陽炎の柩-67

蹂躙される頭

 脚のあいだの、じわりとした感触に目が覚めた。汗をかいている。実摘は視覚を開いた。
 暗く、日光も射さない陰気な白い天井があった。犯された腰と全身の痣が、早くもにぶい悲鳴を上げる。
 実富のとこ、と思った。思ったら、認識の追求はしなかった。突きつめても、何もない。
 実富は隣で寝息をたてていた。嫌な気持ちになって、実摘は無理に上体を起こす。少しでも離れていたい。
 脚のあいだは、血に濡れていた。ゆっくり内腿まで流れるのが、感触で分かる。
 夢。夢だった。冬休みも、ケーキも、永遠も。飛季も。
 何だ、と実摘はうなだれる。あの部屋で飛季に殺される。現実だったらよかったのに。実摘は、軆のほてりと潤む瞳に脱力する。
 初めて見た夢だった。生々しかった。花畑の夢以外で、生理が始まったのも初めてだ。
 花の夢と交差していた。最後に殺されるところが似ていた。花の夢に較べて、現実的だった。花畑はあの部屋に、杭は包丁に、柩はベッドに、“彼”は飛季になっていた。降りそそぐ柔らかい光や、あの安らぎは同じだった。
 実摘は睫毛を上下させる。正夢、だろうか。だったらいいのに。飛季がそばにいなくて、それでも飛季を想って、実摘は“彼”に向けていた欲望を飛季に抱き始めている。その手で殺し、眠らせてほしいと。
 飛季の胸で眠りたい。永遠に目覚めたくない。飛季の胸で腐りたい。そして飛季も自殺し、昇華した先で魂を契る。
 実摘には、肉体は障害だ。とはいえ、実摘は飛季の軆が好きなので、こちらだけ死んで彼に宿るのでもいい。飛季の中に行くのだ。実摘は飛季に殺され、彼に溶ける。
 夢に出てきた飛季を思い返す。飛季だった。忠実に飛季だった。最後のほうは“彼”じみていても、それはそれでよかった。
 近頃は、夢で飛季を見ても、精神が参っているせいか、変なときがある。ずっと顔を向けてくれないとか、失踪をなじるとか、怪訝そうに他人あつかいするとか、ほかの女と恋人同士になっているとか。一番怖かったのは、飛季に抱かれていたのに、何度も相手が変転し、最終的に実富に行き着いた夢だ。
 そのときは、実富になった瞬間、悲鳴をあげて目覚めたら、現実でも実富に犯されている最中だった。実摘は彼女の横暴に気絶していたのだ。また怯えた声を上げていた。
 悪い夢が多かった。そんな中で、あの夢は嬉しい。飛季だった。部屋にいた頃、毎日会っていた飛季だった。実摘の大切な大切な恋人。
 脚を抱える。膣の中が気持ち悪い。膝に顎を乗せ、視線を迷わせた。会いたいなあ、としんみり思った。
 飛季に会いたい。あんなふうに何気なく起きて、そしたらそこに飛季がいて、「おはよう」と言ったら、「おはよう」と咲って返してもらえる。実摘は当たり前に飢えていた。夢の中で溺れた飛季の腕が恋しい。
 飛季。どうしているだろう。会いたい。不安だ。あの夢はすごくよかったけれど、切ない。夢の中の自分に嫉妬しそうだ。飛季に抱きしめられていた。自分も飛季に抱きしめられたい。会いたい。飛季に会いたい──
 視界がじわりとして、瞳が涙にもぐったときだ。突然背中を抱きこまれて、実摘はびくっとした。
 振り返ると、実富だった。おののいて逃げようとすると、彼女は腕に力をこめて実摘を制する。
「泣いてるね」
 実富の窃笑が耳元に響く。
「どうかしたの?」
 実摘はかぶりを振った。涙がぼろぼろとあふれる。飛季への想いによるものではない涙だ。
 実富は視線でこちらをねぶると、実摘の匂いを嗅いで、ふとんをめくった。実摘の脚のあいだは赤く濡れていた。実富はそこに手を探り入れ、実摘は暴れる。実富は実摘の耳たぶを噛んで笑うと、「着替えとごはんを頼むね」と軆を離した。ほっと肩の力を抜く。
 実富がメールを打つかたわら、実摘はごそごそと下着の具合を整えた。飛季の部屋にいた頃は、頻繁に生理が来ていた。今は稀な現象になっている。血が絡みついた指を服でぬぐう。
 飛季に抱かれた記憶に沈む。鬱したため息が出た。こんなところにいなければ、飛季の軆をむさぼれていた。
 あの部屋で、飛季の帰りを待ち焦がれることに泣き言をしていたのも、今となっては贅沢なわがままだ。あの部屋にいられただけで、自分はどんなに幸せだったか──
 いきなりつかまれた顎で、首が無茶に捻られた。眼前に実富の冷めた瞳が飛びこんできた。
 実摘はさっと怯えた。実富は咲わない。実摘は硬直する。
「私が呼んでるのに。あなたのその耳、使えないの?」
 実摘は目をつぶって、首を横に振る。実富は手を離し、実摘の正面にまわってくる。実摘は首をすくめ、顎を守った。しかし、髪をつかまれて顔を上げさせられる。
「何、考えてたの?」
 実摘は頭を振る。つかまれている髪のせいで、引っ張られた頭皮が痛んだ。ぶちぶちと髪がちぎれる音もした。実摘の髪型は、実富と同じになっている。
「何か考えてたでしょう」
 しつこくかぶりを振った。実富は実摘の頬を引っぱたいた。実摘はベッドに倒れこみ、ついで実富におおいかぶさられた。
「先生のこと?」
 頭を振りすぎて、頭蓋骨がぐらつく。脳みそがずれる。
「先生のこと考えてたの?」
 頭痛がして、かぶりを振るのをひかえてしまう。実富はそれを肯定と取り、実摘の腹に拳を刺した。実摘はうめいて口内に酸っぱいものを戻した。
 実富は、実摘の空腹と生理で弱る腹に体重をかけ、顎骨を強かに殴りつけた。
「何度言えば分かるの? 先生はあなたなんて必要ないの」
 実摘は薄目を開けた。
「あなたのことなんて忘れてる。何で先生が、あなたなんか憶えてなきゃいけないの?」
「こ、恋人だも、」
 頬をつぶした拳に、舌が大きく裂けた。耳の穴に涙が流れた。
「そばにもいないのに、どうやって憶えてるの? あなたはいない。人の記憶なんかすりぬける」
「飛季はちが、」
 舌が痛んで、言葉を上手に紡げない。
「同じだよ。先生はあなたなんか忘れてる。いなくても平然として──」
 実摘は、実富に血の混じった唾を吐いた。唾棄は彼女の左目に的中した。実富は顔を顰める。
「あんたの言うことなんか知らないんだよっ。飛季は僕を憶えてるよ。待ってくれてる。飛季を信じてるもん。あんたの言うことなんか、いっつも嘘ばっかりで──」
 実富は実摘の顔面に大量の唾を吐き捨てると、ベッドを降りていった。目をこすりながら、ドアのほうに歩いていく。一瞥すると、着替えと食事を持ち、こちらに蔑みを送る伊勇がいた。
 実摘は、彼のほうに唾を吐いた。鼻で嗤われた。実富が自分の元に来ると、伊勇は彼女に崇めるような視線を向ける。犬が、と実摘は内心毒づく。
 天井を向いた。額に散った実富の唾が、髪やこめかみにのろく流れる。ずきずきする顎や頬、穴が空きそうな腹に唇を噛む。舌では疼痛の脈打ちに合わせ、血が生まれていた。
 わめいた言葉を反芻する。本心だった。見栄ではない。飛季は実摘を待ってくれている。実摘はそう信じている。殴られても、声を張り上げる価値はあった。実摘はそう思って、弱気になりそうなのを追いやる。
 戻ってきた実富は、おっとりと微笑んだ。ベッドに置かれたトレイには、チーズトーストやスクランブルエッグがある。実摘は、おとなしく実富に抱き起こされた。実富は、実摘の額の唾液を丁寧に拭き、生理ナプキンも含めて着替えさせた。
 実摘の髪を撫で、口づけをすると朝食に進む。手際よくスクランブルエッグをスプーンですくって、実摘に食べさせる。ふっくらしたバターの利いたたまごも、切れた舌にはつらかった。血が混ざってまずい。
 実富は次々と実摘の口に食べ物を運ぶ。顎や舌を労ったり、休ませる様子はない。
「ねえ」
 実摘は実富に上目をする。
「あなたは、先生が自分を待ってると信じてるの?」
 うなずいた。彼女はくすりとした。
「恋人なのね。先生を愛してる?」
 うなずく。
「そう。それで、先生もあなたと同じ気持ち?」
 うなずく。
「私の言うことは、嘘ばっかりだと思ってる? 信じたくもない?」
 これにはややぎこちなく、しかし、うなずいた。実富はにっこりとした。
「お仕置きがいるね」
 実摘はこわばった。実富は咲う。不穏な笑みだった。彼女の愉快そうな笑みは、実摘の不愉快につながる。
 狼狽えているうちに、食事が終わった。今度は実富が食事を取る。そうしていると、ドアが開く音がした。
 目をやると、伊勇がいた。お仕置き。まさか、彼も虐待に参加するのか。
 かすめた考えに震駭していると、実富は実摘のこめかみに口づけて、ひらりとベッドを降りる。
 伊勇に犯されるのか。いや、彼なら暴力だろう。伊勇に殴られると、実摘はあっさり昏倒する。そこをさんざん凌辱されるとか。殴殺もありうる。
 何をされるのか。広がる不安にそわついていると、視野の端に、伊勇が実富に手渡したものが映った。
 見憶えがある──どころでは、なかった。ふたりのあいだには、生まれたときから実摘を包んでくれていたものがあった。あの、色褪せた緑の布。
 にら。どうして。にらはあの部屋で飛季を守っていたのではないのか。なぜこんなところにいるのだ。
 伊勇が出ていくと、実富がにらを腕にさげてやってくる。自分と飛季以外の人間がにらに触れることに、実摘は本能的な嫌悪を覚えた。しかも、触っているのは実富だ。実摘は猛獣のごとくうめいた。
「にら」
 実富は眉を上げた。実摘はベッドの縁へとうごめいた。
「どうして。どうしてにら持ってるの。にら、いや、触らないでよっ。にらは僕のだもん。にら、」
「にら、ね。名前かな」
 実富はにらの生地を撫でた。実摘は唸り声をあげて、腕を伸ばした。
「触るなっ。返してよっ。腐る、にらが腐る。触らないで。にら、にら、にら──」
 実富は実摘の蒼惶に微笑すると、「お仕置き」と明かりに反射するものを持ち上げた。大きな裁ちばさみだった。
 実摘は悲鳴を上げ、砕かれた軆も忘れてベッドを降りようとした。遅かった。実富は笑いながらにらを振り上げると、その裾に深い切れこみを入れた。
「いやあっ、何で、嫌、にら、」
「あなたが悪いの。この毛布はあなたの犠牲」
 実富は切れこみをつかむと、勢いよくにらをふたつに引き裂いた。実摘は喉がつぶれそうに絶叫した。自分でもよく聞こえない声量だった。
 ベッドを転げ落ちる。「やめて」と実富にすがろうする。彼女は笑って、実摘の背中を踏みつけ、蹴りやった。実摘は床に横転した。
 じゃきん、と音がした。振り返ったとき、真っ二つになったにらが、また実富の白い手に裂かれていた。実摘は哭した。びりびりっという痛ましい音をかき消すように。実富は負けないぐらい高笑いし、執拗ににらを引きちぎった。
 実摘は実富の足元に行った。そのたび、実富は実摘を乱暴に足蹴にした。実摘のぼろぼろの軆は、踏んばりもできなかった。
 にらが引き裂かれていく。細かい布切れになって、白い絨毯に散乱していく。
 実摘は泣き叫んで、頭を抱えた。痛ましいにらの悲鳴が、実摘の恐怖をあおった。びりびりびり、という音は、実摘には助けを求めるにらの叫びに聞こえた。
 助けて。
 そう聞こえた。
 助けて。助けてよ。ねえ実摘。助けて──。
 にらの悲鳴が、実摘の鼓膜をたたく。実摘は無力感に泣いた。にらの名前を呼びながら、耳を塞いだ。実富の狂った笑い声は、手のひらを突き抜けた。
 殺したような笑いだ。実富は殺している。にらを殺している。実摘の大切なにらを!
 涙や涎が、傷口に染みる。実摘は顔を台無しにして、なおも実富にすがった。実富は容赦なく、実摘を踏み躙って蹴たくった。
 にらの破片が背中に舞い散る。実摘の全身はがくがくと戦慄していた。呼吸が痙攣していた。手足の感覚が麻痺していた。自分が何をしているのか分からなかった。
 にらが舞っている。色褪せた緑色が。生まれた頃から、ずっとずっと一緒にいた。実摘を守ってくれた。にらが壊れていく。実摘を殺した悪魔に、裂きちぎられていく。
 にら。実摘の命。実摘の存在。そばにいてくれた。寸裂になっていく。にら──。
 実摘は、弱々しい嗚咽をあげた。実富の甲高い笑い声は止まらなかった。実摘は丸まり、止まりそうに乱れる鼓動に埋まる。
 にら。にらがいなくなる。にらが壊れてしまう。どうしよう。ひとりぼっちだ。にらを失くしてしまったら。どうすればいい。もうほかには──
 実富は、にらの最後の切れ端をすげなく捨てると、はさみも放って実摘を犯しはじめた。あなたなんかいないの。いい子。さあ消えて。このボロ切れみたいにね。実富の呪詛は滔々と続いた。泣きすぎる実摘の頭はぐちゃぐちゃで、聞こえても噛み砕けなかった。
 にらを失った。実摘には、もう、ひとりしかいない。飛季だ。実摘には、もう飛季しかいない。
 実摘は喉を震わせた。飛季の名前を叫喚した。殴られた。よく感じられなかった。どうでもよかった。呼吸を通し、大声で飛季を呼んだ。
 飛季に会いたかった。彼に抱きしめられたかった。そうしないと、いよいよどうにかなってしまいそうだった。

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