IN BLOSSOM-7

TEL【1】

 親友共と別れて自宅の最寄駅に着くと、五分くらい、本屋のコミックスコーナーをチェックする。もちろん一番好きな漫画は『クリスタルメイズ』だけど、あたしはけっこういろんな漫画をごちゃごちゃ読んでいる。思いがけない新刊に出逢うと、急いで財布と相談して、だいたい買う。二、三冊重なったときはさすがにレジに取り置きしてもらって、おかあさんに拝み倒したお金で翌日に購入する。
 今日は何もないな、と正直ちょっとほっとして、離れようと通りかかったコーナーに、どきりと立ち止まった。
 百合コーナー。
 百合。百合か。いや、あたしには関係ない。違う、別に、同性間の恋愛をどうこう言うつもりはない。けれど、あたしには関係……ない、と──
 天井を仰いだあたしは、周りに中学時代の知り合いがいないか確認して──いてもたいてい気づかれないのだけど──、百合本を適当に一冊引き抜いてみた。女の子と女の子が、スナップ写真のように笑顔で並んでいる表紙だ。こんなもんなのか、と隣の本に移ってみたら、今度は着崩れた制服で抱きあっている女の子同士で、とっさに眉を顰めて本棚に押しこんだ。
 違う。やっぱり、違う。
 女の子同士を悪く見るつもりはないのだけど、やっぱり、早瀬さんへの気持ちが恋だとは言い切れない。ちょっと期待したところもあったのだ。あたしは男とあんなにダメだった。だったら、女の子と、ということなのかと。
 でも、早瀬さんとそういうイメージをしようとしても、違う。あたしはただ、きちっと制服を着て、凛とした横顔をして、でも話す友達を優しく見つめている早瀬さんが……
 ああ、こういうの、たぶん早瀬さんからしたら気持ち悪いだろうなと思う。
 友達になりたいと思うのだけど、友達になったら、その先を求めてしまいそうで。でも、その“先”のイメージをすると吐き気がして、欲しくないとも思う。
 よく分からない。欲しければ、まだ恋だと思えるのに。友達になりたいけど、友達にはおさまりたくない。
 まあ現状、友達でさえないのだけど。クラスメイトなんて肩書き、他人と同じだ。
 メアド交換くらいできないかなあ、と願っても、こんな自分でも割り切れない、おかしな感情を持つあたしとのつきあいを、早瀬さんに押しつけたくないとも思う。
 早瀬さんとお茶とかできたらいいのに。朝来る「おはよう」のメールの中に、早瀬さんからのものがあればいいのに。せめて、早瀬さんに笑顔を向けてもらえる仲になれたらいいのに。それすらも叶わない遠さが、喉から呼吸をぎゅっと絞り取る。
 女子の別グループって、本当に遠い。いきなり話しかけたところで、対応できない迷惑なことなのだ。
 そういえば、早瀬さんには彼氏はいるのだろうか。あれだけ美人なら、いるか。校内でそれらしき男子は見たことはないけれど、ひけらかすタイプでもないと思う。彼氏がいたら、あたしのことなんて、ただでさえ気持ち悪くて迷惑なのに、その上邪魔と来て。最悪じゃん、と自分のうざさに嫌気が差すと、あたしは百合コーナーから身をひるがえして本屋を出た。
 ひとりで考えこんでいるうちに、じっとりした梅雨の小雨が降り出していた。あたしは桜の傘を差すと、ぱたぱたという雨の足音を聴きながら家まで歩く。駅前を出ると、住宅街ですれちがう人も減る。
 周りの景色は苔生した匂いがして、緑がかっているように見えた。アスファルトを進む歩幅を抑えても、ローファーの爪先はどうしても濡れる。夏服の腕を舐める蒸した雨に、「夏か」と深い意味もなくつぶやく。
 夏といえば、あれだ。『クリスタルメイズ』のアニメもそろそろ終わる。話どこまで進んでたっけとぼんやり思って、そう思う自分に絶望した。あたしをあんなに支えた二次元が、あとまわしになっている。
 もちろん、期末考査など知ったことではない。というか、何とかなる。
 痛みはじめる切っかけすら、中学生のときから成長していない。夏。あたしの胸を真っ先に刺すのは、一ヶ月以上、早瀬さんを見ることもできなくなってしまう夏休み──
『電話なんて、めずらしいわね』
 あたしは、あの恋で完全に恋愛音痴になっている。それは確かで、まずはしっかり恋愛している奴の意見を聞こうと思った。だとしたら、何年もリア充を続けている海だろうか。
 駅から十分くらいで帰宅すると、制服をルームウェアに着替えた。髪もほどくと、スマホを充電しながら海に電話をかけた。
「今、ひとり?」
『彼の部屋にいるわ』
「マジ死ねよ」
『切るわよ』
「嘘だよ。んー、何か、何か。え、彼さんはそこに」
『こっち眺めてるわね』
「話終わったらやっていいから、シャワー行かせろ」
『このまま始めても構わないけど』
「何プレイだよ! あたしにとって何のプレイなんだよ! とにかく、ひとりになれ」
『何なの』
「あとで未佑希と絵鞠にも訊くけどさ。とりあえずあんたかなと思って」
『………、ちょっと待ってて』
 ごと、と恐らくスマホを伏せた音がして、あたしはベッドに横たわった。赤のギンガムチェックのシーツとふとんからは、朝、出かける前に吹きかけるアロマローズの香りがする。キスとかしてんのかな、と思って無意識に眉を寄せていると、『もしもし』と海の声が帰ってきた。
「彼氏は」
『シャワーに』
「本気にするとか、ちょっとヒくわ」
『コンビニ。何、十五分だけよ』
「………、海って、彼氏のこと好きだよね」
『何よ、いきなり』
「違うの」
『まあ、好きね』
「そうか……。何ていうか、その……いや、別にあんたがうらやましいとかじゃなくて、……笑わない?」
『くだらない話じゃなければ』
「あんたにはくだらないかも──まあいいか、何かさ、あたし……好き、というか、そうかもしれない、人が、いるんだけど」
『しづ様でしょ』
「ふざけてんじゃねえんだよ!」
『あんたにはまじめな話でしょ、二次元』
「確かに二次元はいいよ、天国だよ、理想郷だよ、でも残念ながら三次元の話なんだよ」
 海はしばらく黙ったあと、『驚いたわ』と素直に述べた。あたしは寝返りを打って、しづ様のクッションに顔をうずめる。
「死にたい」
『告白されたわけではなさそうね』
「つか、分かんねえし。好きなのかな。これ言ったら、マジでヒカれる自信あるんだけど。……ヒくなよ」
『ええ』
「相手……が、さ。その、女の子、というか」
 海はまたしばらく無言だったけれど、『意外だけど』と息をつく。
『別に、ヒく話じゃないわ』
「そうか。でもね、分かんないんだよ。あたし、恋愛とかどうでもよかったし。ほんとにしづ様がいればよかったの。リアルの恋ってさ、何なの? 何をもって『好き』なの?」
『それぞれでしょ』
「あんたは何で彼氏とつきあってんだよ。要するにそれ聞けたらいいんだよ」
『彼に触れられるのは好きよ。それは二次元にはないものじゃないかしら』
「触れる」
『好きな彼女と、寝たいの?』
「寝っ……そ、そんな、しねえよっ。ふざけんなっ。今気づいたレベルだわ!」
『じゃあ、恋じゃなくてただの憧れかもしれないわね』
「憧れ」
『軆が欲しいかどうかって、大きいと思うけど』
「三次元ってビッチだな」
『私にはそうよ。手に入って触れられるから、恋なんじゃないかしら』
 そこで彼氏が戻ってきたようで、「本気で一緒にいたのかよ」とか毒づきながらも、海との電話を切り上げた。
 手に入れる。触れられる。何度か頭の中に反芻し、手が届かないので何も貼っていない天井を見つめる。前者はともかく、後者は当てはまらない。軆なんて、仮にあげると言われても欲しくない。たとえば更衣室では、早瀬さんだけは見ないようにしているくらいだ。
 人の肌色は気持ち悪い。自分の肌がさらされるのも嫌だ。早瀬さんならそれがないということはない。だったら、これは恋じゃないのか。憧れに過ぎなくて、やっぱりあたしは恋なんて──

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