その朝は雨が降っていた。駅からの五分間だけ、傘もさしていたのに、けっこう濡れる雨だった。
少し寒くて、肩をさすりながらエレベーターに乗り込むと、「乗ります!」という声がして閉じるボタンに伸びかけた手を止める。乗りこんできて、私ににっこりしたのは敦海さんだった。
「おはよう」
「おはようございます」
敦海さんはエレベーターの扉を閉じる。敦海さんのスーツの肩も湿っている。
「濡れてますよ」
私はバッグからハンカチを取り出して差し出した。「どうも」と敦海さんは遠慮なくハンカチを受け取って水気をはらう。
「今日はついてるな。朝から早永さんと密室」
敦海さんを見上げた。敦海さんは屈託なく咲って、「はい」とハンカチを返してくる。私はわずかに迷ったものの、そのハンカチを受け取って、静かに言った。
「今夜は」
「ん」
「家で食べない、って家族に言ってきました」
「え」
「だから、おつきあいできますけど」
敦海さんは私を見た。私は無表情のまま、到着して開くエレベーターの扉を見た。エレベーターホールに踏み出そうとすると、敦海さんは素早く閉じるボタンを押す。扉が閉ざされ、また密室になる。
「えっと……」
敦海さんは視線を迷わせてから、私を見直す。
「どっかでは、無理なんだって思ってたけど」
「敦海さんが、もう乗り気でなければ」
「そんなことないよっ。え、マジで?」
「はい」
「早永さんって、正直、僕のこと嫌いでしょ?」
「そんなことは」
「一度食事しておいて、それっきりにしろって言うなら、」
「それが通用するなら、とっくに食事してます」
敦海さんは口元を抑えて、また視線をそらした。ふっと、エレベーターが動いて下降を始める。誰かがボタンを押したのだろう。
「誰か乗ってきますよ」
「何か、あったの?」
視線を再び合わせた敦海さんを、見つめる。私は一度まばたきをしてから、睫毛をかすかに伏せた。
「……寂しいと思っただけです」
「寂しい」
「敦海さんなら、私のこと──」
ベルが鳴って、エレベーターが一階に到着する。待っていたのは、さいわい同じ部署の知り合いではなかった。敦海さんは私の腕を取り、エレベーターを降りて郵便受けの前まで連れていった。
「信じないかもしれないけど」
敦海さんは私の背中を壁に当て、真剣な瞳で言う。
「僕、ほんとに早永さんのこと好きだからね?」
「そうみたいですね」
「食事のあとも、分かってる?」
「はい」
「本気だよ?」
「知ってます」
敦海さんは長いため息をついた。そして天井を仰ぎ、「くっそ……」と顔を背けてからつぶやく。
「どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい」
笑みを噛みしめる敦海さんを見つめていると、敦海さんはやっと軆を離して、「じゃあ」と私の頬に冷えた手を添えた。
「約束だよ、今夜」
「はい」
「楽しみにしてる。──行こう」
そのまま、敦海さんは私の手をつかんでエレベーターホールに戻った。私は引っ張られながら、こうするしかない、と思った。こうでもしないと、本当に、頭の中がたたきつけたガラスのように砕けてしまう。
その日も、無機質に仕事を片づけた。敦海さんはもちろん嫌がらせの雑務なんか持ってこなかった。定時で仕事が終わる頃、いつも敦海さんを通して私に仕事を押しつけていた井崎さんが、何やら勝手にわめいていた。
でも敦海さんは取り合わず、私服になった私を一刻でも早くといった様子でオフィスから連れ出した。歓楽街の中の料亭の前で、「ここおいしいから」と手を引かれる。
「高そうですけど」
「僕がおごるから気にしないで」
「いらっしゃいませ」と迎えた着物の女の子に案内されたのは、テーブルでなく個室の掘りごたつだった。メニューを見たけど、よく分からないので敦海さんに任せた。運ばれてきたのはお刺身の造り、海鮮の生春雨や天ぷらだった。あんまり食べる機会のないものが多かったけど、確かにおいしかった。
「敦海さん、いつもこんなの食べてるんですか」
「まさか。ここは部長が接待するときよく使ってる店。おいしいでしょ」
「はい」
「いつもはコンビニ弁当とかインスタントだよ。早永さんは、普段ご家族とだよね」
「そうですね」
「じゃあ、おかあさんの手料理?」
口ごもった。不意に今朝の燐の言葉がよぎった──
『今夜、彼女といるから遅いかもしれない』
「両親とは暮らしてないんです」
「え」
「高校生の弟とふたり暮らしで」
「そうなの」
「でも、弟に彼女ができちゃったんです」
「ああ、それで『寂しい』──か。けっこうブラコンだったの?」
「かもしれないです」
「ふうん。妬くな、弟くんに」
「弟には私は何でもないんでしょうね」
「早永さんも、弟くんをないがしろにしてやればいいんだよ」
敦海さんを見た。敦海さんは淡々とした表情で、お刺身を醤油に浸して頬張る。
「僕とのこの食事は、弟くんの気を引きたいから?」
「……不愉快ですよね」
「構わないよ。僕は大事にするけどね、早永さんのこと。よそに彼女作ったりもしない」
「弟が彼女作るのは、あの子の勝手の話ですから」
「それでも、早永さんには大事な存在なんだろう? ご両親とは離れてるなら、なおさら」
「………、」
「僕は早永さんのそばにいたいと思ってるよ」
「敦海さん……」
「早永さんのこと、本当に、好きなんだ」
私はうつむいた。
心はびくともしない。何も感じない。言われたいことを言われているのに。むしろ心は、黴が生えるように黒ずんで吐き気を催してくる。
どうして。どうして私は、こんなにもあの子以外は気持ち悪いのだろう。
食事が終わると、敦海さんは私の肩を抱いて歩き出した。小雨が降っていたけど、傘をさすほどではなかったからそのまま歩いた。ホテル。敦海さんの部屋。あるいはそのへんの路地裏かとも思ったけど、連れていかれたのは駅前だった。
私は敦海さんを見上げた。「僕は早永さんを大事にするって言ったでしょ」と敦海さんは微笑んで、軆を離した。
「好きだよ」
喉の奥が痙攣する。
「だから、僕のこと、まじめに考えてね」
敦海さんは私を一瞬抱き寄せて、「僕は会社に車置いてるから」と身を返して、イルミネーションの雑踏に紛れこんでいった。私は髪が湿っていくのに、寒気も忘れて突っ立っていた。
好き。
『好きだ』
違う。
『いい子だ』
ダメ。
『お前のことが好きだよ、藍』
突然、食べたものが喉から逆流しそうになる。
あの影。私に刺さる影。抑えつけ、侵入し、動く影。
無理だ。どうしようもなく、無理なのだ。
燐じゃないと意味がない。燐以外に言われても気分が悪い。
燐。燐に会いたい。
よろけるように駅の中に踏みこみ、ふらふらと歩いて、かすかに震えながら電車に揺られた。最寄り駅に着く頃には、何度も胃液を飲みこんで抑えていた。頭がくらくらする。ときおりこめかみがきんと痛む。マンションまで、呼吸を乱して喉をつかんで、泣きそうになりながらたどりついた。
マンションのドアを開けると、もう明かりがついていた。でも、ひどい吐き気がほこりのように体内に立ちこめ、歩くのもつらいほどせりあげている。私は靴も脱がずにトイレに倒れこむと、やっと一気に耐えがたい胃物を嘔吐した。咳きこんで、涙と涎が顔を汚して、それでもまだ胃液がのぼってきて吐き捨てる。
影が頭の中で反響する。私を追いつめる。私にのしかかる。だらしのないうめきが、繰り返し繰り返し鼓膜を穿ち、私は硬い床の上で天井を見ている。天井が果てしなく遠い。揺れる。うごめく。間抜けに見えるほど、脚を開いて──
「ねえさん」
ぱちっ、とトイレに明かりがついた。私は幻に目をぱっくり開き、息切れをしていて、振り返る気力もなかった。伸びた腕が便器の中の異臭を流す。そして、ずる、と引きずられて身を起こされ、背後から優しい体温が私を抱いた。私はいやいやをして、お腹にまわった武骨な手を握りしめる。
「怖いの」
私がうわ言のように言うと、「怖い?」と燐の落ち着いた声が耳元に響く。
「怖いよ」
「何が?」
「燐がいなくなるの」
「俺はここにいるよ」
「私のことなんか捨てるんでしょ」
「そばにいるよ」
「嘘つき」
「ずっとねえさんのそばにいる」
「燐がいないと生きていけないよ」
「知ってる。だからねえさんといる」
「……どこにも行かないで」
「俺はねえさんが一番大事だよ」
「私を愛してる?」
「愛してるよ」
「燐だけなの」
「ねえさんを愛してる」
私はやっとみずから身動きして、涙をはらって涎を拭いた。それから燐を見返ると、燐は優しく私の軆を自分と向かい合わせて、キスをしてくれた。頭を撫で、抱きしめて、この世でゆいいつ、おぞましいと感じない軆で私を包む。
「燐」
「うん」
「私も、男の人とつきあえばいい?」
「………、そうかもね」
「燐はつらいの?」
「きっと、あんまりよくない」
「……そう」
「男、いるの?」
「うん」
「あの気分悪い男?」
「……うん」
「そっか」
「変われるかな」
「もしかしたら」
「……分かった」
私は燐の胸の中から軆を離した。燐の曖昧な視線がまとわりつく。私は唇を噛んで、靴を脱いで壁伝いに立ち上がった。燐も立ち上がって、私の肘を支える。
「彼女といると、どんな気持ち?」
「……初めて息ができる」
「幸せ?」
「うん」
「好きなんだね」
言っておいて、燐が答える前に燐の手を離れてトイレを出た。呼吸が閉塞していく。
燐だけ呪縛から逃れるつもりなの? そんなの許さない。置いていかれたら死んでしまう。だとしたら、私も解放されないと──
燐を振り返った。目が合って、私は小さく微笑んだ。そして、消え入りそうな声でつぶやいた。
「燐だけ、幸せになれると思ってるの……?」
【第四話へ】