彼らが帰ってきたとき
そうして首を捻っていると、突然、「『お帰り』はどうした!」という声が玄関で響いた。葉月さんの声だった。僕と顔を合わせた要さんが、「『ただいま』はどうした!」と返す。足音が近づいてきて、「ただいま」と葉月さんが現れた。
ついで僕を見て声を上げた葉月さんは、「葉月くんだ」と言った悠紗にさらに声を上げる。
「あー、何、いつ来たの」
「今さっきだよ」
悠紗は、手ほどきをする紫苑さんと共にギターに触れて実習をしている。紫苑さんに見守られ、部屋には悠紗がぎこちなく弦を弾く音がしていた。
「ふーん。って、あ、弁当。何。何で。俺のぶんは」
「ないに決まってんだろ」
「決まってねえよ。何で俺がいないときに限ってこんな、豪勢な。うわ、もうほぼ空っぽ。嫌がらせじゃん」
「マリコさんの手料理、食ってきたんだろ」
床に崩れた葉月さんの肩に、要さんは手を置く。
「それはそれ。ひどい。迫害じゃ。いくらかかったんだよ。金ないのに」
「ただ」
「俺をバカにしてるのか」
「してねえよ。聖樹のさしいれ」
「み、聖樹まで俺をハブに。萌梨、なんで止めなかったんだよお」
「えっ、あの、外食してくるのかと」
「正しい」と要さんは四つ入っていたはずの最後の鮭を口に投げこんだ。葉月さんは悲痛な悲鳴で床につぶれた。もしかして食べてこなかったのだろうか。要さんは気にせず笑っていた。
葉月さんは一時ぐずぐずすると、三分後にはそのへんに散らかっていたジャンクフードで立ち直っていた。「今度、鈴城家の夕飯時に乱入してやる」と言う葉月さんに、要さんはあきれた息をつく。
「食ってきたんじゃねえのかよ」
「食ってはきたけど、バスで帰ってきたんでけっこう前だよ」
「タクシー乗れよ」
「んな金あるか。第一、他人とあんな狭い密室空間になど」
「梨羽みたいだな」と要さんは立ち上がってキッチンに行く。
ちなみにその梨羽さんは食事を終え、横たわって頭に毛布を被っている。
帰ってきた要さんは、ビールを持っていて、それは自分のぶんと立て膝をしてホットドックをかじる葉月さんのぶんだった。
「ま、いい夜ではあったんだろ」
「いい夜でした。『やっと帰ってきたのね』って抱きつかれちゃった」
「あの人、お前に気があるんだろ」
「それは知ったこっちゃない。お前は来ないのかって言ってる子もいたよ」
「気が向いたらな」
「よくそんなやらずにいられるよなあ。梨羽も紫苑も。はっ、何か俺だけ淫乱みたいじゃん。違う、俺は普通なだけだ」
「お前、淫乱だよ」
「お、俺だって、やろうと思えば一週間ぐらい禁欲できるぞ」
「一週間ねえ」と要さんは渋く言ってプルリングを抜く。葉月さんはふくれて、「千摺りよりマシ」とホットドッグにかぶりついた。要さんは葉月さんの後頭部にはたきを入れる。
「そういえば、マリコって最終日に来てたんだってさ」
「え、来てたか」
「分からん。最終日の俺は切れた梨羽にはらはらしていた。マリコも梨羽が発狂してないかって言ってたよ。やっぱ客にもそう見えるんだな」
「発狂──してないよな」
「って言っといた。まあ、そこそこすごかったよなー」
「そこそこなー」
そこそこ、なのか。僕は毛布に縮む梨羽さんを見る。梨羽さんの極限がいったいどれほどなのか知らない僕は、そうとう痛手を受けていると見てしまう。
「俺たちが薄情だと思ってるだろ」
後頭部を軽く押されて振り向くと、要さんがにやにやしていた。どきりとした僕は、体勢を直し、梨羽さんの名前を言って口ごもる。
「あのね、ほんっとにあれは平気なんだよ。いや、あいつには平気じゃなくても、もっとすごいのもあるの。まず今、泣いてないだろ。うめいてないだろ。震えてないだろ。床殴ってないだろ。クローゼットに閉じこもってないだろ。などなど」
指折る葉月さんに、鼻白むしかない。
「ライヴも最後まで歌い切ってたしな。最後まで歌えたら、途中で悲鳴になろうが何になろうが、俺たちは褒めてやるんだ。あいつ、ライヴの途中で歌えなくなったことだってあるし」
「えっ」
「一回な。まだ俺たちが二十歳にもなってなくて、やっとライヴハウスに出演するようになった頃。あいつは十六か十七だったかな。泣き出してへたりこんで、歌えなくなったんだ」
要さんは丸くなる梨羽さんを見やる。
「あいつは、全霊かけて歌うんだよな。客は無視しても、自分には手抜きしない。たぶんそのときは、何かで緊張がはちきれたんだ。ライヴ終わって、泣きもせずに目え剥いて死んでるときもあるんだぜ。そういうときは、マジでやばい」
「でね、そういうときはつっつきまわして構うんだよ」
「……つっつきまわすんですか」
「嫌がられるけど。そう、ほんとにやばいときは、俺たちのことすら嫌がるんだよ。うむ」
「たまに思うよ。梨羽は歌うことを知らないほうがよかったのかもって。悪いことしたかなって」
要さんは空になった弁当箱を片づけ、葉月さんはホットドッグを減らしていく。
僕は動かない梨羽さんを一瞥した。
「あいつに歌が向いてるのは確かなんだ。向きすぎてて、逆にやばいっつうか。歌は歌えても、歌手にはなれない。要は客をこめた上での歌の才能はないんだ。商売にできない。客に媚も売れない。ひたすら歌うだけ。梨羽のあの勝手なステージは、梨羽だから成り立つんだぜ。ほかの奴がしたら、ブーイングが請け合い。あれは、歌手失格になるぐらい強烈な歌を歌う奴じゃないとできない」
「俺たちもそう言うけど、梨羽の歌はオナニーなんだよな。まあ、外野からそう言う奴は嫌味なんだろうけど。表現はうまいよね。千摺り中毒」
笑った葉月さんは、ホットドックのなくなった包装のラップをゴミぶくろに突っこむ。その手で煙草を漁りだして火をつけると、「そういやさ」と弁当箱を包みに戻す要さんを向く。
「その泣いたときじゃない? 梨羽が歌手失格って言われたの」
「あー、そうだよな。で、それに合わせて演奏やめた俺たちは、バンド失格」
「だって、梨羽ちゃんが痛ましすぎて、歌わせるの強制できなかったんですものー」
葉月さんはハンカチを持った仕種で目元をぬぐう。
「まあ、梨羽は歌手失格だよな。俺も思う。ライヴも毎度毎度嫌がって、それでもステージに立つのは、単にしなきゃいけないからだし」
「お客さんのためですか」
「いや、自分のため。あいつは歌が必要なんだ。食ったり寝たりと一緒で、やりたくなくてもやらなきゃ死ぬ。生きる手段なんだよ」
「梨羽って、あと一歩で狂いそうなとこあるじゃん。助かってんのは、音楽があるからなんだよ。表現するには、自分保っとかなきゃいけないだろ。それであいつには歌が要る。なかったらあいつ、とっくに自分投げて死んでますよ」
葉月さんはからからとして、煙草をふかした。要さんはビールを喉に流しこんでいる。
梨羽さんを見た。いつのまにか頭だけ出して、ブックレットを広げている。耳にはヘッドホンがかかっている。
音楽が嫌いなのに、それがなくてはならない。歌うと張りつめる神経は、歌わなければ飢餓のように細って不眠症のように捻じれる。表現のためだけに、狂って投げ打ちたい自分を正気で保っている。
梨羽さんの音楽への執着は、むずかしく屈折している。正気を守るために歌っているのか。そういう体質自体、狂っているのか。正気と狂気の境界線を綱渡りしているような不均衡こそが、梨羽さんの悲鳴の最大の危うさだとは思う。
ときおり紫苑さんにしめされながら、悠紗はギターを弾いていた。「悠のバンドっておもしろそうだな」と要さんが言い、悠紗は顔を上げる。
「バンド」
「ソロでやるか」
「んー、分かんない。どっちでもいいよ」
「バンドだったら、悠が気に入った奴じゃないとな。萌梨やらないか?」
「えっ。い、いえ、いいです」
「はは。冗談だって」
「いつかセッションしましょうね」
「ほんとお」
「ほんとー」
「紫苑と悠のダブルギターか。すごいかも。ま、悠だったら混じっても梨羽も歌えるよな」
悠紗は嬉しそうにうなずくと、練習に熱中を戻した。XENONと悠紗。聴いてみたいが、まだ何年かあとの話だ。
僕は聴けるだろうか。分からない。ここにいられているかどうか。いられたらいいな、とは思う。あそこに連れ戻されていなければいい。そして、居候は続けていなくても、鈴城家に自由に出入りできていたら。
悠紗がギターをしているので葉月さんがゲームを始め、要さんは腹這いになってノートを広げた。何かを問うと、今回のライヴの利益も入れた数週間ここで暮らす生計だそうだ。「仕事しなきゃなあ」と要さんは疎ましそうにひとりごちている。
「スタジオも入れないとなー。とりあえず今週末に、」
「えーっ、聞いてないぞ」
「今憶えろ。木曜と金曜な。で、来月のなかばにはあっちでのライヴ、その前には発つ。あー、俺こんないそがしいのやだっ」
ノートに頭を伏せる要さんに、大変だなあ、としか僕も所感できない。メジャーに乗ってしまえばそういうことは人がやってくれるだろうに、だったらインディーズで逃げまわっているほうがいいみたいだ。
仕事。スタジオ。遠慮せずとも、ここに来れない日は増えていきそうだ。そして、来月には四人は逃避行を再開する。
葉月さんのやるシューティングゲームを見つめ、それでまた四人が帰ってきたときここにいられてるかな、と僕はぽつりと思った。
【第八十三章へ】