手が届かないから
──気づけば、誰もいない家で、自分のベッドのシーツに全裸で仰向けにされていた。雑音のような郁斗の息遣いを、白黒の無感覚で聞いていた。
心がぜんぜん動いていない。軆も何も感じていない。あたしの感覚だけ置いてきぼりだ。郁斗の熱は、あたしが冷たいから蕩けあうことはなく、機械的な愛液とだけ混ざっている。
初めは、郁斗はあたしのそれを無垢と受け取って楽しんでいた。かわいいと咲っていた。
けれど、あたしは咲い返すのもつらくなっていった。言いたかった、こんなことしないで。ただあたしの隣にいて。
でも言えなかった。だってつまらないって思われたら。そしてさよならを言われたら。応えなきゃ。何にも感じなくても演技しなきゃ。
まさぐられて、口に含んで、突き上げられて。
言う通りにしていたら、離れていったりしないよね?
言い聞かせながら、そんな関係で何が幸せなのかと自分で自分を眺めている感じがする。自分からの冷めた視線に不安が滲む。やがて愛おしい瞳も、交わっても冷めているあたしの心を感知して、忌ま忌ましそうにゆがみはじめた。
「声くらい出せよ」
「えっ」
「良くないのかよ」
「あ、ううん、その……」
「俺が好きなんだろ?」
「ん、うん」
「好きな奴としてんなら、もっと反応しろよ」
反……応。
郁斗があたしをつらぬく。分からない。痛みさえないのだ。軆の中に郁斗がいて、そう、それは確かに、女として涙が出るほどの幸せのはずだ。
郁斗が好きだ。でも、違う。うまく言えないけど、これは違う。むしろ嫌だ。動かれるほど、その異物感に心が掠奪されていく。
好き。郁斗が好き。好きだ……った、けど。
──あたしは、あの無邪気な笑顔が見たかっただけ。
「お前、不感症だろ」
最後の郁斗の瞳は、あたしを追い出す彼の大きな瞳は、むごいほどの軽蔑でいびつだった。
「つきあってんのにやりたくないとか、お前、病気だぜ」
病気? あたし、病気なの?
酔ったように混迷して帰った家には、誰もいなかった。部屋にたどりついたあたしは、痙攣のような呼吸をもらして、その拍子にやっと泣き出した。まぶたを殴りつけるように、喉を引き裂くように、めちゃくちゃに泣きわめいた。
近所の人に発狂したのかと思われるほどの声を上げて、少し郁斗の匂いが残るシーツにくずおれて、何時間もどくどくと熱い涙を流した。気づくと、頭も心もばらばらに壊れていた。
『彼氏と別れた。
もうやだ、死にたい。私なんか死ねばいいんだ。
だって病気だもん。
彼氏に「病気」って言われた。
そうだよね、私おかしいんだよね。
何で感じないの。どうして吐きそうなの。
彼氏は最後、虫唾が走るって感じであたしを見てた。
でも、私も彼氏に虫唾が走るようになってる。
好きだったのに!
あんなに好きだったのに!!
どうして好きなのに、こんなに彼氏が気持ち悪いの。
おかしいよ、私おかしい。
死にたい。ほんとに、死んじゃいたい。
自分がわけ分かんなくて、もうそれが嫌だ。疲れた。
好きな人を嫌悪してる自分が最低すぎて受け入れられない。
どうしてあんなにダメだったんだろう。したくなかったんだろう。
彼氏のそばにいられればそれでよかったのに、裸もキスもセックスも、全部、私には拷問だった。』
三年生になって、郁斗の本命の女の子と同じクラスになった。その子は、あたしと郁斗のことは何も知らない。教室に遊びにくる郁斗に嬉しそうに、幸せそうに咲っていた。そんな彼女に郁斗も咲っていた。どこかの違う国の地平線より、遠かった。
あたしは現実逃避のネットのやりすぎで視力が落ちて、眼鏡という仕切りを置いた。その仕切りの向こうに見つけたのが、“水鏡”というサイトの一次創作の漫画、『クリスタルメイズ』──そして、しづ様だった。
しづ様は、生徒会の後輩である主人公を大切に想っている。その想いをぶつけることはない。同じくらい大切な親友が、主人公を見つめているから。相談されて、「応援する」と咲ってしまったから。絶対に自分の想いを人に見せず、痛々しいまでに殺している。
つらいのに。痛いのに。大切な人たちが幸せになるように、自分を苦しめ、ときには責めすらして。
ゆいいつ、鍵をかけた生徒会長室でだけ、文化祭で撮った主人公と自分が映った、たった一枚の写真を見つめて──
泣かないで。
泣かないでよ、しづ様。
あたしは、そんなあなたが本当に好きだよ。
あたしが想ってるから、どうか、もう泣かないで……
それから、あたしの二度目の恋が始まった。
特に使うこともなく、幼い頃から貯めてきた貯金でノート、マーカー、下敷き、シール、クリアファイル、使いもしないのに買いまくった。休日には電車も乗り継いで、中古ショップをはしごした。箔押しカード、デフォルメフィギュア、プリントクッション。部屋にしづ様が増えていく。ポスター、ブロマイド、ポストカード。壁が埋め尽くされていく。
そんな環境に囲まれて、もちろん初めは親はうるさかったけど、あたしの成績がどんどん上がっていくことに免じて、容認しはじめた。高校受験に苦しささえなかった。むしろ、ネット発表だった『クリスタルメイズ』がついに単行本化されることが決まって、それだけで頑張れた。もちろんあたしは第一志望校に合格して、久しぶりにしづ様関連以外の買い物でコンタクトを買った。
いつのまにか、流行の音楽は聴かなくなっていた。澄まして小説を読むのも、やたら爪を磨くのもやめた。
結ったことなんてなかった伸びた髪を、ツインテールにまとめた。そんな新しいあたしを何度も練習して、中学を卒業して、高校生になってあたしは変わった。
はは、あたしをださい根暗になったと思ってた奴ら。ざまあみろ。
あたしには、もうしづ様がいるんだ。あんたたちには分かんないでしょ、この気持ち。強くなったあたしを芯から支えてくれる、大切な人、その存在感、揺るぎない誓いも。分かんないよな、あふれるほど誰かを心から愛するなんて!
二次元? だから何だっていうの。だからいいんだよ。
しづ様は絶対にあたしに触れないから好き。手が届かないから好き。あんなこと……そう、キスもセックスもしなくていいから、あたしはしづ様が大好き!!
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