陽炎の柩-71

獣のように

 エレベーターを降りると、エレベーターホールは白熱燈で明るかった。観葉植物もあり、清掃も行き届いている。
 飛季は実富のぴんとした背中を追った。コンクリートは丁寧に白く塗られ、廊下も清潔だ。
 飛季は呼吸を抑え、乱れを整えた。心が波立っている。実摘を突き放そう、とは思っている。だが、自信はない。呵責はある。実富に言いくるめられた、情けなさもあった。
 飛季に拒否され、実摘が救われるとは思えない。ならば、きびすを返せばいいのに、どうしてもできない。関係の公表が負い目になっていた。
 牢屋に入るのはいい。軽蔑されるのも、職を失うのも構わない。そういう危険も冗談ではないのを承知し、飛季は実摘と関係を築いてきた。
 だが、飛季がそうなったことを、実富が好きに曲げたかたちで実摘が知れば、その精神が壊れるのは確実だ。実摘が飛季を想っていれば想っているほど、崩壊は大きくなる。
 ひとつドアを抜け、そこで靴を脱いだ。壁がコンクリートでなく壁紙になる。一本道のフローリングを進み、実富が立ち止まったのは、一番奥のドアだった。
 飛季の頬は硬くなる。実富は飛季を見上げ、「約束ですよ」と言った。飛季はぎこちなくうなずいた。彼女はカードで鍵を開け、ドアを開いた。
 春なのに暖房で室内はむっとして、温風がそよぐほかは静かだった。広がる起毛の白い絨毯に踏みこもうとして、飛季ははっと立ちすくむ。緑のものが散乱していた。
 緑の、布。たくさんの切れ端。その色褪せ具合には見憶えがある。
 にらだ。にらの破片だ。引き裂かれたにらが、絨毯一面に散らばっている。
 血の気が引いた。事態はたやすく解けた。信じがたかった。なぜ実富は、そこまで自分のために残酷になれるのか。
「眠ってるの?」
 ぎしっとベッドが軋む。飛季は、にらの惨状から顔を上げた。
「起きてたんだね。ふふ、先生のことでも考えてたの?」
 激しくかぶりを振る音がした。飛季はいささか傷ついた。そんなに、めいっぱい否定しなくてもいいだろうに。しかし、実摘は飛季を想っていたのだろうし、それを実富に知られるのを恐れているのも、察することができた。
 飛季は、ややベッドを離れたところに突っ立った。実富はにらの残骸を踏みつけて、ベッドに向かった。ベッドサイドに気品よく腰かけ、ふとんの浅いふくらみを撫でる。
「出てきてごらん」
 うめき声がした。弱くて消え入りそうだった。が、確かに実摘の声だ。
「今日はね、あなたにお客さんがいるの」
 実摘はさらにふとんにもぐりこんでしまう。実富は笑って、こちらに目配せした。にらを踏まないように気をつけて、飛季はベッドに近づく。
 足音が聞こえたのか、ふとんのふくらみは顫動していた。飛季だとは思ってもいないのだろう。ベッドのそばで足を止める。
 飛季は実摘を見下ろし、どうすべきか迷った。顔を見ていないせいか、そこに実摘がいると実感が湧かない。
 とりあえず、床にひざまずいた。デイパックがどさりと床に落ち、ふとんが揺れる。ベッドに腰かける実富は、飛季を眺めている。
 飛季は小さく深呼吸すると、できる限り優しい声で呼びかけた。
「実摘」
 ふとんがびくんと震えた。そして、その打たれたような痙攣を最後に、戦慄が止まった。
 飛季は唇を舐める。乾いていた。喉もからからになっている。
「俺だよ」
 弱々しい鳴き声がした。ふとんが揺蕩い、もごもごとする。
「実摘。……顔、見せて」
 きわどい言葉に、実富が視線を突き刺してきた。飛季は口ごもった。
 つぶれた唸りがして、ふとんに目を戻す。手がぬうっと出てきた。蒼白く血管が浮いて、骨に皮を貼った枝の手だった。これが実摘の手なのか。実摘の手は、小さくてもあんなにふんわりとしていたのに。
 五本の枝の指がまたたく。何かをつかもうとしている。飛季はその手に手を伸ばした。細かった。握り返せなかった。枝の手は飛季の手をつかみ、ふとんの中に連れていく。
 実富は億劫そうに息をついている。
 飛季の手の甲に、頬骨と濡れた肌が触れた。飛季は息を詰めた。頬擦りと口づけを感じる。飛季はつい、ごくかすかにその頬を撫で返してしまう。
 嬉々とした声がした。実摘の声だった。あの儚い声だ。実摘だ。実摘がいる。今、自分は実摘と触れ合っている。死ぬほど恋しかった実摘と!
 実感した途端、飛季に情動が湧き起こった。ふとんを剥がして、実摘を抱きしめたくなった。会いたかったと叫びそうになる。迎えにきたんだ、一緒に部屋に帰ろうと。
「実摘──」
 飛季の手を握り、ふとんから後頭部が出てきた。栗色の髪をした頭がうごめき、ちろっと目尻の切れこむ瞳が向いてくる。飛季はその目と見つめ合った。瞳がどうしようもなく潤んだ。
 間違いなく、実摘だった。
 飛季を認めると、実摘はいそいそとふとんを出てきた。飛季は思わず、そのままふとんの中にいてくれと言いたくなった。実摘のやつれ方は異常だった。肉体でなく、骸骨に近かった。
 特に顔に愕然とする。こけているのに、ぱんぱんだ。頬や顎、目の周りが、青黒く変色して腫れ上がっている。口元は血で汚れ、目の下には真っ黒な隈がある。落ちてしまった肉に、眼球が零れ落ちそうに窪み出ている。顔全体は涙でぐちゃぐちゃだ。
 それでも実摘は、飛季を見つめて嬉しそうに咲った。どう返せばいいのか、分からなかった。咲い返すことはできなかった。逆に泣きそうになる。
 実摘はのろい動作でベッドの縁に来ると、うずくまって、飛季の顔を覗きこんでくる。そして、ぼろぼろのすがたに反し、この上なく嬉しそうに破顔した。
「飛季なのー」
「……あ、」
「あのね、あのね、僕ね、飛季に会いたかったの」
「実摘……」
「んとね、にらがね、いなくなったの。ばらばらなの。僕、飛季だけになったでしょ。飛季しかいないよ。でも、飛季がいるよ」
 実摘は、もろげな手で飛季の手をきつく握っている。
「飛季がいたからね、僕、飛季を待てたの。にらのぶんも待ってたよ。信じてたの。飛季とまた会えるって。そしたら会えたの。飛季と僕だからだよ。僕ね、頑張ったの。飛季と僕なら、絶対会えるって思ってたの」
「……ん、」
「いい子なの。心の中に飛季がいたの。負けて死ななかった。僕、ずっと飛季に会いたかったよ」
 実摘の瞳と見つめ合った。きらきらしていた。その澄んだ無垢な瞳は変わっていない。それとも──たった今、その光は戻ったのだろうか。
「飛季は?」
「えっ」
「飛季は、僕、待ってた? 信じてた? 会いたかった? 心に僕がいるの、守った?」
「あ、………」
「会いたかったでしょ。おんなじおんなじ」
 飛季は口ごもった。急に、実富の冷然とした視線が痛くなった。すると、実摘の燦然とした視線も痛くなった。
 実摘は飛季の答えを待っている。
 実富も飛季の答えを待っている。
 飛季は板挟みになった。どうしよう。いまさら思った。自分はどちらを取るべきなのか。
 逡巡する飛季に、実摘の手がこわごわと動いた。飛季は実摘を見た。彼女は泣きそうになっていた。
「違うの?」
「え、」
「飛季、僕、忘れてたの? いなくてよかったの? 嘘だもん。飛季は僕のなの。変わらないの。ずっと一緒なの。嫌。違うの。信じてるよ。飛季が嫌でも、飛季は僕のだもん。飛季しかいないの。嫌。忘れないで。そばにいるの。嫌だよ。飛季、飛季、飛季、僕──」
 実摘がわっと泣き出した瞬間、飛季の頭は真っ白になった。本能で突き動いていた。乱暴な勢いで実摘を引っ張って、きつく抱きしめていた。「会いたかった」と声を絞り出す。
「飛季、」
「すごく会いたかった。寂しかったよ。実摘がいなくて寂しかった。待ってた。でも信じられないぐらい怖かった。会えないかもって何回も思った。怖くて、どうしたらいいのか分からなかっ──」
 喉が詰まった。実摘のうなじに、熱い雫がぼろぼろと流れていった。
 泣いている、と自覚するのに何秒かかった。その何秒のあいだに首根っこをつかまれた。実摘は離さなかった。必然、実摘はベッドをすべり落ちる。「飛季泣いてるの」と彼女はのんきに言った。
 飛季は顔を上げる。無論、手荒の犯人は実富だ。
「約束が違いますよ」
 濡れた視界で、飛季は彼女を見た。実摘を抱きしめる腕に力をこめる。実摘は折れそうだったが、譲れなかった。
 実摘は飛季の胸にもぐって喉を鳴らす。飛季は彼女の頭を腕でおおった。この子は現実逃避していてもかまわない。
「今のうちなら、許してあげてもいいですよ」
「頼むよ」
「言ってください」
「頼む。俺からこの子を取らないでくれ」
 実富は吐き出すように笑った。
「人聞きが悪いですね。取ったのはあんたでしょう」
「俺にはこの子が必要なんだ」
「私にも必要なんです」
「この子がいないと死にそうなんだ」
 実富は笑い声を上げると、反射的に実摘が硬直する。
「死にそうなんですか」
 飛季は素早く実摘のこめかみに口づけた。実摘の肩がやわらぐ。
「じゃあ、とっとと死んじまえ!」
 肩に思いがけないほど強烈な蹴りが入った。飛季はやりかえすより、せくぐまって腕の中に実摘をかばった。実摘は怯えた声を上げた。それを実富の渦巻く笑い声がかき消した。細い軆のどこに秘めているのか、実富は飛季の腰に猛烈にかかとを落としてくる。
「お前にはそいつを持つ資格はないんだよ、死にそうならとっとと死ねっ。目障りなんだよ、最初っから顔見るだけで吐きそうだったんだ。役立たずのくせに害だけ撒き散らしやがって。てめえは死んじまって、地獄で首斬られるのがお似合いなんだよっ。そいつを離せっ。かばってるのかよ、ちきしょう、何で癪に障ることしかできねえんだよっ。そいつにかばう価値なんかないんだ、てめえは死体を守ってるんだ。バカなんじゃないのか。頭狂ってんだろ。そうだよな。てめえは気違いだっ。どんなに冷めた顔作ってても、全部滲み出てんだよっ。気取りやがって、分かってねえのか。聞いてんのか、お前に言ってるんだよっ。死体を守ってる変態、お前だよっ。そいつを離せ、てめえの病原菌が移るっ。地獄で死体とやってろ、このクズっ。役に立ちたかったら死んで、そいつを離せっ。早く! 聞こえてんだろうが、くそったれのロリコン野郎が!」
 ぶるぶる震える実摘をかばって蹴られながら、飛季は神妙な顔つきになっていた。この罵倒は、聞いたことがある。実摘のあの悪罵にそっくりだ。
 僕じゃない僕が来る、と実摘は言っていた。それは、実富の正体だったのか。
 実富の暴言と暴力はとめどない。やりかえす力はある。けれど、実摘を放置できなかった。悩んでいるあいだにも、実富の猛攻に背中がずきりと痛みはじめる。脊椎を踏み躙られて、思わず低いうめきがもれたときだ。
 突然、実摘が震動を絶ち、物の怪じみた猛獣の唸り声を捻じり出した。
「実摘、」
 実摘は突如猛った咆哮をあげて、飛季を押しのけた。驚くような力だった。飛季は床に尻持ちをついた。
 実富ははっとして、その隙に実摘は実富に飛びかかった。ふたりはもつれて、絨毯に倒れこむ。
「飛季のこと、何にも知らないくせにっ。ふざけんなよ、ぶっ殺してやるっ!!」
 実摘の声は、何かに乗り移られたかのごとくドスがきき、憎悪がたぎっていた。
 実摘と実富は揉み合った。飛季は立ち上がろうとした。実摘の両手が、実富の喉を捕らえた。
「実摘、」
 飛季の制止も聞こえなかったのか、実摘は一気に実富の喉を絞め上げた。牽制ではなかった。本気だった。
 実摘は肩を怒らせて力み、渾身で実富の首を扼した。実富は目を向いて顔を青黒くし、口をぱっくり開けて喘いだ。実摘を押しのけようとしたのか、上げた手も弱かった。実摘は食いこませる指で実富の呼吸をさえぎる。
 実富のはみでた舌がどきつく変色していく。脚のばたつきがただの引き攣りになる。抵抗も力を失くしていく。
 実摘は容赦なかった。実富の喉に親指を突き刺し、悲鳴を上げて自分を奮い、その命を絞り取った。
 飛季は動けなかった。茫然とそのさまを見ていた。実摘は実富の首を揺すって絞める。
 ついに実富の手が絨毯に落ちた。それでも実摘は、彼女の首を絞め続けた。飛季はようやく立ち上がり、実摘の元に行った。
「実摘」
 実摘は手を止めた。こちらを向いた。彼女は泣いていた。
「飛季──」
「もう、いいよ。死んだよ」
「飛季……」
 飛季は腰をかがめ、実摘の涙をそっとぬぐった。撫でられなかった。強く触れるには、痣が痛ましすぎる。
「泣いてる」
「ん」
「哀しかった?」
 実摘はこくんとして、涙を雑にこする。
「飛季の悪口言ったもん」
 飛季はきょとんと実摘の涙を見つめる。飛季の悪口を言った。飛季は息を吐いて咲うと、実摘を抱き寄せた。実摘も実富の軆の上を降り、ぎゅっと抱きついてくる。
「飛季」
「ん」
「飛季だ」
「うん」
「会いたかった」
「俺も会いたかった」
「飛季泣いたの」
「初めて泣いたかも」
「寂しかったの」
「うん」
「どのぐらい」
「実摘を殺しておけばよかったぐらい」
 実摘は、飛季を絨毯に押し倒した。唇がかぶさってきた。飛季は応えた。唇を食べあう口づけを交わした。舌を絡めて唾液をすすり、息を詰まらせる。むさぼる口づけを繰り返した。
 そのうち飛季が上になって、服を剥ぎ取り合った。実摘の軆は痩せ細り、痣だらけだった。腹など、白い部分より青紫の部分のほうが多い。
 飛季は、実摘をいたわりつつも、狂おしくまさぐった。実摘も飛季の筋肉にかじりついた。
 ほどなく軆を重ねた飛季と実摘は、かつてない獣欲に満ちた交尾をした。飛季は野獣のように吼え、実摘は叫ぶように啼いた。貪欲に求めあって、共に絶頂に達した。
 ふたりは、幾度も愛し合った。かけはなれそうになっていた契りを、もう一度、激しくも丹念に結い直していった。

第七十二章へ

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