら軆を開かなくてはならない、その等式によって恋愛が怖いのだろう。
 いまどき、精神愛をつらぬく人なんかいない。あのときは勝手に聞こえたものの、あの女の人の言う通りだ。誰だって、好きな人の軆は欲しい。
 そこまで思い、僕を好きになる人なんかいないかと気づいてしまった。自覚すると、みじめな落胆と傷口がごっちゃになって、息をつかされた。
 上目をすると、聖樹さんは僕を窺っていた。「気に障ったかな」と心配そうに問われ、慌てて首を振る。それでも聖樹さんは不安げだったので、ひとつ気になっていることを訊いてみた。
「あの、そういうことのせいだって分かったら、あの人にそういう理由があるって話したんですか」
「ううん。彼女が理解してくれるような人じゃないのは、さすがに分かってたし」
「そう、ですか。じゃあ別れたのは、その、そういうのがダメになってからなんですね」
「うん。毎日、今日みたいな喧嘩して、嫌になってた。口論したら、彼女には黙ってても、こういうことがあるんだって頭にはよみがえってくるでしょう。それで精神的にもつらかった。感情に走ってるあいだはともかく、冷めたらどっと疲れが来る。そんなのが毎日だった。毎日、一日のほとんどが真っ暗になってた」
 毎日。あの鬱が毎日続く。
 考えたくもなかった。僕だったら耐えられない。きっと建て直しを鬱が追いこし、食いつぶし、無気力は麻痺の死につながるだろう。
「別れた切っかけはあったよ。ぎりぎりの糸を切ったこと。張りつめて弾けたんじゃないんだ」
「そう、なんですか」
「僕は平気ではいられなかった。軆はだるいし、頭の中は乱れっぱなしで、専門に通いながらバイトもしてた。精神的にも肉体的にもきつかった。追いつめられてたよ。死ぬしかないとは何回も思った」
 聖樹さんは静かにカップをテーブルに置く。
「あのとき話したかな。僕、初めてそういうことしてきた担任の先生に、手を使わされたんだ。その感触が手のひらから消えなくて、いまだに残ってて、手を切り落としたくなるって」
「……聞きました」
「そのせいかな、死ぬって思ったら、真っ先に浮かぶのは手首を切ることなんだ。自分では分からないところで、どうせ死ぬなら切り落として死のうって思うのかもしれない。そのときもそうだった。手首を切ってお風呂につけてた。もう全部嫌だった。彼女と口論するのも、眠るのも削って勉強して働いて、たまに眠れたと思ったら悪い夢しか見ない。怖かったんだ。このまま堕ちて、これ以上苦しくなるのが。死ぬしかないと思った。悪い夢見たあとで、夜中だったな。けっこう深く切ってて、血は止まらなくてお風呂も赤くなっていってた。今こんな落ち着いてると、ぞっとするけど、それ見てるとほんとにほっとするんだ。これで終わりだって咲いそうになる。ずきずきしてるんだけど、その痛みが嬉しい。危ないよね」
 かぶりを振った。聖樹さんは僕を見つめた。取りなしの否定ではなかったので、「そうならないほうが危ないです」と僕は気持ちを説けた。

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