Koromo Tsukinoha Novels
またおとうさんが怒りはじめて、おかあさんの頭をげんこつで殴る。「やめて」と泣き出した絢音ちゃんを、おとうさんは「うるさい!」と怒鳴って、クローゼットに閉じこめてしまう。
僕はソファに座ったまま、ずっとそれを見ている。
おとうさんがやっと落ち着いてからも、絢音ちゃんはクローゼットを出してもらえない。おかあさんが「そろそろ絢音を」と言うと、おとうさんはぎろりとおかあさんを睨みつけた。
だからおかあさんもそれ以上言えず、ただ、僕の手をつかんで持ち上げる。
クローゼットで嗚咽をもらす絢音ちゃんに、おかあさんは素早く僕を渡す。「くーちゃん」と絢音ちゃんは小さく僕の名前を呼んで、その腕に僕のふわふわの軆を抱きしめる。
僕はくまだから、くーちゃんらしい。
絢音ちゃんが赤ちゃんのときから、僕たちはいつも一緒だ。おもちゃ屋さんで、僕をえらんでくれたのはおとうさんだった。似たような「僕」が並ぶ中から、「こいつが一番いい顔をしてる」と僕をえらんでくれた。その隣のおかあさんは、ふっくらしたお腹を撫でて「あなたが選んだ子ならこの子も気に入りますね」と咲っていた。
でも、おとうさんは絢音ちゃんが生まれて間もなく、変わってしまった。おかあさんはひとりで絢音ちゃんの面倒を見ていて、余計にうまく子育てをこなせず、おとうさんはいっそういらいらしていた。
「ほかの母親はちゃんとできてることが、何でお前はできないんだ!」
そう言って引っぱたいた日から、おとうさんはおかあさんを殴るようになった。赤ん坊だった絢音ちゃんは、ぽかんとそれを見ていた。
でも、成長するにつれてその暴力に恐怖を抱きはじめ、「おかあさんを怒らないで」と泣き出すようになった。そんな絢音ちゃんに、おとうさんは反省することもなく、むしろ絢音ちゃんのことまで怒鳴りつけた。
僕は絢音ちゃんと暗いクローゼットに閉じ込められたり、寒いベランダに放り出されたりして、一緒に過ごした。そんなとき、絢音ちゃんは泣きながら、「ごめんね、くーちゃん」と僕の頭を撫でた。「くーちゃんも寒いよね」と僕を抱いて体温を分けてくれた。
冬の夜、狭いコンクリのベランダだった。家の中の明かりがうっすら照らし出す中で、その爪先は凍えて震えていた。
絢音ちゃんは小学生になった。クラスで友達があんまりできないことを僕に話した。僕が黙ってそれを聞いていると、「でも、くーちゃんが絢音の一番のお友達だもんね」と絢音ちゃんは僕に微笑みかけた。
それから絢音ちゃんは、学校でのことをたくさん僕に話した。日記に残していくみたいに、僕にすべて吐き出していった。
「聞いて、くーちゃん。今日、クラスの子が話しかけてくれたの」
「由希子ちゃん、クラスで一番かわいいから、お友達になれたら嬉しいなあ」
「ねえねえ、今日は由希子ちゃんと一緒に帰れたんだよ!」
「楽しいなあ。友達できるって嬉しいね」
「由希子ちゃん、裕美ちゃんってちょっとバカだよねって言ってたけど、そうなのかなあ……」
「確かに、裕美ちゃんって人の真似ばっかりするかも」
「裕美ちゃんが由希子ちゃんと同じ消しゴム持ってた……。由希子ちゃんの真似は誰もしちゃいけないのに」
「ふふっ、由希子ちゃんねー、消しゴム変えてくれた。色は違うけど、私とお揃いなんだよ」
「……もうやだ。裕美ちゃん、また由希子ちゃんと同じ消しゴムにしてる」
「何でそんなにバカなの?」
「気持ち悪いって思われてるのが分からないの?」
「私から由希子ちゃんを取ろうとしてるんだ」
「裕美ちゃんなんか、いなくなっちゃえばいいのに」
「最悪! クラス替えで、由希子ちゃんとクラス別れちゃった」
「しかも、裕美ちゃんは由希子ちゃんのクラスだし。何で? 私のほうが由希子ちゃんと仲がいいのに」
「今日、由希子ちゃんと帰れなかった」
「今度の遠足で、由希子ちゃんと裕美ちゃんが隣同士なんだって……何で? 私が同じクラスだったら絶対違ったのに」
「どうして、由希子ちゃんと裕美ちゃんが一緒に帰ってるの?」
「由希子ちゃん、裕美ちゃんのことバカって言ってたじゃん。何でそんな楽しそうなの……」
「由希子ちゃんと裕美ちゃんが仲良くしてるなんてやだ」
「私ばっかり、好きでもないクラスの子に合わせて嘘咲いしてるよ」
「由希子ちゃんとずっと仲良くしたい」
「裕美ちゃん邪魔なんだよ」
「私を仲間はずれにしないで」
「……由希子ちゃんと裕美ちゃんが、私のことキモいって言ってるって……」
「嘘だよね?」
「何で私だけこんなにつらい想いするの?」
「おとうさんはいつも怒ってるし、おかあさんは離婚しないし、私には優しい友達くらいできたっていいじゃない!」
「ひとりになりたくない」
「私ひとりぼっちだよ」
「はは、昔からずっとぬいぐるみに話しかけてて、確かにキモいのかな……」
「これを捨てたら、私、変われるのかな?」
「五年生になったよ。由希子ちゃんと同じクラスだった。裕美ちゃんもいる」
「何か、クラスのみんなに避けられてるような感じがする」
「女の子、誰も私と仲良くしてくれない」
「つくえ、水浸しにされてた……教科書とか全部濡れた」
「分かんない、私、もしかしてイジメられてるの?」
「何で私がイジメられるの?」
「イジメられるのは、絶対裕美ちゃんみたいな子じゃん」
「体操服隠された。トイレの掃除用具箱にあったよ……でも、買い換えたいとかおかあさんに言えない」
「体育の時間、由希子ちゃんと裕美ちゃんに『臭い』って言われた」
「やだ……もうやだ」
「死にたい」
「ねえ、何であんたはそうやって座ってるだけなの」
「何か気の利いたこととか言えないの?」
「私、悪くないでしょ?」
「家も学校もあんたも、何でこんなに私を死にたくさせるの!」
「ねえ! 何か言ってよ!」
「役立たず、私の話なんて聞いてないんでしょ⁉」
「聞いてるなら何か言えよ!」
「もう嫌、こんな奴いらいらする。捨てる‼」
──ゴミ箱にいた僕を拾って、助けてくれたのはおかあさんだった。「くーちゃんに何てことしてるの」とおかあさんが言うと、「もうぬいぐるみなんて歳じゃないんだよっ」と絢音ちゃんは学校に行ってしまった。
おかあさんは僕をそっと抱きしめて、「ごめんね……」と代わりに謝ってくれた。そして、僕のことを物置に連れていって、カビ臭いそこに座らせた。
「大人になったら、絢音もまたくーちゃんに会いたいって思うはずだからね」
それ以降、僕は絢音ちゃんのことを知らない。おとうさんとおかあさんのことも知らない。
冷たく暗く、静かな物置で、ずいぶんひとりで過ごして、何だか朦朧としてきた。僕はこのままゴミになって、ある日すげなく捨てられるのかもしれない。そう思うと、寂しいという気持ちがきゅっと針みたいに突き刺さった。
そうして、何年が過ぎたのだろうか。ある日突然、ぱあっと光が舞いこんで、「わっ、すごい!」と弾んだ幼い子供の声がした。
「おばあちゃん、ここにくまさんがいるよ!」
「ああ、くーちゃんね。そっか、ここでお休みしてもらったままだったね」
「この子、くーちゃんっていうの?」
「そう、昔おかあさんが大切にしてたお友達なの」
「じゃあ、おかあさんのものなんだ……」
「ううん、清美ちゃんがもらってくれるなら、大事にしてあげてちょうだい」
「いいの?」
「もちろん。……もうあの人もいないから、くーちゃんも安心ね」
「わあーっ。くーちゃん、今日から私が一番のお友達ね! よろしくね!」
清美ちゃんは僕を抱きあげ、ぽかぽかした日向の中に連れ出してくれた。その先に、懐かしい女の人のすがたがあって、隣には男の人がいて──「えっ、それ、くーちゃんじゃん!」と彼女はびっくりする。「おばあちゃんがくれた!」と清美ちゃんは嬉しそうに僕を抱きしめてみせる。
「……そっか、おかあさん取っといてくれたんだ」
彼女は、手を伸ばして僕の頭を撫でた。昔、ベランダでそうしてくれたのと同じように。その表情は、僕を一番の友達だと言ってくれたときと同じ、穏やかで優しいものだった。
ああ、幸せになれたんだね。
そう思いながら、僕は清美ちゃんの腕にくたりと身を預ける。そして、新しい一番のお友達の匂いを、柔らかな布からゆっくりと吸いこんだ。
FIN