IN BLOSSOM-4

触れないで

 中学時代、あたしは教室から遊離した人間だった。早く言えばぼっちだった。ただ、ぼっちは周りから浮かない。浮きさえしない。あたしはくっきり浮いていて、いつもイヤホンで音楽を聴きながら、爪を磨いたり文学小説を読んだりしていた。
「あ、このバンド、俺知ってる」
 一年生のときと変わりなく、二年生になってもあたしはクラスをかけはなれていた。桜色が空を舞う春だった。席について音楽を聴いていたあたしは、休み時間が終わりかけてイヤホンを外し、停止ボタンを押していた。
 すると突然そんな声が降ってきて、横目をくれると、そこには悪っぽいうわさを聞いたことがある、新クラスメイトの男子数人がいた。
「リュコ、かっこいいよなー」
 あたしの手元のジャケ写を覗きこみ、そいつはリユコ姐さんの曲を器用に口笛でたどった。その一番流行った曲と、何よりリュコという略称で、そいつがにわかなのは分かった。
 あたしは、小学生のときからリユコ姐さんに憧れて、そのリユコ姐さんが紅一点で野郎ばかりの楽器隊を引っ張る、ジャンクアクセサリーズというバンドを細かくチェックしていた。楽器隊はトリプルギターだったりDJだったり、かなりの人数がいて、さまざまな音で着飾った女王様のようにリユコ姐さんは歌う。
 その姐御っぽいかっこよさに、幼心にすごく惹かれていた。けれど、売れてきて存在がポップになって、安易に自分を“リュコ”などと親しげに呼ぶ輩も現れ、リユコ姐さんがアル中っぽくなっているのを最近たまに報道で見かける。
「……リュコじゃないよ」
 ぼそっと返すと、そいつの黒く大きな瞳に、肩までの髪とサイドはシャギーのあたしが映った。
 そいつの背後の仲間が、「郁斗いくと」とうざったそうに声をかける。そいつ──郁斗はそちらに軽く手を上げると、あたしに悪戯っぽくにやりとした。
「ごめん。リユコ姐さん、な」
 まばたきをして顔を向けた。郁斗はあたしの肩をぽんとすると、仲間を連れてすれちがっていった。
 手元のジャケ写を見つめた。何あいつ、と心でつぶやいたとき、チャイムが鳴って急いで教科書を取り出した。
 何だか、どきどきする。違う、クラスメイトに話しかけられるなんて、久しぶりだったからだ。そう、気になるのはめずらしかったから。
 仲間とふざけあう郁斗も、教師に生返事する郁斗も、たまにこちらを見てにっとする郁斗も。
 別に──。
 そんなことを思いながら、いつのまにかあたしの視線はいつも郁斗を探していた。もう一度、今度はゆっくり話せればいいのに。そんなことまで思うようになった。
 教室ではなるべく音楽を聴いたり、リユコ姐さんのインタビュー記事を読んだり、つまらない種はまいてみた。すべて不毛だった。確かに、まともに気を引いているとも言えやしない。
 郁斗は目が合えば笑いかけるくせに、いちいち話しかけてくることはしなかった。折れたのは、あたしのほうだった。
 夏休みが近くて、一ヶ月以上も教室を離れることになる。このあいだに、郁斗があたしなんか忘れて、目が合っても笑ってくれなくなったら。
 そう思うと、動かずにはいられなかった。
「──俺、つきあってる奴いるぜ?」
 呼び出しには応じた屋上で、あたしのメアドのメモを受け取りながら、郁斗は笑って冷たい壁を置いた。
 肌を腐らせるようなむっとした空気を、雲のない青空からの風がぬるく抜けていた。
「別に……」
「『別に』?」
「夏休みも普通に会って話せるなら、あたしは──」
「じゃあ返す」
 セーラー服のえんじ色のスカーフにメモを突き返され、眉を寄せて郁斗の癖毛の奥の大きな瞳を見つめた。白い開襟シャツに黒のスラックスの郁斗は、首をかたむけてあたしを眺めた。
「言えよ」
「え」
「言えば会ってやるよ」
「何、を」
「お前が言えば、俺も言ってやるよ」
 何を言えばいいのかくらい、もちろん分かった。別に嘘をつくわけではない。なのに、何とも言えない抵抗があった。
 郁斗の黒目がちの瞳は、あたしを試している。引っかかったら、その瞳に捕らわれる。捕らえてもらえる。監獄であっても、あたしは、その檻が──
「……き」
 郁斗はちょっと嗤って、すごく笑った。罠にかかったのが分かった。
「聞こえないんですけど」
「………、言ったじゃない」
「聞こえなきゃ言ってやらねえ」
「……好き」
「誰が」
「……郁斗くん、が」
「くん?」
「郁斗……が」
「あー、ちゃんとつなげて言われないと、分かんないかも。俺バカだから」
「い、郁斗が……郁斗が好きっ」
 目をつぶった。
 やられた。最悪。
 ──本当に? ほんとに、あたしそう想ってるの?
 郁斗に捕らわれたいと思った。その瞳が欲しかった。
 恐る恐るまぶたを上げてみる。すると、無邪気なほど満面の笑みがあった。
「俺も季羽が好き!」
 あっけらかんと言った瞬間、その笑顔を味わわせる間もなく、郁斗はあたしの腕を引き寄せた。
 え、と身構える間もなく、唇を塞がれた。ぬるっと触れた熱に、思わず口を閉ざす。郁斗の長い睫毛が、こわばるあたしの顔をかすった。
「……季羽」
 一瞬前とはぜんぜん違う、大人びたかすれた声にどぎまぎしていると、郁斗は喉の奥で笑いを噛む。
「教室にいるときとイメージ違うな。かわいい」
 かわいい。そんな言葉をあたしにかけた人は、親以外初めてだ。
「大丈夫だよ、俺、好きな子には優しいから」
 言葉のたび、発音に合わせて熱い吐息がかかる。その熱に、溶かされなくてはならないのだろう。ぜんぜん、溶ける気分じゃないけど。それより、さっきの笑顔が見たい。
 させたら、見れる?
 そう思うと、あたしは噛みしめていた唇をそろそろとやわらげていた。ゆっくり、途切れ途切れの息をもらすと、それを合図に郁斗の舌があたしの舌が襲ってきた。
 え……うわっ。何。何これ。ぬるぬるしてる。煙草? 変な臭いの味。何よこれ。気持ち悪い。やめて。あたしの口の中に入ってこないで。変なもの入れないで。もうやめて──
「やべえ、そそる」
 唇の隙間から息継いだ郁斗が、不意にそうこぼす。
「キスで震える女なんか、初めて見た」
 郁斗の近い瞳を見た。その中のあたしの目は泣いているように見えた。
 何で。どうして。郁斗とキスできたんだよ? 好きだった郁斗とつながったんだよ? 好きな人に、キスしてもらえたんだよ? なのに、何で、あたしはそんなにつらそうなの?
 やっと唇を離した郁斗は、あたしをぎゅっと抱きしめた。
 体温が軆を包んで、肩越しを真っ白に見つめた。ゆっくり、視覚が色合いを取り戻してくる。夏の青が瞳に沁みてくる。じんわり、蝉の声がしているのにも気づく。
 心がやっと生き返ってくる。硬直していた目が熱くなってくる。郁斗。郁斗にぎゅってされてる。郁斗の腕の中にいる。満ちすぎた感情に心臓が苦しく詰まって、郁斗の背中をつかまえたくて、でもそこまでしていいのか分からなくて、ただ、今度は優しく感じる煙草の匂いに強く胸を締めつけられる。
「郁斗……」
「ん」
「あたし、郁斗が好き……」
「うん」
「そばにいたいよ」
「ちゃんといるよ。俺も季羽が気になってたんだからな」
 郁斗の意外と無骨な手があたしの頭を撫でた。
「ずっと、季羽とこういうことしたかった」
 え?
 そう思ったときには、また口を口に塞がれていた。そして郁斗の手がウエストから動いた。薄い夏服越しに胸を捕らえ、指先を食いこませるように乳房をつかむ。
 違う。違うよ、郁斗。あたしは、あなたと話がしたかったんだよ。その瞳に映っていたいだけなんだよ。
 音楽の話しようよ。映画とか行こうよ。
 こんなのじゃない。
 こんなことのために言ったんじゃない。
 触らないで。
 あたしがあなたに想いを伝えたのは。
 押し倒さないで。
 思い切って心を打ち明けたのは。
 服を脱がせないで──
 こういうことしたかったから、じゃない。

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