IN BLOSSOM-12

笑顔が見たい

 そう、違うのだ。鮮血のようにはっきり思った。あたしは、この人たちと違う。この人たちは早瀬さんの世界にいる。あたしは早瀬さんの世界に──
 ……何か。何か、こんなの、二次元と同じじゃん。
 でも、しづ様なら平気なのに、早瀬さんだとどくどくと傷の疼きが腫れあがる。そんな、……ありえない話じゃないのに、どうせありえないから。その差が、早瀬さんは、実は二次元より遠いんじゃないかって、泣きそうになる。だって、早瀬さんがあたしを気にかける、なんて──
「じゃ、じゃあ、頑張ってって伝えといてくださいっ」
 精一杯笑うと、耐えきれずにその場を離れた。席にも戻らず、教室を出ていった。「おいっ」とたぶん未佑希の声がしたけど、振り返れなかった。
 顔を上げられなかった。今にも泣きそうなのが分かる。涙の感覚はないけれど、きっと情けない顔をしている。すれちがう誰にもぶつからないよう、特別教室が並ぶ廊下の突きあたりまで来て、やっと立ち止まって、こつ、とひんやりした窓に額を当てた。
 あの人たちは、気づいたかもしれない。そんな暗雲が、さっきの心臓の傷口からあふれる。あたしが早瀬さんのこと好きとか。女の子同士なのにとか。気持ち悪いとか。近づくなとか。今頃、目配せしあっているのだろうか。そして、早瀬さんに伝えるのだろうか。話を聞いた早瀬さんも、あたしに嫌悪感を──
 何でだろう。こんなときに、あの最低な男の嘲笑までよみがえってくる。
 どうしてあたし、こんな、幸せになれない恋ばかり……
「季羽っ」
 いくつかの駆け足が近づいてくる。絵鞠と、未佑希と、海なのは分かった。でもあたしはうなだれて、睫毛も伏せて、うまく息もできない。
「何か言われたのか」
 首を横に振る。
「あの子たちもびっくりしてたわよ」
 うなずく。
「何かはあったでしょ?」
 あたしは黙って、まぶたの裏を虚ろに見ていた。窓の向こうで、さらさらと揺れる木陰が映っていた。笑い声が、あたしを嗤っているように聞こえる。心の血が、どくり、どくり、と脈打って鼓膜を圧する。それは頭痛に似た反響で、振りはらいたくても脳にこびりついて息を鬱血する。汗だけが、無性にくっきりとアンダーバストからウエストに伝う。
 始業のチャイムが鳴った。けれど、すうっと静かになっていく廊下の中に、三人が去っていく足音はしない。あたしは、小さな、弱い息を吐いた。
「彼氏が、いたとき」
 ぽつりと、静かに、そんなことをこぼした。
「あたし、その人とどうしてもしたくなくて」
 声が紅いぐらい痛々しく細い。
「彼氏は、好きだったらやりたいことだろって。でも、あたしはしたくなかった。好きだったけど、それは嫌だった」
 肩が震えて、呼吸も少し引き攣る。
「最後は、『お前は病気だ』って言われて。振られた」
 沈黙が耳鳴りのようで、聞こえてくる授業の物音が遠い。
「それは……」
 ゆっくりとした口調の声は、海の声だ。
「相手が男だったから?」
 あたしは唇を噛んで、恐怖も芽生えたけれど、静かに首を振った。沈黙に無言の何かが流れた。それが何なのか感知する前に、とん、と背中に軽く体重がかかる。薄く開けたまぶたの隙間に、綺麗なカールにブローされた毛先が見えた。
「じゃあ、最低な男だなあ」
 のんきな絵鞠の口調と体温が背中に伝わって、あたしはまた目をつぶった。
「やりたいだけの男に、お前の愛情はもったいないんじゃね?」
 どんどん、表情が涙に崩れそうで必死に耐える。
「そうね。季羽の愛情が深いのは、しづ様でよく知ってるし」
「うむ。あ、そういや、早瀬さんって、ちょっとしづ様系かもねー」
「さらっと言うなよ……」
「ん、早瀬さんじゃないの?」
 ひょいと背中を離れた絵鞠に、あたしは重苦しいため息をつく。
「ばれたかなあ」
「私たちには、明白だったわね」
「早瀬さんにも、知られるのかなあ」
「いなかったのにどうやってばれるんだよ」
「あの人たちが……何つーか、いや、悪く言うつもりはなくて」
「どうなんだろ」
「本人にはっきり言わないと、意外と『好き』って伝わらないものよ」
「やっぱ、早瀬さんとつきあいたいのか?」
「とりあえず、メル友でいい……」
「それって、文通から始める的な」
「古風ね」
「分かんない。したくないし。でも、友達もたぶんつらくて。ただ、あたしは……」
 あたしは……どうしたいのだろう。分からない。それは分からないけど、ただ──
 嫌だな。バカみたいだ。同じだ。あのときと同じだ。あの瞳に映って、捕らわれてしまいたい。笑顔を向けてもらって、それを見ていたい。気づいてもらえない他人ではいたくない。
 同じ。でも、だから分かる。この気持ちが、恋であるということは。
 あたしはやっと目を開けて、窓に映る親友共を見つめた。絵鞠。未佑希。海。やっぱり、この中に早瀬さんがいたら、とは思わない。
「あたしみたいの、ノンセクっていうんだって」
「ノンセク」
「そういうのはしたくないけど、恋はするの」
「確かに、“憧れ”ではなさそうね」
「女の子かあ。早瀬さんって彼氏いるのかな?」
「分かんない……」
「でもさ、応えてもらわなきゃ『好き』じゃないのか?」
 ふーっ、とまた息をつくと、ガラスが白く曇って、また透明になる。窓の向こうの揺らめく緑を見つめたあと、ぼそっとつぶやいた。
「応えてもらってる奴に言われたくない……」
「あ、通常モード」
「だってさ。あんたさ、失恋って言ったじゃん」
「まあ失恋だろうけど、だったら、今の──」
 あたしはがばっと振り返って、「お」とこちらを見た絵鞠の細い腕をつかんだ。
「絵鞠、こいつをチョップで縦半分に叩き割れ」
「チョーッ──」
「違うって! お前、失恋って決まってたら、自分の気持ちは無駄だって思うのかよ。応えてもらわなきゃ意味ないのかよ。言っただろ、片想いすんのは勝手だって」
「そんないい台詞に聞こえんかったわっ」
「いい台詞だろうがっ」
「解説ないとむごいわっ」
「でも、季羽が早瀬さんって意外ね。見た目はともかく」
「ん、まあ、切っかけは見た目だけどな」
「話したことあるの?」
「ない」
 堂々と即答すると、三人とも息をついた。あたしはちょっといじけて、「話してみたいって思うよ」と廊下を蹴る。
「でも軆は欲しくない。どう説明したらいいのかな。それが分かんなくて、彼氏のときは、軆さえつながってればいいのかなってやらせてた。あいつの機嫌を取るために、かえってぐちゃぐちゃになって、自分の心も信じてあげられなかった。でもね、早瀬さんはあたしにすごく優しいの。何かしてくれるわけじゃなくても。早瀬さんが好きって思うと、すごく、心強い」
 いつになくまじめなあたしに、三人は顔を見交わす。あたしは額をあてていた窓に背中をもたせかけてつぶやく。
「別に、キリスト信者みたいにプラトニック最上とは思わないよ。やっていいと思うしさ。それが普通なんだろうし。ぶっちゃけ、早瀬さんに彼氏いたっていい。彼氏と幸せなら、あたしはそれをただ見守りたい。未佑希の言う通り、応えてもらえないならこの気持ちが無駄だとは思わない。綺麗ごとじゃなくて、それがあたしの幸せなの。軆の関係はあたしにとって幸せじゃない。軆が“普通”だからって、当てはめてほしくない。あたしは特別ってわけじゃなくて、欠陥品でもなくて、普通っちゃ普通なんだけど。ただ、あたしは……」
 そのときだ。「お前らっ」という声が割って入って、あたしたちはぱっと階段のほうを見た。受け持ちではないけれど、驚きから険しくなる顔をしているのは、中年の男教師だ。
「やべ」
「袋小路ね」
「今から教室は無理だよー」
「とりあえず撒くぞ」
 未佑希が言ったのと同時に、あたしたちはその教師を突っ切るために駆け出す。つかまえようとした手をすりぬけ、階段を駆けおりて、「こら!」とかいう声に笑い出しながら、あたしはさっきの言葉の続きを思う。
 そう、あたしは特別ではなくて。欠陥品でもなくて。普通といえば普通で。ただ、あたしは──
 早瀬さんが幸せそうに微笑んでいるなら、それで幸せになれるんだ。

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