IN BLOSSOM-3

ただ想うこと

 そんなこんなで、あたしの高校生活最後の一年が始まった。空色を舞う桜は、雷雨にもぎとられて、風に揺れる葉桜になっていく。新しい教室も、それなりにざわめきにまとまりが出てきた。もちろん、ぼっちの人も一定数いるけれど。肌を撫でる風が、温度を帯びていく。
 あたしといえば、『クリスタルメイズ』のアニメが続く三ヶ月間は死ねない感じだった。第三話で主人公が生徒会の門をたたいて、死ぬほどしづ様が登場して、声なき声をあげた。あの声優にあそこまでの演技力があったとは。水澄さんがすごくダメ出ししてくれたんだろうなあと思う。昨日のブログでも、『第三話はしづ様にこだわった。』という一文があった。
 水澄さんグッショブ、と思いながら、その日、購買に出かけた親友共より先に、理科室から教室に戻った。四月も数日で終わりだったけど、まだクラスメイトの名前は把握しきっていない。だから、彼女のこともそのとき初めて認識した。
 風あったかくなってきたなー、と騒がしい廊下の窓が吸いこむ風にツインテールを流しながら教室に入ろうとしたときだ。ちょうど教室を出ていこうとしたクラスメイトと、肩がぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
 そう言いながら身を引くと、「あ、いえ」と相手が顔を上げた。
「こちらこそ」
 そう言ったその女生徒を、目を開いて見つめた。
 似てる──
 でも、まじまじとやる前に彼女は教室を出ていってしまった。
 その背中を見つめた。さらさらしたショートカット、ひるがえるセーラー服の襟、膝丈の紺のプリーツスカート──
 しづ様が女だったら、と思ったところで、「季羽っ」という声にはっとした。
 絵鞠と未佑希と海だった。そのとき、その女生徒も角を曲がって視界を失せてしまった。それでも、あたしが彼女を見つめていたのを親友共は見ていたらしい。
早瀬はやせさんがどうかしたの?」
 睫毛をぱたぱたとさせた絵鞠に、「早瀬さん」とあたしは繰り返す。
「ガンつけてたの?」
「違うわ」
「あの人、友達としか話さないよなー」
「私たちも似たようなものじゃない」
 未佑希と海の会話も上の空のあたしに、絵鞠は首をかたむける。
「早瀬さんに、何かあるの?」
「ん、いや。何でもない。昼飯買ってきた?」
「うん」
「じゃあ食おうぜ」
「今日はフルーツサンドイッチなんだー。生クリームうまー」
「何であんた太らないの」
 そんなことを言いながら適当な席に集まって、昼食が始まる。
 それでも、なぜだかまだ早瀬さんのことを考えていた。大きな瞳に一瞬映った、あたし。
 いや、でも、女の子だし。まあ、しづ様の残像がダブったのだろう。
 女の子には別に興味ない。否定はしないが、あたしとは無縁だ。男も、嫌いだけど。
 あいつの、軽蔑をはらんだ眇目と、最後の言葉がよぎった。
『つきあってんのにやりたくないとか、お前、病気だぜ』
 しづ様のラバストを握りしめた。
 病気。確かに、病気なのかもしれない。でも、病気でいいと思う。あんなことを繰り返すくらいなら、病気のほうが楽だ。異常だと言われても、二次元に本気になっているほうが幸せだ。
 その夜、シャワーを浴びて、白と水色のボーターのルームウェアになったあたしは、明日の予習を終えてPCを開いた。タブはブログの管理画面につながる。
 ブログには、あいつのことばかり書いていた時期がある。普段はあんまり読み返さない。思い出すだけで、感情が混線して気分が悪くなる。でも、ヒマなときにはぼんやりとさかのぼってしまうときがある。今日も頬杖をついてネットをうろついているうち、過去の記事をあさって、いろいろ痛い記事が出てきて過去の自分に死にたくなった。
『帰宅した。午前二時。
 十二時に呼び出されて、またいつも通り公園まで行った私って、どんだけバカなんだろうね。
 最近の彼氏は、私といるといらいらするみたい。
 なのに、どうして私に触るんだろう。
 私は彼氏とあんなことがしたいわけじゃなかったのに、あんなことしかしてない。
 吐き気すら感じてる。
 でもやっぱり彼氏が好きだから、抑えて……口に入れる。
 彼氏が精液を吐き出したらおしまい。
 私には何もない。
 何かされたって何もないのを、彼氏はもう知ってるし、それを病気だって言う。
 病気なのかな。
 分かんない。
 ただ、「好き」って気持ちのためだけに、かなり無理してるとは思う。』
 末期のいいところの記事だ。
 必死に、自分は幸せなんだと言い聞かせていた。好きな人に声をかけてもらえる。欲しいと思ってもらえる。肌を交わしてもらえる。セックスをメイクラブと呼んだりもする。あたしは彼を愛してる。だから服だって脱ぐ。
 でも思わず、「こういうのちょっと嫌かもしれない」とか口走ったあたりから、関係は乾きはじめたように思う。
『今、彼氏が音楽室出ていった。
 ピアノに手をついて、後ろからされた。
 少し痛かったけど、相変わらずほとんど無感覚。
 学校じゃ声の演技もできないし、ただ黒いピアノに顔を伏せてた。
 そんな私の反応に、「俺のこと好きなんじゃないのかよ」って彼氏が機嫌悪そうに言った。
「好きだよ」って言いながら、でも、だから何でこういうことをしなきゃいけないのか、私には分からない。』
 これは、関係を持ち始めてしばらくしか経っていないときだ。
 そう、初めは感じていた、なんてこともなかった。痛みもなかった。動かれていることに無感覚だった。
 彼が好きだった。本当に好きだったけど、だからって何で必ずセックスなの? 疑問が止まらなかった。あたしには、何か本能が欠落しているの?
 彼が下手だったとか、そういうのではないと思う。セックスに悦びを感じない自分に、わけが分からないばかりだった。
『今日、初めて彼氏とセックスした。
 中二でロストバージン。
 告白して一週間後って、早いのか遅いのか分かんないけど。
 ただ、セックスってそんなに気持ちいいってもんじゃないんだね。
 初めては痛いってよく聞くけど、痛みもなかった。
 何か入ってきて、動いてるなーとは思ったけど。
 それだけ。すごい冷めてた。
 慣れてきたら、気持ちよくなってくるのかな。』
 初体験だ。あまりにも何も感じなくて、前知識ばかり過激で、引き攣った笑い声を上げそうだった。
 彼とはこれで結ばれた。
 そんな精神安定剤を飲んだみたいな安堵感はあって、結局、その後のすべても、その安堵に依存していただけの気がする。
『私って、キス下手なのかなあ。
 何か、口の中に舌入ってくるとか、すごい嫌だったんだけど。
 ずっと好きだった人とキスできたのに。
 何なの、この嫌悪感。』
 そう、嫌悪。嫌悪なのだ。
 あたしは、どうしてもセックスやキスにひどい嫌悪感がある。人を好きだと思うことはある。でも、その人の軆が欲しいとは思えない。
 思えたらいいのに。そう望むから、ピュアとかそんなもんではない。正直、性的な潔癖症かもしれないと考えはじめるときもある。
 背凭れに体重を預けてブログの桜のデザインを眺め、こんなんあいつらは知らないからなあ、と親友共を想う。
 あの三人は、みんな高校からの友人だ。今までで一番何でも言い合える友達で、処女だの避妊だの下ネタも言う。でも、気持ち悪くなるような生々しい話はしない。避けているというより、切っかけがなくて、この性的な嫌悪感は打ち明けていない。打ち明けたくないことはないのだけれど。
 ブログ記事を上げようと思ったのだけど、まとまらなくて床に転がっていたドライヤーを手に取った。熱風をオンにして、しっとりした髪から水分を飛ばしはじめる。
 男は嫌いだ。元彼が元凶でも、男はあいつのあの目をひそませる奴ばかりだと気づいて、男はみんな嫌になった。だからといって、別に女を好きになるというわけでもなく──あたし、一生恋愛できないのかなと心に隙間風がよぎる。
 しづ様いるんだけどさ、と片手でくだらないブログを消せば、デスクトップには水澄さんが描きおろしたしづ様のスケッチが現れる。
 本当に、あたしはしづ様でいいのだ。どうせ恋愛をしたって、欲望に結びつける男ばかりで、想いを利用されてぼろぼろになる。
 しづ様は、ただ画面の中で微笑んでいる。だから、あたしの欲望の欠けた想いを受け取っても、ただ笑顔でいてくれる。それでいいと思う。
 男なんか、みんな、どうせ、気持ち悪い。

第四章へ

error: