樹海の影-5

 眼鏡越しに画面を見つめ、ときおり書類に目を落としながら、作業を進めていく。もうすぐお昼だから、キリのいいところまで進めたい。でも最近、集中力がうまくまとまらない。今のところは、少し残業するくらいで済んでいるけれど。
 しっかりしなきゃ、と思っても、気だるさはタイプミスをよく誘う。いらいらして、こめかみが痛い。チャイムが鳴ってお昼休みになっても、案の定、目標まで仕事が進まなかった。
 眼鏡を外して息をついていると、「早永さん」と声がかかって振り返る。
「……敦海さん」
 敦海さんはにっこりして、私のつくえに缶コーヒーを置いた。
「最近、根つめてない?」
「能率が落ちてるだけです」
「色ボケ?」
「かもしれないですね」
 私は素直に缶コーヒーを手に取る。梅雨も明けた七月中旬、その冷たさは手のひらに心地よい。プルリングを抜いて、ひと口、ひやりとした苦味を飲みこむ。敦海さんが私の耳元に口を寄せる。
「今夜、いい?」
 私たちは、職場では何となく関係を伏せている。私は敦海さんを一瞥して、小さくうなずいた。敦海さんはまじめな男の顔から、またあっけらかんと笑って私の肩をたたいた。
「仕事、少し緩和するように部長に言っといてあげる。早永さんは、いつも頑張ってきたからね」
 敦海さんはそう言うとオフィスを出ていった。敦海さんはいつも外で昼食を取る。私もついていったことがある。でも、食べ切れなかったので、結局またオフィスに残って、コンビニのパンをひとつかふたつ食べるようにしている。
 今夜もか、と含んだアップルパイを飲みこむのもつらくなる。おとといも泊まったばかりなのに。
 甘くなった林檎を噛みしめて、不意に、燐と口移しで林檎を食べたことを思い出した。燐はやっぱり、私に触れない。もう彼女とは寝たのだろうか。私は敦海さんとのとき、必死に燐を想って感じるふりをしている。燐はどんなことを想いながら彼女を抱くのだろう。私のことなんて、考えもしないのだろうか。燐はとうに私の味も、感触も、温もりも忘れてしまっているのだろうか。
 その夜、いつも通り、敦海さんの部屋で抱かれた。押し倒されながら、燐を想う。燐に抱かれたい。弟との近親相姦。その閉塞した絆がいつまで続くのかと、怖かった。
 でも、いつまでも続けばよかった。私と燐だけの繭の中にこもっていたかった。触れる燐の体温がなくて、私はどんどん冷たく無感覚になっていく。
 どうしようもなく、燐がいないとダメだ。燐との情事なしで生きていけない。息もできない。燐のキスだけが私の呼吸を呼び覚ます。燐に愛されず、自分の感性が腐っていくのが分かる。
 燐の瞳。燐の髪。燐の汗。燐の肌。燐の音。放置されて、五感が消え入っていく。敦海さんに──どんな男に刺激されていても、私の感覚は影に侵され、朽ちていっている。
 翌日が仕事のときは、敦海さんは車で駅まで送ってくれる。クーラーの効いた車を降りると、熱帯夜は肌にまとわりつく。敦海さんに頭を下げると、私は駅の構内に入って改札まで歩いていった。周りの話し声も笑い声も遠い。
 視界はよどんでいる。無気力なんてものじゃない。もういっそ、すべて終わってしまえばいいのに。明日なんか来てほしくない。生きていて、何だっていうの。燐にもう私のことなんて届かない。
 ICカードで改札を抜ける。汗の滲んでくるホームに立っていると、ふと思った。
 死んだら……燐は、私を見てくれるだろうか。死ねば、私のこの想いも伝わるだろうか。燐だけだった。燐に見捨てられて私は生きていけなかった。そのことを知ってもらえるだろうか。
『まもなく電車が参ります。白線の後ろに下がって──』
 ゆっくり顔を上げた。私のいるホームへ、暗闇から電車が近づいてきている。
 燐。私には燐だけだった。燐がいないなら、もう──
 ゆらり、と足元が崩れるように白線に踏み出す。重心が足元からふわりと頭に移っていく。堕ちていく。思ったより怖くなかった。
 そうだ。私は燐を失った。それ以上の恐怖なんて、この世にはありえない……
「ねえさんっ!」
 突然腕を強く引っ張られた。声がもれて、その直後に激しい轟音が眼前をよぎった。引っ張った腕の中に、私は背中から倒れこむ。汗ばんだ匂いが私を包む。
 電車が何事もなかったように到着し、降りてくる人の中で、私は膝が砕けたように座りこんだ。一緒に座りこんだ、私を抱きしめる腕を私は見下ろした。
「ねえさん……」
 私は、静かにその筋肉の持ち主を振り返った。私をきつく抱いて肌に顔を伏せ、涙を流しているのは燐だった。私はかぼそく燐の名前を呼んだ。燐は鼻をすすって顔を上げ、濡れた睫毛で私を見る。
「こんなの、やめてくれよ」
「燐……」
「何のために、俺……。全部、何のためだったんだよ。ねえさんがこんなことしないためだろ」
「だって……」
「彼氏が役に立ってないならとっとと言えよ! 俺から……できないだろ、彼氏ができたなら、……できないよ」
「燐が彼女作ったから、」
「そうだよ、逃げようとした。このままじゃ俺もねえさんもダメだって思った。でも……」
「燐くん」と鈴のような声がして、燐はそちらを見た。私も顔を上げ、息を飲んだ。かたわらにいたのは、長めのボブのかわいらしい──あの日、燐に甘えていた女だった。
 刹那、目が合う。その子の目尻に嫌悪のようなものを見取った途端、激しい殺意が湧いてきた。
 この女! この女が私から燐を盗った! 私だけの燐だったのに!
「……殺せばいいの?」
 私が震える声で言うと、燐は首を横に振って、動けないようにいっそう強く抱きしめた。
「この女を殺せば、」
 女の子が目を開いて私を見る。
「燐は──」
「しなくていい。分かったから。もう、分かったから。──悪い、今日はやっぱ帰ってくれ」
「でもっ、」
「見て分かるだろ。俺はねえさんのそばにいなきゃいけない」
「お、おねえさん……なの?」
「そうだよ。ごめん、もう──」
「恋人じゃなくて?」
「………、今度、話し合いはする。でも、終わったと思っててくれ」
 私は燐の腕にしがみついた。そして、髪の隙間から女の子を見上げて、ぶつかったとまどう瞳に嗤った。女の子は不快そうに眉を顰め、走り去っていった。
 燐は私を支えながらその場に立たせた。私は燐の手を握った。強く、恋人つなぎで。
「燐……」
「ん」
「早く……ふたりきりに」
「家に帰ろう」
「家……」
「俺の部屋に来て」
 視界がじわりと滲んだ。私はゆっくり軆を返して、燐の温かい胸に顔を伏せて泣いた。燐は私の頭を撫で、誰にも聞こえないように耳元でささやく。
「ねえさんが欲しい」
 まるで駆け落ちするような気分で、次にやってきた電車に乗った。車内でも、私は燐の肩にもたれて手を離さなかった。燐は優しく私の髪や額にキスをした。それだけで軆に甘い痺れがよみがえり、脚のあいだが切ない熱を帯びた。
 燐の匂いがする。家と同じ匂いがする。私たちの匂いだった。何度も燐の名前を呼んだ。燐は私を覗きこんで、熱を測るように額に額を合わせる。
 電車を降りると、歩くのももどかしくてタクシーで帰った。早くキスしたい。私たちを閉じこめる揺りかごに戻って、愛し合いたい。五分もせずにマンションに着くと、燐がお金をはらって私たちは家にたどりついた。
 もつれこむように、土足で家に上がった。靴を脱ぐ時間も惜しかった。燐の部屋に入るのは久しぶりだ。明かりに浮かんだそこが、何も変わっていなくてほっとした。
 燐は私をシーツに押し倒し、Tシャツを脱いで私の白いワンピースも脱がせた。燐のしなやかな筋肉が、汗に少しだけ光っている。下着だけになった私に馬乗りになる燐は、少し哀しそうに、私の肌に咲いている口づけの痕に指を這わせた。
「今日は……俺も痕残すよ」
「……早く」
「ねえさんは俺のものだから」
「燐」
「ねえさんを愛してる」
 視界が潤んで、何も見えない。燐。私の燐。燐が私を愛している。私の首筋に強く口づけ、鎖骨に歯を立てている。私も燐のなめらかな肌に唇を伝わせる。
 瞳が触れ合って、喉の奥まですすりあげるように口づけを交わす。このまま燐の舌を噛みちぎって食べてしまいたい。そして、燐にも私の舌を噛み切ってほしい。そして血まみれになって、同じ血にぐちゃぐちゃにまみれて、死んでもいいくらい燐を愛してる。
 燐は私の乳房をつかみ、一方は指で、一方は舌で敏感にいたぶる。それだけで背中を反らせ、喘ぎ声も抑えられない。左手は燐の右手と結ばれている私は、右手で燐の髪をまさぐる。
 頭の中が茹だるようにほてって、息遣いが腫れていく。燐の名前がうわ言のようにもれる。細胞が暴れているように、素肌が鋭敏に燐の感触を取りこみ、安堵が全身に広がり、満ちて、指先から熱が集まっていく。
 燐の汗がぽたぽたと落ちて、それをすくって舐めて味わうと、どんな料理を食べるより味覚が蕩けた。燐は身を起こすと、私の脚のあいだを下着越しにこすった。途端、私はびくっと痙攣して、息が止まりそうに声を上げる。
「すげ……もうこんなに濡れてる」
 入口を指先にすくいあげられ、どうしても乱れた喘ぎがあふれる。燐の骨ばった指に合わせ、脚のあいだはいっそう愛液をしたたらせて、下着では抑えられないほど濡れていく。あまりにも淫靡で正直な熱い液に脚を閉じようとしてしまうと、燐は私の脚を大きく開かせて、下着をちぎるように取り去った。
 空気が触れただけで、入口がひくついて、私を塞ぐ燐のものを求める。燐は身をかがめ、焦れったいほど優しく私を食んだ。
 核に舌が絡みついて、そっと抑えつけながらまろやかに転がす。私は泣き出す子供のような声を上げて引き攣り、さらにそこが熟してあふれてくるのを感じる。角度も位置も、私より燐が知っている。燐は少しずつ私を攻めるように核を吸いはじめ、指で軆の中を水音を立ててかきまわす。
「燐、っ……私、いく……っ」
「いっていいよ」
「……り、りん……も、っ……」
「ねえさんがいってから」
 私は泣きながら首を横に振った。どんどん快感が下肢に押し寄せる。気を抜くと、白い津波にさらわれて達してしまいそうだ。
「ねえさん──」
「ひとりは……もういや、」
「……じゃあ、もっと気持ちよくしてあげる」
「燐とっ……燐と、いく、っ……」
「うん。俺も、もう、痛いぐらいだから」
 私はおぼつかない目を燐に移した。燐はジーンズを脱ぎ、下着も脱いで自身を取り出した。私は溶けそうな腰を身じろがせながら、思わず軆を起こした。
 猛る燐に手を添える。硬くて、脈が熱く手のひらに伝わってくる。こんなに愛おしいものを私は知らない。
 身をかがめ、先走ってじゅうぶん濡れている先端を口に含んだ。燐が切ないうめきをもらす。張りつめたものをほぐすようにしごいて、私は燐全体を舌で潤す。
「ねえさ……っ」
「気持ちいい……?」
「ん、っ……うん」
「私のほうが……好き?」
「……ねえさんを、較べたことなんか、」
「私は、燐を一番愛してるの」
「俺、はっ……ねえさん以外、愛したことな……いっ」
 私の頬に涙が伝ったのと同時に、燐は私に覆いかぶさって尖ったもので私に分け入ってきた。思わず壊れそうな声がもれる。燐が私をつらぬき、届けて、刺すように突いてくる。奥まで突かれて、私は自分が燐を食いちぎるように引き締まったのが分かった。激しく飛び散る水音が、私たちをひとつにしていく。
 燐の背中に腕をまわし、おさまっていた白い感覚がまた波打って襲ってくるのを感じる。燐は私のうなじに顔も息も伏せ、強く腰を動かして、私の中でさらに腫れ上がる。私の声も、甘く高く虚空を踊る。
 快感が関節を分解しているみたいだ。燐にしがみつかないと、そのままばらばらになってしまいそうで、燐の背中の筋肉の動きに気絶しそうなほど愛おしさを覚える。
 ふたりの息遣いが部屋の密度を上げていく。どんどん空気が濃密になっていく。同じ血。同じ吐息。同じ感覚。すべてが一体化して、私たちを堕としていく。快感が螺旋状に絡まり合う。私が感じて、燐が感じる。燐が動いて、私も動く。
 ふたりだけの時間。ふたりだけの空間。許されない、禁じられた、それでも私たちを救う呪縛の愛──
「そばにいるよ」
 終わっても、私たちは強く抱き合っていた。燐は私の耳元で繰り返した。
「俺がそばにいる」
 私は燐の瞳を見上げた。燐も私の瞳を捕らえ、「ねえさんがいればいい」とつぶやく。私は燐の胸に顔を伏せる。
「燐を愛してる」
「……うん」
「私も、燐がいればいい」
「ずっと一緒だから」
「死ぬまで?」
「うん」
「もう逃げない?」
「逃げないよ」
「私だけ愛して」
「愛してるよ。ねえさんだけ」
「名前で呼んで」
「藍を愛してる」
「燐……」
「藍だけだよ、俺には藍だけなんだ」
 燐は私をぎゅっと抱きしめる。燐の新鮮な汗の匂いが、私の中に溶けていく。
 燐。私だけの弟。私だけの男。誰にも邪魔できない。そう、私たちのこの呪われた絆は、永遠に解けることはない。
 陰惨な樹海の中で、ゆいいつ信じられる。伝わってくる燐の体温──これは、永久に私だけのものだ。私を照らして生かしてくれる、たったひとつの光。
 この光さえ失わないなら、むごい影がいくらつきまとっても、私は生きていける。

第六話へ

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