七月の下旬になり、燐は夏休みに入った。受験勉強はやっぱりせずに、就職の説明会やセミナーに通っている。「私が働くのに」と言っても、「俺が稼ぐくらいにならないと辞めないだろ」と燐は返す。私はため息混じりに家を出て、敦海さん今日も仕事まわしてくるのかなあ、と実際嫌がらせを受けている職場に出る。
「私、ずっと好きだった人がいたんです」
燐と再び愛し合った翌日、私は敦海さんを食堂に誘った。そこで向かい合って、制服のボタンをひとつ外して、敦海さんに燐が残した口づけの痕を見せた。目を開いた敦海さんにそう言って、私はすぐボタンを直した。
「その人と生きていく覚悟が、やっとできました」
「………、僕の知ってる奴?」
「言えません」
「それぐらい教えてくれよ」
「教えてどうなるんですか? 邪魔するんですか?」
「だって、僕は本気で早永さんが──」
「私も彼に本気です」
敦海さんの目が、見たことのない物々しさを帯びていく。私は無表情のまま、淡々と頭を下げた。
「おつきあいはここまでにさせてください」
「……僕のことは遊び?」
「遊びではありませんでしたけど、本気でもありません」
「なかったことにはしないって言っただろ」
「だから、いくらでも私を憎んでください」
敦海さんは席を立った。すれちがいざま、「そうさせてもらう」と言われた。その次の日から、敦海さんは井崎さんと公言してつきあいはじめた。井崎さんは、私が都合よく使えて、自分が楽できればいいと思っている。そんな井崎さんを利用すれば、泥をかぶることなく敦海さんは私を圧迫することができた。
「井崎さんの面倒は慣れてるだろ」
「社員になりたいんじゃないの」
「君のほうが先輩じゃないか」
そんな言葉を吐くために、敦海さんは井崎さんとデートの約束をする。井崎さんが自分と定時で上がるため、間に合わない仕事を全部私にまわしてくる。敦海さんに寄り添って満足そうな井崎さんは、よく見ると、敦海さんが好きだったのかもしれない。
そんなふたりがじわじわと私の立場を追いつめてきて、正直、滅入っていた。別に怖くないし、つらくもないのだけど、楽しいものでもない。燐にそのことを話すと、「辞めれば」と言われた。そうしたいけど、やはり燐に収入がない限り、そういうわけにもいかない。
敦海さんは、こういう姑息な手には出ない人だとは思っていたのだけど。また口説きはじめるくらいに思っていた。職場を辞めないと、敦海さんの嫌がらせは終わらないのかもしれない。とはいえ、あの人もそろそろ異動辞令が来るだろうし、ひとりでは井崎さんは何もできないし、慣れた仕事や収入を手放すのは惜しい気もする。まだ、迷っている。
その日も残業させられ、退社する頃には十九時半が近かった。真夏だけど、そろそろ空も暗くなりかけている。駅までの短い道のりでもずいぶん汗をかく。
でも、ちゃんと見えるし、聞こえる。世界と自分のあいだに膜があるようには感じない。イルミネーション、行き交う雑踏、舐めるようなぬるい風──。
今日は燐は家にいるはずだ。夕ごはん何にしようかな、と着いた駅の構内を歩いていると、「あのっ」と不意に声がかかった。
「燐くんの──おねえさん、ですよね」
足を止めて、振り返った。そこには、燐とつきあっていたあの女の子がいた。「別れたよ」と聞かされていたから、特に動揺はなかった。私はバッグを持ち直し、「何ですか」と彼女のまっすぐな瞳に眉を寄せた。
「お、お話……が、したくて」
「………、悪いですけど、残業で疲れてるので」
「じゃあ、いつお話できますか?」
「ちょっと分からないです」
「あ、あたし、どうしてもおねえさんと話さないといけなくて。そうしないと、納得できなくて──」
「燐とは終わったんでしょう?」
彼女は私を見て、私はかすかに嗤笑だけ浮かべた。見る見る目を開いた彼女は、動顛を隠さずにかぶりを振った。
「ほんと……に、燐くんと、」
「燐は私のものだから」
「嘘……。お、おかしいよ」
「そう? 私たちはずっと昔からこうだから」
「あんたがおかしいっつってんのっ。燐くんは普通の男の子なんだよ、つきあったからあたしはよく知ってる! 自殺の自演なんかして、そこまでして燐くんを縛って楽しい!? 燐くんが幸せだと思ってるの!? 燐くんから離れてよっ。狂ってるあんたの妄想に燐くんを引きずりこまないで、燐くんは私といたほうがっ──」
私は急に彼女の腕をつかむと、ポスターが張られた壁に抑えつけてじっとその目を射た。
「燐がそう言ったの?」
彼女は私の眼から逃げようとしたけど、立ち止まる人もおらず、ぎこちなく言葉を返した。
「……知らなかった、よく分かんなかった。そばにいちゃいけない人がいるから、あたしと一緒にいたいなんて。今なら分かる」
「そう」
「り、燐くんはっ、いつか、あたしと一緒にあんたから逃げたいって言ってくれたっ。でも、あの日あんたが自殺の真似事なんかして、」
「じゃあ、私を殺す?」
「えっ──」
「私を殺せば、確かに燐は自由になる。でも、燐はその自由を望んでない」
「望んでる! 望んでるに決まってるじゃないっ」
「私と燐の何を知ってるの? あの子は私から離れることはできないの」
「あんたがそうやって燐くんをっ──」
「じゃあ、あの子はどうして私のために人まで殺そうとしたの?」
「えっ……」
「あの子、あなたのために、人を殺すかな? ねえ、殺してくれるかな?」
彼女のまばたきが増え、唇が震え、私は優しく冷笑した。彼女は蒼い顔を背けると、私を押しやって駆け出した。私は彼女に聞こえるように大きく笑った。
「いつでも話してあげるから!」
彼女は振り返らなかった。こちらを一瞥する人はいた。私は息をついて無表情を取り戻すと、いつもの路線の改札まで歩いた。
まだ少し混んでいる電車に、私は座席に座るより扉にもたれて、そのリズムに揺られていた。ガラスを見つめていた。夜景はどんどんただの闇になっていく。
私の顔が映っている。燐を思い出す。ぞくっとするほどの恍惚がよみがえる。
「おとうさんが帰ってきたら、ごはん出してあげてね」
私が中学から帰宅すると、ちょうど出かけるところだったおかあさんがそう言った。スーツケースを連れていて、「また出張?」と訊くと、うなずいたおかあさんは「ごめんね」と私の頭をぽんぽんとした。
「おとうさん、今度は仕事続くの?」
「どうだろ。まあおかあさんがしっかり稼ぐから、藍と燐は心配しなくて大丈夫」
「無理しないでね」
「うん! ありがとね、藍。燐の面倒も任せちゃって」
「平気。燐、かわいいから」
「そうだね。あ、じゃあ、いってきます!」
おかあさんの背中を見送っていると、とんとん、と階段を降りてくる足音がした。
「おねえちゃん」
振り向くと、燐がいた。ドアを閉めて、私の視線はちょっとこわばる。燐は私を見つめ、口元を三日月のように鋭利に笑ませた。
「今夜から混ぜよう」
それから、おとうさんの食事にアルコールランプの中の液体を混ぜはじめた。いつ何が起きるのかは、分からなかった。燐は殺すと言った。本当に死ぬのだろうか。おかあさんが留守のあいだ、変わらずおとうさんは私を犯した。でも、私が高校生になっていたある日──それは、燐の計画線上で終わった。
おとうさんの目が、見えなくなった。
何かの障害が現れたのかと、もちろんおとうさんはおかあさんと病院に行った。私と燐は家で待っていた。不安で燐を抱きしめた。ばれたら、この子が連れていかれる──。障害は認められなかったけど、検査に引っかかった。結果まで一週間あった。
私は膝を抱えて泣いた。燐が隣に来て、「あれが終わったんだよ」と言った。私は首を横に振った。
「燐が、捕まっちゃう」
「僕……」
「燐がいなくなる」
「僕はおねえちゃんから離れない」
「でも、検査の結果が出たら──」
やがて、電話が鳴り響いた。当然、不自然すぎる検査結果を警察に通報したという連絡だった。私は泣いていて、おかあさんは私と燐に容疑がかかっている話に混乱した。
警察が家に駆けつけるまで、あと十分間もなかった。燐がおかあさんにすべて話した。おかあさんがわっと泣き出したとき、どんどんとドアをたたく音が割りこんだ。
おかあさんは私と燐を抱きしめ、「ごめんね」と言った。
「つらかったね。藍、つらかったね。燐も、つらかったよね。全部おかあさんが悪い。悪いのはおかあさんだから。藍も燐も悪くない。だから、捕まるのはおかあさんにしよう」
私と燐はおかあさんを見た。おかあさんの目は真っ赤に腫れていた。
「このことは、おかあさんがやったの。おかあさんがおとうさんを殺そうとしたの。藍も燐も何もやってないの」
燐が何か言おうとした。私も何か言おうとした。でもさえぎるように、おかあさんはもう一度私たちを抱きしめた。
「おかあさんもおとうさんも、もういなくなる。でも、ふたりでしっかり支え合って、生きていって。最後のお願いだからね。ふたりは必ず幸せになるの」
そして、おかあさんは立ち上がった。玄関へと毅然と向かっていく。私は立ち上がって追いかけようとした。燐が私の手をつかんだ。燐を見た。
「おねえちゃんは僕が守る」
「……燐」
「僕がおねえちゃんのそばにいる」
警察の騒々しい声が雪崩れこんでくる。「やったのは私です」、「私がやりました」、「あの子たちは関係ありません」──おかあさんの声が聞こえる。私は、がくんと座りこんだ。燐が私の心もとない意識の頭を抱いた。
「おかあさんとの約束だから──……
スーパーで買い物をして、帰宅すると燐はリビングで就職説明会のパンフレットを眺めていた。「遅くなってごめん」と急いで夕食を作る私に、「また元彼の嫌がらせ?」と燐は背後から肩を抱いてくる。私がうなずくと、「もう辞めちゃえよ」と燐はささやく。
「でも、また一から就職するのも大変だよ」
「就職なんかしなくても、俺がねえさんくらい養う」
「そうかな」
「俺はずっとねえさんと一緒だから」
私は一瞬口をつぐんだけど、冷やし中華に乗せるハムを刻みながら言った。
「今日、おかあさんのこと思い出した」
「……そっか」
「約束だよね」
「うん」
「燐は、私のそばにいるでしょ?」
「俺はねえさんと生きていく」
「ほんとは、自由になりたい?」
「……そんなのいらない。俺が愛してるのはねえさんだから」
私は微笑んだ。その口元に、蜘蛛のように燐の指が這う。
「私も燐を愛してる」
燐は私をもっと強く抱きしめる。
おとうさんとおかあさんがいなくなった家は借家で、行く宛てもなかった。私が歳を偽って働くしかなかった。追い出されるまで一ヶ月。ヘルスでの仕事が決まった夜、結局あの行為なのかと私は泣きながら燐の部屋に行った。
そんな私を、燐が抱いてくれた。優しく。温かく。清めるように。何度男に穢されても、燐が私を癒してくれた。
どんなに深い樹海でも、私の隣には燐がいる。だから私は、死ぬだけのような命でも生きていくことができる。消えない影に襲われても、幸せを誓うことができる。
燐がいる。私の愛おしい弟。切れない肉親。かけがえのない家族。
私は燐と手をつないで、どこまでも迷いこんでいく。いつか、影さえ届かなくなる日を信じて。そう、深く、深く、もっと奥深くまで。
FIN