その日、また敦海さんがバイトの女の子のミスを回収して、私に押しつけてきた。やっぱり食事は断る私は、息をつきながら、おかげでその日は残業していた。
五月の下旬で、すでに暑さを感じる夜だった。敦海さんはいつも、こういうとき、手伝いはしないくせに自分も残っていろいろ話しかけてくる。私は無視か、受け流すかしながら、キーボードをたたく。
「早永さんって、男に興味ないの?」
ついにオフィスにふたりしかいなくなると、敦海さんは隣のデスクの子に椅子に腰かけてそんなことを言ってきた。私は敦海さんを一瞥して、「ありません」と画面に目を戻す。
「そうやって、いつも男のこと振ってきてるらしいね。松園くんに聞いたよ」
書類をめくり、PC上のデータのミスを確認していく。
「もしかして女の子のほうが好き?」
「そう思えばあきらめてくれるなら、そう思ってください」
「うーん。ビアンの友達いるけど、やっぱ早永さんはストレートかな。処女じゃないでしょ?」
数字を打ち込み直しながら、時計をちらりとする。十九時半をまわっている。二十時には終わらせたい。
「色気がやっぱ男に向かってんだよね。彼氏いるとか?」
「気が散るので、おしゃべりするだけなら帰っていいですよ」
「帰り道が一緒なら、飯ぐらい一緒に取るでしょ。おごるよ」
「家族が待ってるので」
「ひとり暮らしすればいいのに」
無視することにした。無表情のまま、書類にときおり目を落としながらデータを修正していく。敦海さんはまだ何か言っていても、聞こうとしなければ私の鼓膜は音声を漂白できる。
燐は今日で中間考査が終わると言っていた。大学に進学しろと教師がまだうるさいとぼやいていた。
就職なのかフリーターなのかを訊くと、就職したいらしい。「大卒のほうが採用されるのに」と言ってみても、実際私がバイトから就職になってしまったので、大丈夫だと思わせてしまっているようだ。バイトから社員になったって、新人あつかいの期間もないだけに厳しいのに。
二十時になる二分前に、何とか仕事は終わった。どうせいるのだから、「チェックお願いします」とやっと敦海さんを向いた。敦海さんは、子供のようにつまらなさそうな顔になって、「はいはい」と椅子を立ってPCを覗きこんでくる。
「敦海さんのPCに、データ送りますよ」
「あー、いいよ。このままチェックさせて」
私の手に手を重ねてマウスを動かし、一応、仕事はきちんと真剣なまなざしで目を通す。
耳に、肩に、腕に、敦海さんが近い。わずかに眉を寄せながら、マウスで重なる手を引こうとすると不意に指をつかまれた。
「……離してください」
「気になるなー」
「何がですか」
「早永さんが夢中になってる男」
「そんな人、いません」
敦海さんが首をかたむけ、至近距離で私を見た。私は眼鏡のレンズ越しにそれを見返す。
「このまま、キスしてもいい?」
「させたらあきらめますか?」
「もっと好きになるね」
「じゃあ、遠慮します」
強引に手を引き、椅子からも立ち上がった。「座ってゆっくりチェックしてください」と言い残すと、私はポーチを手にしてオフィスを出た。
廊下はわりとひんやりしていた。スマホを見ると、燐からメッセが来ている。
『カラオケにつきあわされてる。
帰り遅くなるかも。』
着信時刻は“18: 35”──一時間半前か。夕食はいらないとは書いていないので、念のため用意しておかなくてはならない。何にしようかな、とぼんやり考えながら更衣室に入り、制服を脱いでカジュアルスーツになる。
燐は友達とかいるんだな、と思った。このあいだは、告白なんかもされていたし。私は燐だけなのに。
オフィスに戻ると、敦海さんが私のデスクからにこにこしてきた。「どうでしたか」とヒールを響かせながら歩み寄ると、「早永さんはすぐ社員に昇進するだろうね」とどうやらOKだったらしいことを言われた。
それなら、もうこれ以上の残業もない。私はタイムカードを切って、「じゃあ失礼します」と頭を下げた。
「また僕のこと置いて帰るの」
「女性と食事したいなら、私に期待しないでください」
「けっこう本気なんだけどなあ、早永さんのこと」
「私じゃなくても、敦海さんなら相手も多いでしょう」
「早永さんは、そのへんの女性と違うから」
「……そうかもしれないですね。では」
おもしろくなさそうな敦海さんを放って、私はつかつかと職場をあとにした。
人通りが途切れる時間帯ではない。コンビニや居酒屋が明るく、駅に近づくほど、オフィス街と隣り合わせの歓楽街からのキャッチも増える。
それをよけ、各線への乗り継ぎにもなる最寄り駅に着くと、広い構内を歩いていく。自宅の最寄り駅がある路線の改札にたどりつき、カラビナでバッグにつないだICカードを手にして、ホームに向かおうとしたときだった。
「もう帰るの?」
「うん。ごめん」
「ごはんだけ食べていかない?」
「今晩いらないって連絡すんの忘れてるから」
「……つまんない」
「また学校で会えるだろ」
「明日は試験休みだもん。あ、デートしようよっ」
切符売り場のかたわらで、壁にもたれた男の子に女の子が抱きついて話をしている。どこにでもいるな、とそのふたりをちらりとして、歩調が引き攣った。手は恋人つなぎで、顔を寄せ合っている。
私服だから、一瞬気づかなかった。けれど、気づいて心臓が硬くなった。
燐──
ぱっと顔を伏せて、気づかれる前に改札を抜けた。心臓が一気にどくどくと痙攣して、息が苦しくなってくる。
ここで乗り換えて、燐はさらに遠くの高校に通っている。だから、あの駅にいてもおかしくない。遅くなるとメッセだって来ていた。まだ友達といても不自然でもない。
──……“友達”?
ラッシュは過ぎた電車に揺られているあいだ、視覚がちかちかして、意識を取り落としそうだった。座席に座って、何とか自分を握りしめた。それでも、つながれた手や、近いふたつの顔が、揺れる電球のように不穏に浮かんで胸を締めつける。
駅に着き、マンションへの夜道を歩いていて、男とすれちがうと異様な不安を覚えた。酔ってもいないのに足元がふらつく。
部屋に到着すると、室内は真っ暗だった。燐のスニーカーもない。
スーパーで買い物してくるのを忘れた。時刻は二十一時前だった。まだ空いているスーパーが近くにある。でも玄関に座りこんで、膝を抱えた。
燐には燐の世界があるなんて、当然のことだけれど。私のように拒絶しろなんて、言えないけれど。それでも、燐が私以外の人と親しくすると気分が悪い。
どうして、燐が他人と親しくできるのか分からない。私は燐だけのもの。燐は私だけのもの。その絆が、私を何とか生かしている。
依存かもしれない。ゆがんでいるかもしれない。でも、燐が私を殺さなかったのだ。燐が私を死なせなかったのだ。
いつでも、死んでいいと思っている。だけど、燐がそばにいるから。なのに、燐が遠くにいったら、私はどうすればいい?
玄関のマットに横たわって、明かりもつけずに緩い息遣いと重い鼓動を聴いていた。かちゃ、と鍵を開ける音がしても反応せずにまぶたを弛緩させていた。
ドアを開けたのはもちろん燐で、私を見つけても何も言わず、後ろ手にドアを閉める。「ねえさん」と燐に人形のように抱き起こされ、それでもぐったりしていると、燐は私のまぶたに口づけてポニーテールをほどいた。
「また、男に言い寄られた?」
燐の胸から、知らないにおいがする。柑橘系のわざとらしい女の子の香りだ。私は燐を押し退けて、靴を脱ぐと立ち上がった。
「何にもごはん作ってない」
「外に食べに行く?」
「食べたくない」
「ねえさんはちゃんと食べなきゃ」
「平気だよ。燐は何か食べたいなら、お金あげるから好きなの買ってきて」
バッグをたぐりよせて、財布から一万円を引き抜くと燐に投げつけた。そして、背を向けて廊下を抜け、リビングの明かりをつけると、床にバッグを放って着替えずにカウチに腰を下ろす。
お金を拾った燐は、何も言わずに家に上がってキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。それから、私の隣に座って「いらない」とお札を握らせた。
燐の手の中では、林檎が甘く香っている。しゃり、とそれをかじった燐は、少し噛んで、私に口づけて口移しで食べさせた。広がった瑞々しい酸っぱさを、私はおとなしく飲みこむ。
燐は何度も私の口の中に噛み砕いた林檎を流しこみ、ふたりでひとつの林檎を食べた。林檎が芯だけになると、私はやっと無性に刺々していた気分が落ち着いてきて、燐の肩にもたれかかった。
「女の子といるの、見たよ」
「つきあいはじめたから」
「……そっか」
燐は私の肩を抱いて、髪に指を通す。顔を覗きこまれて、見つめ返すと唇に唇が触れる。林檎の酸味が残っていて、唾液に絡みついている。音を立てて舌をむさぼって、胸のふくらみからスカートの中へと燐の手が移る。ストッキングの下着の上から、燐の無骨な指先が熱を灯す。
私は燐のTシャツを脱がせて、汗の匂いがする胸の筋肉に顔を伏せ、温かく柔らかい素肌を舌でなぞった。新鮮な汗は、塩の味がする。燐の脚のあいだに手を這わせると、張りつめて硬い。
私は燐の腕の中をすりぬけると、床にひざまずいて燐と向き合い、ジーンズのジッパーを下ろした。下着から取り出したものは、私の指が脈に触れてもっと硬く大きくなる。浮かぶ血管を舌でたどり、根元を締めつけるようにしごいて、透明に先走る先端を口の中に包みこむ。
燐の息がちょっと崩れて、刺激するとときおり小さくうめく。舌を伸ばして、たっぷり湿り気を絡みつけ、反り返るくらい猛ったものを優しく手のひらでさする。
燐の反応で、私の脚のあいだが切なく疼く。じわりと熱で濡れるのが分かる。私が立ってストッキングと下着を脱ぐと、燐がスカートをたくし上げて太腿をつかみ、私の核を口に含んで入口を丁寧にほぐした。蕩けるような波が、核を息づかせる。
燐の名前を呼ぶと、燐は私を抱き寄せて、自分を私の入り口に当てがった。私はそのままゆっくり腰を落とし、息をもらしながら、燐が奥深くまで届くのを、引き攣る体内でしっかり感じる。
私が緩やかに上下に動いて、燐も私を抱いてぐっと突き上げる。受け入れた燐の太い脈打ちが核に響いて、壊れそうな細い喘ぎがもれる。
燐の首を腕をまわし、その耳たぶを食んで声を抑えながら、溶けそうに熱く、揺らめく快感に頭の中は白くなっていく。燐も私を抱いて、服の上から乳房をつかんで指を食いこませる。
私は燐の肩に手を置いて、その顔を見つめた。気だるいまぶた、弧を描く眉、寡黙な口元。燐の視線も、私に向く。私しか映っていない瞳なのに、何だか、今日はやけに遠く感じた。快感だって、いつもはもっとあふれるように敏感で野蛮なのに、微妙な膜を感じる。
燐は、私を抱いているのだろうか。あるいは、あの女の子を重ねているのだろうか。分からない。燐の瞳が読めない。
それがすごく不安をあおって、私は顔を伏せて、視界を哀しく滲ませた。「藍」と燐が私を名前で呼ぶ。私はもう一度、燐と瞳を重ねた。燐の表情はぼやけて見取れない。
「……怖い」
「どうして」
「私、死ぬの?」
「………、」
「死んだほうがいいの?」
燐は私を抱き寄せ、頭を撫でた。私も燐にしがみつくと、その背中に幾筋か涙を伝わせた。
燐は私を少し持ち上げ、つながるままカウチにそっと押し倒した。そして私の胸をはだけさせ、乳首をついばんで強めに私の奥を突く。その強さが私をつらぬいて、核から甘い痺れが広がり、白い乳房まで揺すぶる。取り留めなく声が落ちて、止まりかけていた愛液がまた熱と共に湧き上がってくる。
燐をぎゅうっと締めつける自分が分かった。燐の律動が徐々に過敏な糸をたぐりよせ、私はまだどこかで乾燥しながらも、何とか息を切らして集中する。
離さない。燐のことだけは、誰にも渡したくない。燐のことだけは、受け入れられるから。
でも、燐にとって、私は……
ずっと信じてきたその答えがつかめず、私は泣きながら燐の動く肩胛骨をつかんだ。この体温が、この感触が、私を支えているのに。燐は、私のことなんか、いつだって放り出せるのかもしれない。
燐。ほかの女なんて見ないで。ずっと私だけでいて。そう約束したはずでしょう? 私たち、永遠に離れることはないのでしょう?
あんまりよく見なかった、燐といた女の子を思った。この軆に抱きついて。甘えた声を出して。手をしっかりつかんで。死ねばいいと思った。
燐を渡すものか。燐はずっと私のものだ。あんな女、喉を掻っ切って、心臓を引き裂いて、内臓を抉り出して、ただの肉片になるまで殺したい。私から燐を奪うなんて、絶対に、絶対に、許さない。
燐を愛していいのは、この世で私だけだ。燐の瞳に映っていいのは、世界中で私だけだ。
それが間違いだというのなら、いっそ燐に殺されてしまいたい。
【第三話へ】