Wish Live【2】
「おねえさんの前では、話しづらかったこととかありませんか」
「え、……いえ。姉はだいたい知ってることなので」
「そうですか。ご両親が──だいぶ、問題ですね。特におとうさんが、今の状況の原因が自分だと自覚することがなさそうですし」
「そう、ですね」
「親御さんの元からは、離れたほうがいいですね。でも、そうなると収入がないか……」
「働きたいとは思うんです。今なら貯金もたくさんあるし、残ってる間に仕事を見つければいいのかなとも考えます」
「それができるなら一番ですね。見つかるまでの合間に、作業所に通ってもいいですし」
「作業所……」
「就労能力や対人関係を培うのも必要に見えるので。そこである程度スキルを身につけて、仕事を紹介してもらうのもいいかもしれません」
「紹介してもらえるんですか」
「精神障害者を雇う枠を設けるのは企業の義務なので。支払いをしてでもその枠を作らないところもありますが」
「……はあ」
「夜中に出歩くのも危険ですし、まずは家を離れて落ち着ける場所を持つのがいいと僕は思います。でも、君自身はどうしたいですか?」
「えっ」
「仕事が安定してから家を出るほうが安心なら、それでもいいんですよ」
「……僕、は」
言っていいのだろうか。そう言って僕はその責任を取れるのか? でも嘘はつきたくない。そんな無理をしたって、負担は僕にのしかかって返ってくるだけだ。
「僕は、あの家を出ていきたい、です」
僕が深呼吸のようにゆっくり言うと、「じゃあその方向に進んでいきましょう」と先生は言った。
「おねえさんには、そう話せますか?」
「ねえさんなら。……親は、分からないです」
「おねえさんが分かってくれているなら、いいと思います。ご両親は、別に許可がないといけないわけじゃないですし」
「そう、なんですか?」
「はい。ご両親に認めてもらわなくてもいいんですよ。君の意志であることが大切なんです」
「……僕の意志」
「家を離れて、ご両親のことも忘れていいんです。それは薄情なんかじゃありません。それだけつらくなることを、君はされてきたんですから」
僕を最後まで気にかけてくれたあの先生と、タイプは違う。優しいとか、温かいとか、そういうものはあんまりない。でも、丁寧に、真摯に、話を聞いてくれた。「病気の名前」でなく、「僕」を見て意見してくれた。だから、初めて診察してもらったのに、違和感がほとんどなくてすっきりすることができた。
あの先生ほどじゃない、やっぱり。それでも、僕はやっと信頼してもいい精神科医に出逢えたのかもしれないと思った。
それから、僕は最近スマホにしたケータイで部屋探しを始めた。不動産屋に行くと、見学に乗せられて決めてしまうのが前回で分かっていたので、自分でじっくり決めるならネットで下調べしたほうがいいと思った。
まず家賃がなるべく安いところだ。すぐ仕事が見つかる宛てはない。そして、できればあの病院の近くか、交通の便が良いところ。エアコンはさすがについていたほうがいい。ユニットバスも。広さは前回同様いらない。そんな条件をチェックしながらいくつかのサイトをはしごして部屋を探し、候補が出るとその中で悩む。そして、ようやくひとつかふたつに絞ると、特に気になるほうには見学の予約を入れておいた。
あのいらいらする心療内科から新しい先生のいる精神科へ、転院するには紹介状を書いてもらわなくてはならない。転院理由について、あれこれ言い訳を考えておいたけど、「ここではやっぱりダメみたいなので」と言っただけで、医者はあっさり紹介状を書くと言って、僕を診察室から追い出した。
その医者の態度についてちょっともやもやして、精神科で話をすると、「個人の心療内科の中には、薬や診断書をどんどん出して、儲けにつながることを目的にしているところもあるので」と先生は例によって淡々と述べた。
「心療内科は、特に精神医学を学んでいなくても、内科を取っていれば名乗ることができますから、そういう病院だったのかもしれませんね」
そうなのか、と鼻白んでしまった。確かに、上滑りした知識しかなさそうな医者だった。あれこれ薬を出すのも、通るような診断書を書いたのも、要は金儲けだったのか。何だか少し、詐欺に遭っていた気分になった。
引っ越す部屋が決まった段階で、僕は紅に会うのはやめようと心に決めた。会っていたら、僕はいつまでも想いを後ろめたく引きずっている。引っ越しは七月の頭で、梅雨のあいだは荷造りに精を出した。その夜も小雨が降っていて、ふとスマホが鳴って手に取って見ると、紅からの夕飯を一緒に食べたいというメールだった。
メールを無視したり、メールでもう会わないと言うのは、やはり失礼だろう。会って、これからのつきあいは断ろうと思った。でも、もう会いたくないとか、ましてや好きだから会えないとかは言わない。ただ僕は、引っ越すからもう会えなくなると伝えた。ハンバーグを食べていた紅は、びっくりした目をぱちぱちとさせた。
「遠くに行っちゃうの?」
「実家を出るから、時間がそんなに自由じゃなくなるかな」
「自分で食ってくってこと?」
「まあ、うん」
「そっか。……それなら仕方ないね」
「ごめん、いきなりで」
「ううん。月芽の家の話ってあんまり聞かなかったね」
「紅のことも知らないよ」
「俺は大したことないよ。弟と違って出来損ないだから、家族に無視されてたってだけ」
「そうなんだ。僕も……父親が頭おかしいんだよね」
紅は少し哀しそうにくすりと咲って、「いろいろあるよね」とドリンクバーの葡萄ジュースを飲む。うなずいた僕は、ボロネーゼをフォークに巻きつける。
「まあ、会えなくなっても、俺は月芽のこと応援してるから。頑張って」
「うん」
「もしまた会えるときがあれば、月芽からメールくれていいからね。俺でよければ、何でも聞くから」
「ん。ありがと」
「仕事、風俗はなるべくやめときなよね」
僕は紅を見て、咲った。泣きそうだったけど、何となく咲えた。あの飴を舐めるのもやめないとな、と思った。あの飴の味を通して、何度も何度も紅をキスをしている錯覚で自分を保ってきたけど、そんな妄想もやめなくてはならない。
僕は今度こそ帰るのだ。あの家ではなく、自分の居場所になる安アパートの一室に。
見学して決めた部屋は、古いアパートの一階だった。洗濯機は共同だけど、エアコンもユニットバスもある。小型冷蔵庫も初めからついている。以前の洗濯機と冷蔵庫は捨てたし、また買うよりはこちらのほうが安いと思った。
姉が保証人になってくれて、無職なのは浪人しているためだと言っておいた。それでもその街に住みはじめたら、近所でバイトはきちんと探すとも言って、不動産屋にはそれを信用してもらえた。そして七月、父のいない平日の昼間に、僕は再び家を出ていった。
毎日が熱中症警報を出る炎天下だから、僕はクーラーをつけて部屋にこもり、荷解きをした。蝉が鳴きはじめた燦々とした外を窓越しに眺めて、何となく、前回のときのような不安がないように感じた。
またすぐ家を戻ることはないような気がする。仕事が見つかるという自信があるわけではなくとも、貯金がかなりあるのも、年金が支給されるのも事実だ。お金さえあれば、こんなにもたやすく、僕はあの忌まわしい家庭から自由になれたのだ。
実家にいたときは、父がいると部屋を出るだけも叶わなくなっていた。ここに暮らしはじめて、僕は好きなときにコンビニにお弁当を買いにいけるし、シャワーも浴びれるし、トイレにも行ける。些細なことひとつひとつで、ひどく救われたように感じた。
まだ、焦って仕事を見つけなくてもいいだろう。そんな余裕があるあいだは、本当に毎日が気が楽で、あんなに息苦しかった世界から異次元にでも吸いこまれて助かったような変な感覚すらした。
こんなに精神的に好調なら、仕事だってわりとさくっと決めることができるかもしれない。手首を切ろうなんて思わないし、死にたいとひとりごちることもないし。薬は相変わらず飲んでいるし、それに助けられているのは分かっているのだけど。
この先、自分が悪化することはないように思える。ついにこの心が健康へとかたむきつつあるのではないか? そんな楽観さえしながら、僕はフリーペーパーや張り紙の求人をチェックするようになった。
僕は自分の傷だらけの左腕を眺めて、これがあるから隠しようがないよなあ、と初めは面接の時点で自分には精神障害があると断ることにしてみた。それでも、治すためのひとり暮らしを続けたいから自立したいとも伝えた。
が、やっぱり渋い顔をされることが多かった。「スタッフが混乱するから」とか「みんなどう接したらいいのか分からないと思うから」とか、現スタッフにとって迷惑だというようなことを言われた。「頑張るって言っても、別に治ったわけじゃないですよね」とぐさりと言うところもあった。「僕はそういうことに偏見しないよ」と言ってくれたところにやっと当たったと思ったのも束の間、面接官は困った笑顔を浮かべて言った。
「偏見しないんだけど、君、働ける目をしてないんだよね」
目。的確なような曖昧なような言葉に唖然としていると、その面接官は訊いてもいない自分の息子が鬱になった話を始めた。
三十分間、語られた。精神障害者など雇いたくない、とひと言言われたほうがマシだった。
病気を打ち明けて面接に挑むのはやめた。そうしたら、好感触の面接がいくつかあった。それでも、なぜかやっぱり僕は不採用なのだ。どこが悪かったのかなんて説明はもらえない。いくつも面接を落ちて、仕事が決まらないまま秋になって、さすがに焦燥感が芽生えてきた。
何で。どうして僕はこんなにどんな仕事にも受からないのだろう。よほどのことがないと落ちることはないと言われる、コンビニさえ受からないのだ。
僕は何がよほどダメなのだろう。いらいらしたけど、あの面接官が言ったことが正しかったのか。僕は働ける目をしていないのか。ちゃんと相手の目を見て話すようにしている。志望動機も毎回考えて改める。質問も「ありません」でなく、なるべくその職場への興味を示すために投げかける。
それでも僕は採用されない。どこに行っても落とされる、使えないと判断される、いらないと切り捨てられてしまう。焦りで自信がすり減って、消えたはずの不安がどこからともなく心に忍びこんで、黒い感染を広げていく。
最後の食事のとき、紅が言っていた。風俗はやめときなよね。あのとき、その言葉をかけられていなかったら、僕はまたふらふらと軆を売るしかないのかと思っていたかもしれない。でも、その道に迷いこんでしまうのだけは、紅の忠告が引き止めてくれた。
しかし、だとしたら僕は何の仕事をすればいいのだ? すぐ辞めると思うから、飲食、工場、肉体労働とかには行っていないけど、そういうところならせめて受かるくらいできるのか。すぐ辞めるだろうと怖気づいている場合でもないのか。
でも僕はストレスを感じると場所など構わず切れて、人前だろうが手首を傷つけたりしてしまう。ストレスになると分かっている職に臨んで、僕は大丈夫なのか? もしまた手首を切ったりして、あの古本屋の店長に言われたように、「怖い」と言われたら……
怖いと言われるのが怖い。お前は気違いだと言われるのと同じだから。正気さえ保てるなら、僕だって、きっと普通に働ける……のに。
【第二十一章へ】