そのとき、小さくくしゃみが出てしまって、「入るか?」と鷺乃は一歩引いた。私はこくんとして、鷺乃の家に入る。鷺乃はぼろぼろのスニーカーを脱いでドアマットに上がり、私は傘を置いて隣にローファーを脱ぐ。
「何か飲み物淹れるから、部屋行っとけ」と言われ、部屋入っていいんだ、とわずかに嬉しくなって、私は先に二階に上がって鷺乃の部屋にお邪魔した。
鷺乃の部屋はつくえがないけど、小さめのテレビとノートPCが載った座卓があって、そこに教科書も漫画も混ざって散らかっている。低いパイプベッド、クローゼット、ラックには本とCDが混ざっている。家の中では煙草を吸わないから、懐かしい鷺乃自身の匂いがした。
遅れてやってきた鷺乃は、牛乳で熱をやわらげたココアを持ってきてくれた。私は床に腰を下ろしてそれを飲んで、ほどよい温かさに胃が柔らかくなるのを感じる。「おいしい」と言うと、「そうか」と鷺乃はベッドサイドに腰かけた。
「緋咲は?」
「分かんない。まだ帰ってないんじゃないかな」
「一緒に帰らないのか」
「学校も駅も違うしね」
「朝は一緒だよな」
「え、知ってるの」
「見たことあるし」
「ラッシュがすごいから、かばってもらってるの」
「緋咲は、体格しっかりあるもんな」
「背は鷺乃のほうが高いよ」
「筋肉ついてるほうがいいよ」
私はちょっと咲って、ココアを飲む。鷺乃は顔を伏せ、「振られた嫌味のつもりじゃないんだけど」と切り出す。
「今日、中学時代に何度か告ってきた子と一緒にいた」
どきっとして鷺乃を見る。いや、それを訊きにきたのだけど。鷺乃から話してくれるとは思わなかった。
「今朝、偶然そいつが登校してるとこに逢って。『まだ好きだよ』って言われて、じゃあ、今日一日デートしようとか言って。何かさ、何度も振ったのに、それでも俺が好きだって言えるのすごいなとか思って」
「……うん」
「というか、分かる、のかな。俺も、そんな、振られたからって終わらないしさ。簡単に」
私は鷺乃を見たけど、鷺乃はフローリングを見つめている。
「一日一緒にいたから、由麻に失恋したこととかも話してさ。でも、そんなあっさり忘れられないこととかも話して。『じゃあ待ってる』って言われたけど、そしたらどんだけ待たせることになんのかなって、情けなくて。『やめとけ』って言ったけど」
「つきあわない、の?」
「今の状態でつきあうのは失礼だろ」
「……そっか」
嫌、だな。やっぱり、私は嫌な女だ。
ほっとしている。どこかで、よかったと思っている。鷺乃がまだ私を忘れていないことに安堵している。
私は膝にカップを下ろしてうつむき、何と言えばいいのかに迷う。つきあわないでね、なんて言えないし。つきあっちゃいなよ、とも言えないし──
「あいつとつきあったら……」
私ははっと鷺乃を見る。艶やかな茶髪がかすかに震えている。
「由麻のこと、忘れられるのかな」
「………、つきあって、みても……いいと思うけど」
「つきあっても、由麻と較べるばっかなのに」
「私、そんなに魅力ないよ」
「まあ、すごいわがままだな」
「……うん」
「それをかわいいと思うんだよ、俺は。たぶん緋咲もな」
鷺乃が顔を上げ、私の瞳に向かって微笑んだ。その穏やかさに、とくん、と胸が跳ねて、頬がほのかに熱っぽくなる。
私は慌ててカップを持ちあげ、ココアを飲むふりで顔を隠した。チョコレート色の水面を見つめた隙に、鷺乃はベッドサイドを立ち上がって、私の正面にひざまずいた。
「由麻を忘れたら、楽なんだよな」
「え……」
「そしたら、すごく楽だって分かってる」
私は、鷺乃の瞳にゆらゆら揺れる自分を見つめる。
「一度……だけ、」
かすれた声で言って、鷺乃は私を覗きこんでキスをした。
思わずカップを取り落としそうになって、慌てて把手をぎゅっとつかむ。その手に鷺乃の手が重なる。大きな手だった。
鷺乃のキスは深くなく、唇を触れ合わせるだけだった。一瞬、このまま押し倒されるのかとも思ったけど、そんなことはされなかった。
鷺乃は顔を離すとうなだれて、不意に抑えた嗚咽をもらした。「鷺乃」と私はカップを置いて、鷺乃の顔を覗きこむ。すると、鷺乃は私を抱き寄せてくる。私のうなじに、鷺乃の涙がぽたりと伝っていく。
「鷺乃は、そんなに、私が好きなの?」
「……好きだよ。つらいぐらい。緋咲に取られて悔しい」
「………、緋咲と……喧嘩って、した?」
「え」
「鷺乃は、緋咲に自分の気持ちを何も言ってないんじゃないの?」
「ずっと相談してきた。由麻が好きだって」
「そうかもしれないけど、緋咲も私が好きだって知った途端、全部閉ざしてるんじゃない?」
「……それは、」
「一度、正直に話してみたら? そしたら、緋咲に取られて納得するかもしれないし、負けたくないってもっと強くなれるかも」
鷺乃はゆっくり私と軆を離して、濡れた睫毛をこすった。私はそれを見つめて、「怖いの?」と問う。鷺乃は私を上目でちらりとしてから、「勝てない」とつぶやいた。
私は唇を噛んで考えたけど、結局、息をついて立ち上がった。
「私、やっぱり、緋咲とつきあうことにしてよかった」
「由麻……」
「鷺乃なら私のこと忘れられるよ」
そう言って、身を返してドアへと踏み出した。鷺乃は黙りこんで追いかけてこない。
そうだ。その程度なのだ。鷺乃は自分が傷つかないほうを大事にしている。鷺乃だけ傷つくなんて嫌だとは思っていたけれど、そんな心配、いらなかった。鷺乃はじゅうぶん保身を取っている。
私は「ココアありがとう」と言い残すと、鷺乃の部屋を出て、傘で雨を縫って急いで家に帰った。
七月の初めには期末考査がある。一週間前から試験期間になり、夜になると、私と緋咲は私の部屋で勉強をした。その日は久々に雨が小休止して、夜が更けても雨音はなく、シャーペンがノートや対策プリントを走る音も聴こえていた。
湿気で暑いからクーラーがかかっていて、吹いてくる冷たい風が肌を撫でる。
静かだった。階段をのぼってくる足音が聴こえたときも、未麻かなとぐらいに思って教科書を次のページにめくった。すると、唐突に私の部屋のドアが開き、私も緋咲もびくっと暗い階段に立つ人を見た。
仏頂面で、リュックを連れて──そこにいたのは、鷺乃だった。
私は散らかるミニテーブルに視線を下げ、緋咲のほうが「どうかしたのか」と訊く。視界の端で、鷺乃は気まずそうにいったんうつむいたものの、またこちらを見る。
「邪魔じゃなかったら、勉強教えてほしいんだけど。その……試験だし。また学校から電話来るし」
「今からで間に合うのか?」
「緋咲の高校のレベルを詰めこむわけじゃないからな」
「そうか。──いいよな、由麻」
私は緋咲を見て、こくんとした。鷺乃は部屋に踏みこんで、ドアを閉め、向かい合っていた私と緋咲の横に腰を下ろした。
緋咲は頬杖をつき、「どんな感じだよ」と鷺乃がリュックから取り出したプリントを手にする。
「勝手に学校から送られてきたプリントで、ほとんど分かんねえんだけど」
「ふうん」と緋咲はプリントに目を通し、それから、「まだ一部が中学のおさらいじゃないか」と軽く噴き出した。「勉強できなくて悪かったな」と鷺乃は憎まれ口をたたき、ペンケースやノートも取り出す。
私は何となくふたりを見れない。刺さるような鼓動に、息遣いまで気にしてしまう。
鷺乃も私に話しかけることはなく、けれど緋咲には普通に質問をしながら勉強を始める。緋咲もシャーペンを持ち直し、鷺乃にひとつひとつ問題を解説しつつ、自分の試験勉強を続けた。
小さく息をついて、私も教科書を覗きこんだ。
でも、向かいの緋咲より横の鷺乃が近くて、その茶色の髪とか半袖の肌を意識してしまう。緋咲とふたりのほうが集中できたな、と一瞬思っていると、ふと頭に手を置かれてはっとした。
緋咲が眼鏡の奥から私を覗きこんでいる。
「大丈夫か? クーラー寒かったら、温度上げていいぞ」
「あ、ううん。平気」
「どこか分からない?」
「今、教科書から答え探してる」
「ふたりきりがよかった?」
急に訊かれて、頬に火が刺した。やっと、鷺乃が私を一瞥した。緋咲はくすくすと笑いを噛んで、鷺乃に目をやった。
「鷺乃って、どうなんだ?」
「どうって」
「まだ、由麻のこと好きなのか?」
何訊いてるのと言おうとしたら、その前に鷺乃が緋咲の笑みを真剣に見返して言った。
「好きだよ」
どきんとして、私は鷺乃を見る。
好き。……好き、なんだ。あの日、けっこう、ひどいことを言ったはずなのだけど。
「じゃあ、由麻は?」
「えっ?」
「由麻は結局、どっちなんだ? 俺? 鷺乃?」
「わ、私、は──」
緋咲だよ。そう言いたいのに、なぜか声が出ない。
鷺乃の視線が痛い。緋咲の笑みが読めない。
すっかり萎縮して顔を伏せてしまったけど、ふたりとも、私を待って何も言わない。
「ふたり……が、仲悪くなるのは……嫌。それは絶対」
「うん」
「だから、そうならないにはどうしたらいいのかを、考えてるけど。まだ分からない」
「そっか」と緋咲は床に置いていたグラスの麦茶を淡々と飲む。すると、「由麻」と鷺乃が張りつめた声で私を呼んだ。私は鷺乃と視線を合わせる。
「俺は、緋咲のこともちゃんと好きだよ。由麻がどっちを選んでも、緋咲だって大事な奴だ。それは変わらない」
そう言う鷺乃の穏やかな瞳と言葉に、私は、やっと救われたような気がした。
そうだ。それを言ってほしかったのだ。私に構わず、鷺乃と緋咲は、つながっていると──
私の瞳が潤むと、鷺乃は優しく私の頭を撫でてくれて、それを見て緋咲は仕方なさそうに笑う。
「じゃあ、俺ってすげえ性格悪いじゃん。鷺乃を嫌いにはならないよ、もちろん。でも、取られたくないって思うし、取られたら咲えるか分からない」
鷺乃は緋咲を見る。緋咲は、とても物柔らかな瞳でそれを見つめ返す。
「俺より、鷺乃のほうが由麻のこと好きだって知ってるから。ずっと相談されてたんだ、思い知ってるよ」
「緋咲──」
「あーあっ、もういいや。鷺乃見るときの由麻で、由麻の気持ちも分かってたし。ただ、俺だってマジで由麻が好きだったんだからな。取り持つために好きだって言ったわけじゃない」
「取り持つって、」
「だから、お前ら、つきあえ。俺は自信がないから、待てなかったんだ。待てなくて、由麻に馴れ馴れしくしてた。けど、全部やめるから」
私はとまどって、緋咲と鷺乃を交互に見る。鷺乃は驚いたまま、ぽかんと緋咲を見ている。
そんな私たちの額を順番に小突いて、緋咲は「鷺乃のレベルなら、由麻でも教えられるだろ」とてきぱきと荷物をまとめた。そして、「明日からは朝も別々な」と私に言い置いて、部屋を出ていってしまった。
私はそれにまばたきをして、視線を少し迷わせてから、鷺乃を見た。鷺乃も私の視線に気づいて、こちらを向く。その瞳の中にいると、心地よさがどうしようもなく温かくて、私は緩く咲ってしまった。
「……あのね、鷺乃」
鷺乃の瞳が、ちょっと硬く怯える。それをやわらげるように、私は微笑む。
「まだ……実感とかないけど。私、鷺乃を好きになってもいい?」
鷺乃は動揺のまましばたいて、何秒か答えなかったものの、急いでうなずいた。それから、そっと私の肩に手を置いて自分のほうに引き寄せると、ほのかなキスをしてぎゅっと抱きしめてくれる。
「緋咲とも、これからも仲良くできるよね」
「うん」
「三人がね、いいの。でも、たまにふたりで」
「俺もそれがいい」
「ん。ありがと」
私は鷺乃にしがみついて、その体温に心を溶かし、「鷺乃が好き」と自然とつぶやいていた。鷺乃は今までで一番不器用な指先で、私の髪を撫でる。
好き。鷺乃が好きなんだ、私。緋咲のことももちろん大好きだけど、鷺乃への「好き」はもう違う。その気持ちは、私の中で新しく芽ぐんだ幸せに近い。
近づいたり遠ざかったり、私と鷺乃と緋咲は不安になるほど揺れ動いた。でも、やっと三人の心が決まった。幸せを植える場所を決めることができた。
大事にしよう。鷺乃のことも。緋咲のことも。花開いたら摘み取り、この人に贈るこの気持ちも。
鷺乃が好き。私は、鷺乃が好き。
私はずっと、この気持ちを見つけなくてはならなかったんだ。
鷺乃と結ばれ、私はようやく、かたむいて寄り添う肩がどちらかを知る。髪を撫でてくれる安らぎを紡ぐのが、鷺乃の指であることに、とてもとても、ほっとする。
私から鷺乃に、軽くだけどキスしてみた。鷺乃の白い頬が柔らかに染まる。
かわいい。
私は彼の頬に触れながらそう思い、愛おしさで溶ける心に、ゆらいでひらいて、心に恋が咲くのを感じた。
FIN