IN BLOSSOM-9

あたしの正体

 立て続けに電話してちょっと疲れて、しづ様のクッションを抱きしめたまま、アロマローズに包まれて眠ってしまった。はっと目が覚めたら、部屋には闇が降りて、雨音もやんでいた。
 うめいて一度クッションをぎゅっとすると、手の中から何かすべりおちる。何、とたぐりよせると、スマホだった。
 メール着信がある。おかあさんで、『夕ごはんできたよ』──これに返信しなければ、我が家は食卓をスルーということになる。ごはん、と思ったものの、かったるくて、ゆっくりと仰向けになった。
 夢、と思った。夢を見ていた。制服を着た彼女の後ろすがたばかり見ていた。手が届かない。近づきたいのに。声もかけられない。話してみたいのに。ふと彼女は角を曲がる。そのとき、ちらりと見えた凛とした──
 スマホ充電の緑のクリアランプを一瞥した。
 女の子を好きになった、なんて。おかあさんたちはどんな顔をするだろう。二次元を容認するのだから、深く考えないだろうか。だとしても、話しづらい。テレビで同性同士の話が出たときの反応を思い返すと、ひそひそ話をしているように、どこか信じがたい様子で眉を寄せている。「偏見はしないけどねえ」という台詞に偏見が滲んでいる。
 しづ様のことを平気で口にできるのは、やはりしづ様が異性であるからなのか。もし女の子のキャラだったら──二次元の話だからね、とそこはそれで深く考えなかったか。そう、おかあさんたちはしづ様のことは深く考えていないのだ。いつかこんな娘も、現実で男と恋愛すると思っている。
 そしていつかは結婚して、子供を作って。できるならそうしたい。けれど、子供を作る行為も男も、やだな、とつい思ってしまう。あいつのせいかどうか分からないけど、男には獣欲的なイメージがある。
 女の子を好きになった、だから男は無理だ、とは感じない。早瀬さんとどうなるか知らないけど、おおかた失恋なわけで、次も必ず女の子というイメージはない。そもそも次というイメージ自体、まだ湧かない。もし、そういう、キスとかしなくていいなら、男でもかまわないと思う。でも、キスもセックスもいらないなんて男はいる気がしなくて、男はやだ、と嫌悪してしまう。
 女にも性欲あるんだろうけど、とシーツに突っ伏す。ただ、女の子同士なら、「好き」さえ口にしなければ、友達として幸せは満たされるのではないか。
 一緒に歩く。一緒にお茶する。一緒に咲う。
 あたしが早瀬さんに望むのは、そういう“つながり”で、性的なものはいっさいない。むしろ性的はいらない。だったら、友達になれればそれでいいのに。
 友達になって、早瀬さんに「好きだよ」って言う。早瀬さんも「好きだよ」って疑いもなく返す。その、「好き」の違いが、すごく胸に痛い。だからやっぱり、友達は嫌だと思ってしまう。
 何だろう、と髪が首に絡みつくみたいに焦れったい霧が湧き起こる。あたしは何なのだ。あたしはどうしたいのか、どうありたいのか、何を望んでいるのか。そんな根本的な問題まで考えはじめてしまう。
 男は考えられない? 違う。
 女の子ならいい? 違う。
 早瀬さんと寝たい? 違う。
 早瀬さんと友達になりたい? 違う。
 何もかも違う。あたしを受け入れる言葉がない。あたしってこんな得体の知れない奴だっけ、といよいよ蒼ざめてくる。
 病気なのかな、とあいつの毒が今になって心を引っかいた。本当に病気なのかもしれない。好きなのにキスやセックスはしたくない。舐めるも触れるも、舌も肌も気持ち悪い。やはり潔癖症とかの延長線なのだろうか。
 素肌や裸が嫌だと思う。特に下半身が嫌だ。男も女も、プライベートゾーンはせめて隠せ。触りたくないし、見たくないし、想像したくもない。
 何で「好き」という気持ちだけではダメなのだろう。「好き」ならセックスしなくてはならないという等号が分からない。それともやっぱり、セックスを求めない「好き」は恋愛とは呼べないのか──
 うつぶせになって、スマホのブラウザを起動した。深い意味はなかった。死にたいとき、“死にたい”と検索するような安易さだった。“セックスしたくない”を検索してみた。精神的な不感症とか出んのかな、と病人モードでげっそり思ってページが開くのを待つ。そして、ヒットしたリンクの見出しを見て、思わず目を開いた。
『彼女がセックスしたくないと言うんですが』
 ……え?
『好きだけどセックスしたくない。』
 えっ。
『彼氏とセックスしたくないのは変ですか?』
 何これ。
『好きな人とキスができません。』
『彼氏に触られるのが気持ち悪い。』
『どうしても性欲が分からない。』
“セックスしたくない”というキーワードをそれてきても、どんどんスクロールしていた。だって、関連するリンクがあたしに当てはまる言葉ばかりだった。ネットで回答を募集する質問が多いみたいだけれど──何。何なの。ネットにめちゃくちゃあたしがいる。こういうのってあたしだけじゃないの。しばらく暗い空中を睨んだあと、ひとつめのリンクに戻って、やたら指を躊躇わせたあと、思い切ってタップした。
『僕には彼女がいます。つきあって半年です。
 初めてセックスしたのは一ヶ月目くらいでしたが、彼女はベッドでぜんぜん喜んでくれませんでした。
 僕が下手なのかなって、正直ほかの女の子で練習みたいなこともしましたが、何も感じさせないほど下手ってわけではないみたいでした。
 でも、それが浮気と思われてばれてしまい、正直に思っていることを話したら彼女は泣き出して、「私はそういうことが嫌い」って言ってきました。
 そして、「できない私がいらないなら別れよう」とまで言われてしまいました。
 今すごく悩んでいます。
 僕は彼女が好きだから別れたくないんですが、彼女の感覚がどうしても分かりません。
 彼女は僕のことが本当は嫌いなのでしょうか?
 それとも、セックスしたくない何かが僕にあるのでしょうか?
 誰か教えてください。お願いします。』
 やばい。この彼女、かぶる。
 生唾を飲みこむ。胸がざわざわする。回答数はけっこうある。やはり、『嫌われてるのも分かんないのか』とかいう回答がついているのか。
 そうじゃない。そうじゃないんだよ。この人の彼女の気持ちがあたしは分かる。でも、それをこの人にどう言ったらいいのかは分からない。
 恐る恐るスクロールしてみた。すると、そこには、あたしが予想もしていない反応が並んでいた。
『彼女さんはアセクシュアルなのかもしれません。
 そういう性指向ですから、主さんに魅力がないとか、嫌いだとかじゃないと思います。
「できない私がいらないなら~」は、彼女さんにとって主さんへの精一杯の愛情表現ではないでしょうか?』
 ア……セク、シュアル
『彼女は主が好きだとは言ってるのか?
 それもないならアセクだろうが、恋愛感情はあるって場合もある。』
 何だと。
『主様が浮気したことを気にするあたりからして、恋愛感情はある感じですよね。
 彼女様は、アセクというより──』
 そこまで読んで、ちょっと待った、とあたしはシーツを起き上がった。アセク。とりあえず、アセクって何だ。それが分からないと、話も読めそうにない。明かりをつけるのも忘れて、スマホに目を凝らし、あたしはその単語を検索した。
 アセク──とは。アセクシュアルのこと。無性愛者、つまり恋愛感情や性的欲求を抱かない人を差す。
 何これ。マジか。そういうのあるのか。無性愛。性的欲求を抱かない。もしやあたしはこれなのか。

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