茜さす月-3

美しい人【3】

 太陽が昇って、夜に冷めた空気をほんのり暖めてはじめている。
 駅から自宅のマンションまでは、徒歩十分でわりと近い。たまにすれちがう人は、きっちりした身なりで出勤していく人ばかりだ。一時間後は、俺もあんなふうに登校していなくてはならないのがかったるい。
「ただいま」
 取り出した鍵をまわしてドアを開けると、そう言って玄関に踏みこんだ。家の中は静かで、カーテンも引かれて薄暗く、でも、萌香の靴はあった。まあ、あの仕事は午前四時のご帰宅だから、いつも通り寝ているのだろう。
 何か飲もうとダイニングキッチンに行くと、テーブルに昨日の俺の夕食らしい鮭のムニエルがあって、『ちゃんと食べていきなさい。』と萌香のしなやかな字でメモが添えられていた。
 飯も炊飯器で保温されて、サラダやスープもある。俺は息をつくと、椅子を引いて座り、それを食べた。萌香の料理は好きだ。俺にしか食べさせないから、俺の好きな味つけで作ってくれる。その味で胃がいっぱいになると、ペットボトルの烏龍茶を飲んで、皿はシンクに移しておいた。
 自分の家のシャンプーやボディソープで軆を洗う。その匂いは萌香と同じ匂いで、抱いているわけでもないのにこの匂いが鼻腔をくすぐるのが、無性に切ない。
 ホテルで剃り残したひげを落としたり、歯を磨いたり用を足したりして、部屋で時間割りを整えて制服も着ると、七時半過ぎに家を出た。
 朝陽がまばゆい角度で目に入りこんでくる。四月下旬、陽気はどちらかといえば暑い。今年もまた、気候のちょうどいい春がいつだったのか分からなかった。
 さっきより人通りが増えて、乗りこんだ電車はさらに混み合っていた。窓の向こうよりスマホを見ようとしたけど、充電を忘れたおかげで電池残量が二十四パーセントだったので、舌打ちをこらえて節電モードにしてからポケットにしまう。
 電車を乗り換えて高校の最寄りにたどりつき、十五分くらい歩いたら俺の通う高校の制服が目立ってくる。挨拶の声が飛び交い、その中をあくびを噛みながら進んでいく。校門のそばの桜の木は、もう鮮やかな葉桜になって木陰を揺らしていた。
 上履きに履き替えて三階の教室に到着すると、「有栖っ」と挨拶より早く名前を呼ばれた。顔を上げると、今日も前髪を大きめのヘアピンで留めて、肩でストレートの髪を揃えた小波だった。
「はよー」と俺はその頭に手を置いてすれちがい、朝の教室のざわめきを縫って、自分の席に荷物を下ろした。
「有栖、昨日のあたしのメール見た?」
「来てたのは知ってる」
「またそんなんだし」
「何か大事なこと書いてた?」
「そういうわけじゃないけど」
 俺は席に腰を下ろし、ため息をついた。小波のくりくりした瞳を見上げる。あんまり、機嫌がよろしくなさそうだ。
「何かあったのか」
「朝、涼からメール来てた」
「あー……」
 つかみどころのない声をもらすと、「涼はもうしょうがないけど」と小波は俺のつくえに手をついて、身を乗り出す。
「有栖まで、あんな女ったらしにならないでよね」
「涼はたらすというより、小遣いもらってる──」
「もっと悪いじゃない。まさか、有栖ももらったの?」
「もらってねえよ。いや、ホテル代は出してもらった。まあ、向こう社会人だったしな」
「そういうことをふらふらやるのはやめなさい」
 俺は小波を見つめた。また息をつき、こいつに言われてもなあ、と口にはしなくても思う。
 俺のため息に「何?」と小波が眉を寄せたとき、「はよー」と聞き憶えのある挨拶が入口から聞こえてきた。小波と一緒に目を向けると、教室に入ってきたのはやっぱり涼で、彼も俺たちに目をとめる。
「朝からいちゃついてるなー」
 にやにやしながら近づいてきた涼に、俺は仏頂面で返す。
「涼、小波に何かメールしただろ」
「ん? 急がないと、有栖持っていかれるよーとは言った」
「持っていかれるって、あの女、ぜんぜん俺の好みじゃなかったんだけど」
「何だ、やらなかったの?」
「やったけど」
「あー、もう。何こいつら、最低なんじゃないの」
「小波も適当に男とやったりしないのか」
「するか」
「すればいいのに」
 小波はふくれっ面になって、「それ、有栖には言われたくないよなーっ」と涼はげらげらしながら小波の肩をたたいた。
「うっさい、涼」
「何で俺には言われたくないんだよ」
「………、とにかく、病気とかもあるんだから、いい加減にそういうのやるのはやめときなよねっ」
 小波が言ったとき、予鈴が鳴った。小波は身を返して、自分の席に向かってしまい、「いいのになあ」と涼は俺の頭をくしゃくしゃとする。
「何が」
「有栖と小波」
「……そんなんじゃねえし」
「そうかー? 脈無しの相手よりいいと思うけどね」
 髪を直しながら涼をちらりとすると、涼はにやっとして、俺の席のかたわらを離れていった。
 脈無しの相手より。そんなことは、分かっている。
 脈無しどころか、恋焦がれてはいけない相手だ。義理なんかじゃない。実の姉だ。生まれたときから俺のそばにいた。共用のシャンプーの匂いのように、当たり前に同じ血が流れている。
 それでも俺は、萌香のことしか考えられない。萌香以外の女に、恋をする自分がイメージできない。
『有栖』
 まだ幼かった俺の頭を抱いて、あのとき、萌香のしっとりした声は泣きそうに震えていた。
『私、有栖がいればいいの』
 俺はまだ揺蕩っている脳のまま、萌香のふくらみかけた胸に顔を埋めた。
『有栖がいれば、何を失くしても構わない』
 もう萌香は、そんな台詞は言わなくなった。あのことがなくなって、言わなくなった。
 萌香は後悔しているだろうか。あるいは時効だと思っているのだろうか。俺はまだあの言葉を信じているし、約束は永遠だと思っている。
 俺だって萌香がいればそれでいい。萌香以外のすべては、むしろ滅亡すればいいと思っている。俺も萌香にそれを言ったりしないけど、本当はそれをわめいてぶつけて、あの頃のように、また俺だけを見てほしい。
 萌香に触れたい。萌香を抱きたい。紫色になるまで口づけて、血がにじむほど噛みついて、一番奥に射精したい。萌香が欲しくて、愛おしくて、歯がゆくて、どうしても満たされない。
 スマホも充電切れで、その日は寄り道せずにまっすぐ帰宅した。十七時半過ぎに家に着いて、ドアを開けるといい匂いがした。
 スニーカーを脱いで廊下を抜け、ダイニングキッチンを覗くと、萌香がオフホワイトのトップスとインディゴのカプリパンツで料理をしていた。この匂いは、豚肉のしょうが焼きだと思う。
 俺は壁にもたれて、萌香の危うい腰や素足の黒いペディキュアを見ていた。「『ただいま』くらい言ってよ」と、不意に萌香は冷蔵庫を開けるついでにこちらに来る。
「……ただいま」
 ぼそっと言うと、萌香は野菜室の引き出しを開けながら、こちらを見た。
 家にいるときは、萌香は邪魔っ気に黒髪を後ろでまとめ、アップにしている。漆黒の瞳、鮮紅の唇、白皙の肌、萌香は化粧なんかしないほうが艶やかな彩りがある。
「おかえり。朝、食べてくれててほっとした」
「うまかったよ」
「よかった。夜遊びもいいけど、ほどほどにね」
 半玉のキャベツを抱えて奥の台に行ってしまった萌香に、少し唇を噛む。あの細い腕をつかんで引っ張って、柔らかそうな顎をつかんで、瞳に瞳を突き刺したくなる。
 何で、そんなこと言うんだよ。夜遊びなんかするなって言えよ。ほかの女なんか見るなって言えよ。そういうことはやめろって、……俺は、萌香に言われたいのに。
 荷物を床に下ろして、萌香の隣に近づいた。トップスは胸元が開いていて、鎖骨の窪みや乳房への曲線が見下ろせる。
 リズミカルにキャベツを千切りにしていた萌香は、俺を見上げて、「何?」と首をかたむけた。長い睫毛が一度まばたく。
「ねえさんは──」
 萌香は、俺を見つめている。何となく、俺は顔を伏せる。考えたけど、何を言いたいのか分からなかった。いや、何なら言っていいのか分からなかった。
 この愛情も、渇望も、心酔も伝えられない。俺は萌香に禁じられてばかりだ。
 泣きたい。
 すると、萌香の手が俺の手にひやりと重なった。
「何かあったの?」
 俺はもう一度、萌香を見た。萌香の手は家事を担っているにしてはなめらかで、今は野菜の水気で湿ってもいる。
「有栖」
 ぎゅっと胸の奥が絞られ、自分の名前が瑞々しく響くことに息苦しく喉が痺れる。ぴくんと指が動いて、ちょっとだけ指先が絡まる。
「ねえさん、は──朝帰りとか、すんなよ」
「毎日してるけど」
「仕事じゃなくて。仕事ではなくて、……ほんと、気をつけろよっ」
 俺は、泣く前に萌香の手をはらって、大股で廊下に出た。
 ああ、くそ。何も言えやしない。萌香の視線は無視して、荷物を乱暴につかむと、自分の部屋に向かってドアをばたんと閉めた。ベッドに荷物を放り、制服のまま床に座りこむと、ベッドにぐったり背中をもたせかけてしまう。
 苦しい。萌香。どうしてそんなに平然としてるんだ。
 俺とあんなことしておきながら、何でそんなに普通なんだよ。絶対、忘れていないくせに。忘れられるわけがない。俺はこんなにも憶えているのだ。
 萌香があんな男に犯されていたこと。それを見つめていた俺を、萌香が抱きしめ、そっとふたりだけで行なったこと。
 忘れてないだろ。結ばれてはいけない俺たちが、昔、縛られるようにきつく結ばれていたこと。

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