風切り羽-78

終わりの理由

「終わるって思ったときぐらい。それでも無理して抑えつけてるほうが怖いです。僕も、死ねたらって思うと楽ですし」
「……そっか。それでね、そこを彼女に見つかったんだ」
「あの人、に」
「うん。よく憶えてるよ。『何してるの』って言われて、びくっとした。明かりがついてなくて暗かったんだ。頭がぐらぐらしてて、声だけだと誰だか分からなかった。先生か、先輩か、クラスメイトか。そんなのが反射的に巡った。明かりがついて悲鳴がした。僕は力が抜けてて動けなかった。誰かが僕の左腕を水から取り上げて、ぼうっとしてる僕の頬をたたいた。目が覚めて、相手が彼女だって分かった。『何バカなことしてるの』って彼女はわめきだした。僕は聞いてなかった。“バカなこと”っていうのに頭を殴られた気がしてた。彼女はまた“バカなこと”って言った。“くだらない”とも言った。僕はつかまれてる手首を、切った手で彼女を押し退けた。痛かったけど、構わなかった。彼女の服に気味が悪いくらいべっとり血がついた。それで僕は、『バカなんかじゃない、君に何が分かる』って言った」
 そう言った聖樹さんの気持ちは分かった。僕だって、自殺しようとするのをバカなことだとされたら許せない。
「彼女は一瞬黙って、またわめきだした。次は聞こえなかった。昔みたいな気持ちだったよ。犯されたあと、辱められたって感じで。死のうとしてる一番弱いところを、彼女に割って入られた。それを“バカ”のひと言で片づけられた。“くだらない”で済まされた。昔、僕が隅で泣いてたら、『何で泣いてんの』ってファスナー上げながら平然と言ってきた人みたいに」
 聖樹さんは少し黙る。僕も黙っていた。いまだに僕は、ひどいことをしたくせにそう言う人が信じられない。
「『あなたが何にも話してくれないから分からない』って彼女は言った。それはその通りでも、そう言える神経が冗談じゃなかった。僕にとって、あのことは誰にでも話せることじゃないんだ。僕が隠してることがそんなにひどくないと思ってたのか、自分は打ち明けられるべき相手だって思い上がってたのかは分からない。どっちにしろ、たくさんだった。僕は彼女が何か言ってるのを無視してた。血が止まってなくて、タイルが真っ赤になってた。彼女は一方的にまきちらす中で、僕と結婚しなきゃよかったとか、あんたは役立たずだとか、ほかに役に立つ男がいるとかもぶつけてきた。僕は何とも思わなかった。だるくてたまらなかった。彼女は何言っても僕が反応しないのを理解したら、悠紗を連れて出ていった」
 顔を上げた。聖樹さんは睫毛の角度を下げていた。「悠紗も」と僕が言うと、聖樹さんは顔を上げてうなずく。
「そしてそのあと、その男とね」
「悠紗も連れていったんですか」
「いや、僕の実家に離婚届と一緒に置いていった」
「あっさり、聖樹さんのほうに」
「うん。僕も専門を卒業して働いてたんだ。収入の安定の問題もあったし、それより、彼女はその男との子供を身ごもってた」
「……子供」
「うん。今日は連れてきてなかったね。置いてきたのか、生まなかったのかは知らないよ」
「そうですか」とため息のように言った僕に、聖樹さんは咲う。
「ごめんね。嫌な話で」
「いえ。いろいろあったんですね。なのにあの人、ここに戻りにきたんでしょうか」
「だろうね。彼女、僕のことしか浮かばないって言ってたよね。当たり前だと思うよ。自分の言うことを何でも聞く男って基準にすれば、浮かばないわけがないよ」
 そういうことか、とうなずけた。いや、あの人はそんな意味で使ったのではないだろうが、聖樹さんのところに逃げこもうとした基準はそのへんに違いない。
「彼女、僕が突っぱねるなんて思ってなかっただろうね」
「聖樹さんは、何言われても断るつもりでした?」
「たぶん。……頼りないね。でも、ほんとに分からない」
「そう、ですか。今日は迷いましたか」
「実はね」と聖樹さんは意外な白状をする。
「僕は彼女と顔合わせるのはごめんだったよ。御託並べられてるのも分かってた。向こうで葉月が吐く真似もしてたし」
 咲ってしまい、聖樹さんも咲う。
「ただ、悠を想うとね」
「悠紗」
「悠には母親がいたほうがいいのかなって思った。それで、正直迷ったよ。僕がどんなに嫌でも、悠にそのほうがいいんだったら押し殺してもいいって」
 そっか、と聖樹さんの読めなくなった沈黙がよみがえる。騙されてぐらついたのではなく、悠紗を想ってぐらついたのだ。
「じゃあ、悠紗がああ言ったのは」
「すごく助かった。悠が嫌なら、たとえ僕がよくても、いてほしくない。もちろん悠には、僕が嫌だから自分も嫌だっていうのもあったよね。そこまで僕を汲み取ってくれてるんだったら、甘えるのが正解だと思った。それにやっぱり、悠紗には僕を守りたいってだけじゃないものもあった。怖かったよ。あんなに小さい子が殺意に近いもので踏んばって。彼女を突き放したのは、悠紗のその気持ちをすくいとったのもあるし、父親としてそんなものをそれ以上体感させたくないのもあった。だから、はっきりああ言えたんだ」
 聖樹さんはお茶で喉を潤すと、口元に笑みをこぼす。
「僕ひとりだったら、昔と変わらずに流されてたかもね。悠のおかげだよ」
「です、ね」
「それと、萌梨くんのこともあったよ」
「え、僕」
「ここに来たら彼女、絶対萌梨くんを詮索して追い出そうとする。それは萌梨くんが困るし、僕も困る」
「聖樹さんも、ですか」
「うん。彼女より萌梨くんがいてくれたほうが落ち着くんだ。こんなふうに話したりできる。ほんとに、僕には萌梨くんって貴重なんだよ。こんな私的な話、誰にもできなかった」
「はあ。あ、えと、僕も聖樹さんと話すの楽しいですよ」
 深刻な話を謝罪されるのを先読みして、そう牽制しておく。楽しいという言い方は不謹慎かもしれなくとも、吐き出して聖樹さんが楽になり、安らいでくれるのは僕の心も休まる。
 聖樹さんは、僕の計らいを察したのか微笑んだ。
「ありがと。僕も聞いてあげなきゃいけないのにね。ほんとに、僕のほうが甘えてばっかりだな」
「甘えてください」と僕が言うと、聖樹さんははにかみながら咲う。
 本心だった。聖樹さんは甘えてもいい。この人は僕の倍ぐらいの年月、ほとんどひとりで痛みを溜めこんで苦しんできた。そろそろ、誰かによりかかってもいい。
 口にするのも怖かったことを、僕になら唇に綴って安らげるのなら、利用してほしかった。自分が苦しいぶん、気持ちにゆとりができるのがどんなに大切かは知っている。
 それに、僕だって聖樹さんに甘えている。こうしておっとりした空気に包ませてもらったり、僕こそ父親に怯える神経質な不安をよく語るし、無論、生活的なこともある。そのへんを合わせても、聖樹さんが僕に気を楽にする甘えを求めるのは正当だ。まだお金も入れられないし、自分を持て余してろくな包容力もない。話を聞くぐらい、じっくりとしたかった。
 そのへんを言うと、聖樹さんは咲ってうなずいた。僕はピラフの最後のひと口を食べる。聖樹さんも、音を抑えてピラフをひとかたまりに集めた。
「僕、正しいことしたんだよね」
「えっ」
「悠紗も彼女はいらなかったし、萌梨くんともいられる。あの四人には褒められた。沙霧も安心してくれるだろうし」
「………、聖樹さんは」
「え」
「聖樹さんは、あの人を追い返してよかったと思いますか」
「それは、もちろん」
「だったら、誰が間違ってるって言っても、それが正しいと思います」
 聖樹さんは僕を見つめた。僕は愧笑して、「キザですね」とつけくわえた。聖樹さんは笑んで首を振ると、「そうだよね」と言った。
「ありがと。萌梨くんがいてくれてよかった。彼女よりずっと」
 聖樹さんも最後のひと口をふくんだ。僕はお茶を飲む。気づくと、二時半もまわっていた。
 僕がいたほうがいい。聖樹さんにも言われてしまった。僕はやはり驚きと、今回はそれに安堵も綯混ぜにする。そういうふうに思ってもらえるのは嬉しかった。僕もここにいて、聖樹さんと悠紗がいてよかったと思う。ふたりにそう言ってもらえるのは、何より贅沢に僕を安心させる。
「寝なきゃね」と聖樹さんは立ち上がり、僕もカップを置いた。聖樹さんが食器を洗おうとしたけど、それは僕が引き受けた。「僕は明日休めますから」と言うと、聖樹さんは考えてうなずいた。
 聖樹さんは着替えや歯磨き、トイレに行ったりして、僕のふとんも敷いてくれた。食器を片づけた僕も、急いで寝支度を済まし、「おやすみなさい」と僕たちは別れる。
 ふとんにもぐりこんだ僕は、いつものくせですぐには寝つけなかったけれど、悪いものに取りつかれる前には意識を失ってしまえた。

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