新学期を迎えて
桜色の優しい暖かな風が、緩くまとめたツインテールをなびかせる。息もつけない満員電車から吐き出されて、駅から高校へのこの桜並木を歩くのも、今日から三年目だ。受験生かあ、と青空に目を細め、制服の流れを縫っていく。
就職してもよかったけれど、あたしは進学を選んだ。一度は第一希望に「二次元に行く」と書いたのだけど、全力で親友共に書き直しさせられた。特に未佑希には、「そろそろ現実見ろ」と言われまくった。おはようメールをチェックしながら、現実なんてねえ、と春休みに発売されたしづ様のストラップを指先でいじる。
昨日の深夜、ついに『クリスタルメイズ』のアニメ第一話が放送された。録画もしていたけど、リアルタイムでも観た。第一話のせいか、やはりクラスメイト中心の話だったけれど、新学期の挨拶のシーンでしづ様が登場した。あたしはしづ様のクッションを抱きしめて、何とか悲鳴をうめきに抑えた。動いてる! しづ様が動いてる!! 声優も穏やかにたおやかにしづ様を演じていて、ドラマCDでのイメージを保っていた。何かもうこの声で、水澄さんさえ許可するなら、キャラソンとか出してほしい。というか、普通に出るかもしれない。
どうしよう展開が幸せすぎる、とそわそわ考えていると、同じ制服が雪崩れこむ校門に到着していた。そのとき、スマホに着信がついた。タイトルは、
『奇跡キタ──!!』
絵鞠からだ。
『みんなクラス一緒!』
みんな。みんな、ってやっぱりあいつらか。ちなみに、この高校は進学組と就職組があるので、二年から三年もクラス替えがある。新しい友達を作るのも面倒だし、まあいいのか。件名なしで、絵鞠には適当な笑顔の顔文字だけ送っておいた。
始業式までは、旧学年の教室に集まる。見知った顔がざわめくそこには、絵鞠と未佑希がいた。緩い春の陽射しがきらきらしているけど、やっぱり肌寒い。「はよー」と自然とふたりに歩み寄ると、「おはよーっ」と絵鞠はハグしてきて、「よお」と未佑希はにやりとする。
「海は?」
「どうせ男だろ」
「死ねばいいのに」
「同意。高校生活ラスト一年くらい、彼氏できねーかなー」
「未佑希は彼女じゃないの?」
「どういう意味だよ」
ぎろりと未佑希はこちらを睨む。
「未佑希さん怖っ。そろそろグループからリストラか」
「あんたをハブくぞ」
「えーっ、せっかく一緒のクラスになれたんだよー。あ、そういえば海からメール来ない。電車かなー」
「男だってば」
ここはあたしと未佑希がハモると、毛先のカールを指先でいじっていた絵鞠はしばたき、「あれ?」とあたしの手のスマホのストラップをすくう。
「このしづ様、見たことない」
「あ、これ予約しててよかったよ。即完売でさ」
「しづ様も大変だよねー。彼女そんなにいてさ」
「一番愛してるのは、あたしだと思う」
「出たこれ」
未佑希が疲れたようにつぶやき、あたしは「それくらい想わせろよ」とむくれる。
「独占欲で他のファンを殺そうとする奴もいるんだぜ」
「ラバストちぎる話か」
「ほんと恐ろしい……あたし、そこまではしないし」
「でも、私もそのくらい誰かを好きになりたいなー」
「好きな人はいいよー。好きな人いるとね、違うよ。生活の張りも」
「だよねー」
「二次元はやめとけ」
「そんなこと言ってる未佑希が二次元に走ったら、あたし高笑いするのに」
「ないから高笑いはあきらめな。──あ、海来た」
あたしたちは、まとめて入口を振りかえる。今日も長い黒髪を艶々と流す海は、あたしたちに気づくとクールな表情のまま近づいてくる。
「おはよう」
「避妊した?」
「ご心配なく」
「……爆発しろ」
不穏にぼそりとした未佑希に、海は首をかたむける。
「未佑希は、春休みには処女捨てるって言って──」
「そんなさくっとできたら苦労しねえんだよ」
「未佑希、大丈夫。私もヴァージンだから」
「絵鞠はさー、何だかんだでモテるじゃん。いつでもできるじゃん。あたしはなー」
「まず言葉遣いから調教してくれる男じゃないとね」
そのへんの席についておくあたしに、つくえに座って脚を放る未佑希が舌打ちする。
「何で? 何で問題のあんたが処女じゃないの?」
「何であたしが問題だよ」
「あんたに昔は彼氏がいたって知ったときは、マジで一瞬死んだと思った」
「つーか、そいつが最低だったから、今のあたしがあるんだけど」
「二次元に走らせる男ね……」
海はあたしの後ろの席に腰かけ、絵鞠は未佑希がつくえを陣取っている席に着く。
「もうその彼氏くんとは連絡取ってないの?」
「取りたくもないわ」
吐き捨てながらつくえに胸を預け、ブログから拾っている、水澄さんが描いたと保障のあるしづ様の画像を眺める。
さらさらの髪、大きな瞳、柔らかい笑みを浮かべる口元、白い肌──。しづ様は中性的だ。かわいい、というか、美人系の中性さを持っている。
強いて言えば、大きな瞳だろうか。しづ様とあいつの共通点。あたしは瞳で人に惹かれるらしい。ただ、あいつがその瞳に浮かべるのは、毒々しいまでの──
吐き気がして回想はやめた。ダメだ。気持ち悪い。
別にあいつだからじゃない。あたしは、すべての男のそういうものが気持ち悪い。病気だと言われた。それでもいい。あんなものを受け入れるくらいなら、病んで、何にも感じたくない。
指先でスマホの画面を伝った。しづ様は、あたしにそういうものを求めない。触れ合えることすらないのだから、安心して愛することができる。応えてもらえないから、それが当然だから、あたしはひたすら一方的に愛する。
二次元に行けたらなあと思う。でも、たぶん二次元に行ったら、この想いは粉々になる。具現化したしづ様。そのしづ様には、きっとしづ様の意思があり、しづ様の感情があり、考えたくないけど、しづ様の欲望があるだろう。そういうものはいらない。二次元キャラならそういうことも受け入れる、なんてできない。気持ち悪いものは気持ち悪い。ハグはしたくなるときがあるけど、それ以上はない。二次元と三次元に絶対的に引き離されている安心感が、あたしに恋をさせる。
スマホをホーム画面に切り替えた。
ぼんやり、あいつのことを考えた。今頃どうしているのだろう。本命の彼女とはうまくいっているのだろうか。
「季羽」
「んー」
「しづ様と結婚できるといいね」
頬杖で絵鞠を見た。絵鞠はあたしの恋を理解してくれているほうだ、と思う。「うん」と画面を落としたスマホを置くと、ぼーっと黒板に書かれた『始業式』の文字を見つめた。
【第三章へ】