燐は、順調に彼女とつきあいを続けているようだった。電話をしながら咲ったり、帰宅が遅かったり、穏やかな表情をしているのも増えた。
それを見つめているとあふれる、陰湿な殺意を振り切るように、私は敦海さんと食事を重ねて、ついに部屋に招かれた。
六月が終わろうとしていた。雨の日は続いていた。先に部屋に上がった敦海さんは、バスタオルを持ってきて私の髪や肩の水分を拭き取った。でも、ここまで敦海さんの車でやってきて、隣接の駐車場から走っただけだからそんなに濡れてはいない。
「上がって」と敦海さんは私の手を引いて、私はそのまま敦海さんの部屋に踏みこんだ。
モノトーンの落ち着いた部屋だった。ソファ、テレビ、座卓──奥にも部屋があるみたいだ。私をソファに座らせてから、「そういえば」と敦海さんはネクタイを緩める。
「早永さんは、いつもお酒は頼まないね」
「苦手なので」
「そうなんだ」
「敦海さんも頼んでませんけど」
「僕は車だからだよ」
「少しなら飲めます」
「そう。じゃあ、軽く飲もうか」
敦海さんはキッチンに向かい、私はスマホを見た。何の着信もない。虚しさが胸を絞り、バックごとガラスの座卓の下に押しこむ。髪もほどいて下ろし、ため息を押し殺した。
「これなら飲みやすいと思うよ」
そう敦海さんが差し出したのは、オレンジ色のカクテルが入ったグラスだった。そっと口をつけてみると、確かに味はほとんどジュースだった。隣に腰を下ろした敦海さんは缶ビールを飲む。
「今日、泊まってくれるの?」
「敦海さんが送ってくれないと、ここがどこかも分かってませんから」
「はは」
「それに、明日は休みですし」
「そうだね。じゃあ、朝まで帰さないよ」
私は敦海さんを見て、敦海さんも私を見た。ソファがかすかに軋めく。
敦海さんの唇は、ビールで苦かった。敦海さんのしなやかな指が私の髪をなめらかに梳く。
「ほんとにいいの?」
「はい」
「あとでなかったことにはしないよ」
「分かってます」
敦海さんは飲みかけのグラスをガラスの上に置いて、ビールも並べた。そして、私に軆を重ね、深く口づけてきた。むさぼって、躊躇って、舌の水音が響く。
目を伏せようとした。だけどその瞬間、影が瞬いた。慌てて視界を取り戻す。
無意識にこわばった軆を抱いていた敦海さんが、「大丈夫?」と小さな声で訊いてくる。私がうなずくと、まろやかなキスが続く。お酒の混ざった敦海さんのキスは上質なものなのに、私の頭には、舌の上で舌が動いているイメージしか湧かない。
うつろう視線で、天井や照明を見つめた。服越しに乳房を揉まれ、こぼれる息遣いが荒くなってくる。敦海さんは上半身の服を脱いで、私の胸もはだけさせた。下げたブラから乳房があふれると、乳首を指と舌でなぶられる。私はそれを見下ろし、ふと、どうするんだっけ、と思った。
私は、敦海さんに何をすればいいのだろう。私はぼうっと受け身でいる女ではない。燐に対するように、敦海さんを求めなくては。でも──この人の、何が欲しいの?
燐とのときは、勝手に軆が動いてしまう。どこかなんてものじゃなく、すべてが欲しくなる。髪をかきあげ、肌を舐め、脚のあいだに手を這わせて──全細胞で、燐を取りこむ。
セックスで私は反射的にそうできるはずなのに、なぜか今、反応が起きない。完全にマグロだ。快感は覚えても、その感覚が他人事のようで脳を刺激しない。痺れて蕩ける愛欲が湧いてこない。
同じ、だ。そう思って、ぞっとするものがこみあげた。そう、あのときと同じだ。
影がちらちらと私の脳裏を行き来する。荒い息。這いまわる手。動く影の向こうで、遠い天井の明かりが見え隠れする。
いつまで続くの。いつまで動くの。いつまで──
軆をつらぬかれたとき、わずかに痛みを感じた。その痛みがあまりに鋭くて思わず声がもれた。敦海さんは私の中を動きながら、「平気?」と訊いてくる。私はそれにうなずきながらも、何とも言えない無気力に、爪先から重く鈍く犯されていく。
どうして。違う。燐のときと違う。
何でこんなに軆が冷たいの。体勢が苦痛で身動ぎばかりしてしまう。嫌だ。もうやめたい。気持ちよくない。なれない。
やっぱり、私は燐しかダメだ。燐が欲しい。燐となら、溺れるように求め合って、熱く深く堕ちていけるから。
私は敦海さんの軆にしがみついた。燐だ、と思いこもうとした。これは燐だ。燐の軆。燐の皮膚。燐の体温。今、私を抱いているのは燐なのだ。
泣きながら燐の部屋に行った日、「僕たちだけの秘密だよ」と私を抱いた、私の大切な弟。
今、私は燐と交わっている。燐の熱が私の核に届いている。燐の息吹が私の耳で喘いでいる。
燐は、違うの?
燐もあの子を抱くとき、私を想っているの?
それとも、“あの子”で感じて、張りつめ、あの愛おしい白濁を吐き出しているの?
「彼氏とうまくいってる?」
七月に入った晴れた日、ベーコンエッグとトーストの朝食を取っていると、燐がそう尋ねてきた。きつね色のトーストにマーガリンを塗っていた私は、手を止めて燐を見た。
「こないだ寝た」
コーンスープを飲んでいた燐も、私に目を向けた。
「そうなんだ」
「うん」
「帰ってこなかった日?」
「うん」
バターナイフを置いて、さく、と香ばしいトーストに口をつける。
「俺はまだしてない」
「ふうん」
「そろそろいいのかな」
マーガリンの塩味が口の中で溶けていく。それを飲みこんでから、ぼんやりと嘘をついた。
「いいんじゃない」
「そっか」
燐はマーガリンに手を伸ばし、同じくトーストに塗った。がりがり、とバターナイフが焦げ目を引っかく。私は無言で、マーガリンが染みこむトーストを食していく。
ずっと燐にしか許さなかった軆を、ほかの男に晒した。その罪悪感で、私は燐を求めることができず、燐も特に私を奪うことはしなかった。だから、毎晩のようだった情交もしていない。本当は、燐になぐさめてもらわないと発狂しそうなのに。
燐に抱かれたい。筋肉も、指も、唇も、本当は軆じゅうが求めている。猛った燐に口づけて、濡れた奥に導いて、核が疼くほど突かれて、あの異常な熱に浮かされて感じたい。
燐を感じないと、影がどんどん黒くなって私を襲う。燐と覚える白い快感が欲しい。あの淫らな白光がないと、私は──
「これでいいんだよ」
燐を見た。燐は目を伏せ、バターナイフをマーガリンの容器にしまいながら言った。
「俺たちは、これでいいんだ」
それ以上は燐は無言でトーストを食べた。これでいい──
私は「うん」と小さくうなずいた。
そうだ。これでいい。
燐が欲しいなんて、弟が欲しいなんて、やっぱり違うのだ。それはあの日からの呪縛に過ぎない。約束した。でも、時効はとっくに来ている。同じ血の中の閉じこもっているわけにはいかない。このままではいけない。私たちは、間違いなく血を分けた姉弟だ。
姉弟で、あんなこと──許されるはずがない。
燐は高校に行く。私も仕事に行く。もうまわってくる無駄な仕事もない。たいていは定時に上がって、敦海さんの部屋に招かれて、終電で帰宅する。
燐の部屋の明かりはもれていても、ただいまも言わない。私はシャワーを浴びて、その水飛沫の中で、少しだけ泣く。吐き気がひどいときは、記憶からかすれていく燐を想って自分でなぐさめる。寝支度や戸締まりが終わると、自分の部屋に入って、冷たいシーツに横たわる。
眠たい。なのに、意識ははっきりしている。脳内が、ゆらゆら記憶にほの暗い光を当てる。
燐がこちらを見ている。幼い燐。私はセーラー服で、リビングでのしかかられている。動きに合わせて私の髪が床を這う。燐は唇を噛んだ。私は声は出さずに、口を動かした。
に、げ、て。
刺さったものが動く。私の体内を強く突く。燐は身を返して、ランドセルのまま家を出ていった。私はほっとして、天井を見た。すると、目の前で影の主が私を見ていた。弱い声が喉からこぼれた。
「おとうさん……」
濁った目以外、答えはない。無言で深くまでつらぬかれる。傷口に爪を立てるように。圧迫がお腹をえぐる。それでも私は無表情で、ただ、おとうさんの性器を性器にねじこまれる。
それから間もない夜、燐が私の部屋に来た。どうしたのと訊くと、燐は手にしていたふくろからアルコールランプを取り出した。理科室から盗んできたと燐は言った。実験に使ったクラスがあったのか、理科室の教壇に残っていたのだそうだ。
それでどうなるのか、私も燐も知っていたわけではない。ただ、人体によくないだろうことは分かった。燐は私の手を握って言った。
「これで、おとうさんを殺そう」
その日から、私は燐だけが光だった。なのに、燐は離れていく。ほかの女のところに行ってしまう。
その女を殺せば戻ってきてくれるの? また私を抱いてくれるの?
燐しかいらない。燐以外ダメなの。燐だけが、私を救ってくれるの。
この恐ろしい記憶の樹海に置き去りにしないで。燐しか愛せない私を、ほかの男に預けるなんてやめて。私が暗い樹海で朦朧としていることは、燐しか知らない。誰も私を引き留めない。どんどん奥まで迷いこんでしまう。
この樹海で信じられる手は燐の手だけだった。怖くてたまらない。ひとりになりたくない。
燐。私だけの燐。この手をつかんで、悪夢を蹌踉とする私の道連れになって。吐きそうなあの影がちらついたときは、抱いて白い快感で忘れさせて。
燐しか、おとうさんにのしかかられるあの影を、かき消すことはできない。だからお願い、私から離れていかないで。
【第五話へ】