風切り羽-83

決壊した傷口

 あの夜から、二週間は経っていた。
 梨羽さんたちが来て気持ちの安定もあったのだろうし、捕らわれるヒマもなかったのだと思う。それでも、結局、いつまでも続いてくれるものではない。
 その夜、僕はさいわいにもきちんと眠れていたけれど、物音がして気づかないほど熟睡に落ちていたわけでもなかった。
 聖樹さんの“普通”に過ごす糸が切れ、その反動が来た。
 僕が起きたのは、わりと大きい音がしたせいだった。寝室のドアが開いて、閉める音もなくおぼつかない足音は洗面所に飛びこんでいく。左頬に橙々の螢光燈が当たって、光は天井にやけに大きく伸びて、蛇口を捻る音に水飛沫が飛び散った。
 僕は目をこすって、洗面所に顔を向けた。
 引き戸は半分開きっぱなしで、そこからはっきり嘔吐するうめきが聞こえた。
 まばたきをした。眠気は一気に蒸発した。代わりに、胸騒ぎが喉を苦しくさせた。聖樹さんに何が起こったかは、寝ぼけていようが瞬時に分かった。
 覚醒した僕は、何秒か躊躇ったものの、ふとんを這い出た。悠紗の頼みを忘れたわけではない。
 聖樹さんのそばにいてほしい。ひとりじゃないと教えてあげてほしい。
 あの日に告白しあってそれを果たしたなんて、思っていない。あれは、万が一のとき、そばにいる資格をもらっただけのことだ。そばにいなくてはならないのは、これからだ。
 そう思って、ふらつきそうになった膝をしっかりさせ、立ち上がった。
 途中、寝室の前を通った。ドアは開いていて、螢光燈がさしこみ、中が窺えた。悠紗が目を開けているのが、光を反射する瞳で分かった。
 僕に気づくと、悠紗は少し上体を起こす。僕はうなずいて、悠紗の心配を制した。それでも悠紗は不安そうにしたけれど、おとなしくベッドにもぐりなおした。
 寝室のドアを静かに閉めた。
 戻す声には嗚咽が重なりはじめていた。一度深呼吸して、引き戸に手をかけて中を覗いた。聖樹さんは膝をついて洗面台を力なく抱え、水に髪をさらしながら吐いていた。
 一瞬、そっとしておいたほうがいいかも、と思った。が、そっとしておくとかおかないとかいう問題ではない。あの息苦しい空気が発散され、充満しようとしていた。
 僕の記憶の放電を誘う、暗い鬱。ひとりだ。孤独だ。すくいあげなくてはならない。ここで後退るのは、そっとしておくとは呼ばない。放り出したと呼ぶのだ。
 聖樹さんの嘔吐と嗚咽は、どんどん孤独に沈殿していく。
 声をかけようか。黙って背中をさすろうか。迷ってしばし突っ立ち、触れられることに嫌悪があるかもしれないと考え、僕はこわごわ名前を呼んだ。
「聖樹、さん」
 聖樹さんはびくりと肩をこわばらせた。後悔がちらついた。放っておいたほうが賢明だったか。
 聖樹さんはこちらを向いた。あの目だった。呼吸が攣って、僕は引き戸をつかんだ。取りこまれないように、ものすごい精神力を張った。
 そうだ。これがあった。忘れていた。だが、何とか防御できた。あのときのように、一緒になってへたりこむわけにはいかない。僕は息を吐いて胸を落ち着け、引き戸を後ろ手に閉めて、ゆっくり聖樹さんに近寄った。
 水音が鼓膜を圧迫する。聖樹さんは、頬をぐちゃぐちゃにする涙を流しながら、僕の行動を見つめる。髪が落とす雫の奥では、幼い、何にも分からない目が怯えていた。
 その瞳がとめどなく落とす大量の水分は、頬や喉元に流れ、服を湿らせたり床に跳ねたりしている。その水は螢光燈を反射し、異様にきらきらしていた。
 僕は聖樹さんのそばにひざまずいた。僕たちは見つめあった。
「聖樹さん……」
 何と言えばいいのか、分からなかった。聖樹さんの涙は止まらなかった。いっとき、僕を映してその瞳は押し黙っていたけれど、急にひずむと、聖樹さんは口元を抑えた。
 頬が真っ蒼になり、聖樹さんは洗面台に顔を埋めた。聞くにしのびないうめきと、嘔吐があふれた。水道に聖樹さんの柔らかい髪が濡れていく。僕はおそるおそる聖樹さんの背中に触れ、硬直しないのを確かめると、さすった。
 かなり長いあいだ、そうしていた。
 梨羽さんたちがいて落ち着いていたというのは、悪いものを削り落としていたのと同義ではない。抑えこむ余裕があったというだけで、蓄積は蓄積だ。
 その上、会うこともないと思っていた元奥さんにも遭遇した。あの人と交わった忌まわしさ、忌まわしくさせた記憶が奔流しているのだろう。
 嘔吐は止まっても、すすり泣きは長引いた。僕は根気を努め、聖樹さんの背中を慰撫した。自分の手に包容力があるとは思えなくても、僕の手が外界とのつなぎとめになって、真っ暗の内界に堕ちるのを止められたらと思った。
 聖樹さんは泣きながら身動きし、水道を止める。
「萌梨、くん」
「は、はい」
「ごめん」
「えっ」
「ごめん、ね。こんな……」
「あ、いえ。いいです。僕が来たんです」
 聖樹さんは、咲えないのか無表情のままだったが、一応かすかにうなずいた。僕のどきっとした心臓も鎮まった。ごめん。一瞬、悪いけど下がってくれないかということかと邪推してしまった。
 聖樹さんは洗面台をつかむ手をだらりとさせ、脱力して、壊れるように床に座りこんだ。僕を見つめたのち、びっしょりした睫毛を床に伏せた。汚れた口元の息遣いは、荒っぽい。
 沈黙になった。ただ、聖樹さんの鎮まっていくすすり泣きが響いた。
 僕は聖樹さんを見つめる。普段の聖樹さんとぜんぜん違う。おっとりした影もない。ひどく幼かった。すがたかたちは成人して独立した大人なのに、それでも子供に見える。
 瞳や、うなだれた肩や、手足の投げだし方が、子供っぽい。現在に構う余裕がなくなっている。過去が脳髄を支配し、無意識に退化している。
 顔色は今際のようで、喉元や肩は小刻みに震えていた。不意に聖樹さんは、糸に吊りあげられたようなぎこちない動作で僕を見た。
 とっさにめまいと吐き気の混濁がして、僕は自分の記憶に襲われそうになった。目を背けたくなり、けれど、必死にこらえた。
 聖樹さんが僕を濁った瞳に取りこむのではない。僕が聖樹さんに澄んだ瞳を分けるのだ。
 この場合、目をそらすのは自衛でなく保身であり、打ち捨てになってしまう。
「へ、変な夢、見ちゃって」
「えっ」
「中学生のとき、体育倉庫、先生……」
 口調が痙攣している。聖樹さんの瞳に、生々しい涙があふれた。僕は聖樹さんの手を丁重に触った。聖樹さんは、僕の手を握りしめる。
「体育の授業、体育館でマット運動で、日直、だったんだよ。僕、男だからマット片づけるの手伝えって、女の子は記録のほうにまわされて、僕、体育倉庫で先生とふたりきりになったんだ。夏でね、体操服、肌とかいっぱい出てたし、蝉が鳴きはじめてた。汗かいてて、暑くて、次の授業の英語の先生厳しいから早く終わらせなきゃって。そしたら、せ、先生が、突然抱きしめてきて、僕の軆を探ってきた。ズボンの中にも手いれて、素手でつかまれた。つかまれて、自分のを僕の軆に押しつけて、跳び箱に手をつけって、つ、つかされて、下着もおろされて……」
 聖樹さんと僕の手に、聖樹さんの涙がしたたった。僕は息をつめていた。聖樹さんは肩を震わせ、見て分かるほど涙の量を増やす。
「何で、どうして僕があんなの。何で。僕、何にもしてないよ。分かんないよ。そのつもりで先生は僕を手伝わせたの? それともふたりきりになったから? 女の子だったらしてなかったくせに。僕が男だからしたんだ。男だから、誰にも言えないから、言ったって誰も信じないからやったんだ。逆らえない僕をバカにしたんだよ。ひどいよ。どうして、何で、僕、……ひどいよ」
 しゃくりあげた聖樹さんは、喉を塞がれた。涙があふれて、息が乱れていた。
 僕はその想いが苦しいぐらいによく分かった。だから聖樹さんの手を包み直した。聖樹さんは僕を見た。見つめ返した。
 しばしそうすると、聖樹さんは鼻をすすった。呼吸を整えると、激した口調をなだめて悪いものを吐き出す。
「ずっと、動かれてるあいだ、笛が背中に当たってた。汗の臭いがした。跳び箱の一段目の白い布が破れて、黄色のスポンジがはみでてて、染みが広がってた。何だろ。汗かな。僕が泣いてたのかな。憶えてない。とにかく染みが広がって、広がって、先生が僕の中をえぐってた。気持ち悪いぐらい熱くて、こすりつけられて、太い息がしてた。精液の臭いがした。染みが頬にあたった。冷たかった。あとは、分かんない。気づいたら保健室に寝てて、貧血ってことになってて、僕はすごくお腹が重たかったよ。それは、あれが夢じゃなかったってことだった。ほんとのことで、夢じゃなくて、夢、夢じゃ……ないって、夢……見て」
 僕は聖樹さんの手を握る。涙ですべりそうだった。
 聖樹さんはまばたきもせずに床を見つめている。ぱっくりとした瞳は茫然としていて、それでも涙は止まっていない。前髪も雫を落としていた。床には、つぶれた水たまりがいくつもできている。
 螢光燈にきらめく水浸しの中、両手で聖樹さんの手を包んだ。その手は血管が痛ましく浮き上がり、真っ白なのに蒼い。
「先生」
「えっ」
「先生が来た」
「聖樹さん、」
「服が変わってて、僕に笑った」
「………」
「『もっと体力つけろよ』って」
「………」
「どういう意味?」
 聖樹さんの瞳や口調は、引き攣った笑みに接続されそうに強直していた。
 錯乱している。
 僕たちは、止まった心と止まらない軆に分裂している。記憶は過去でなく隣合わせに存在し、異常に鮮やかだ。当時に収まらず、現実と並行して安穏をおびやかし、不快を増殖させる。ときには突き破って現実に食いこんでくる。
 今、聖樹さんにはそれが起こっている。やすらかな現在を、壊れた記憶が抑えつけ、荒んだ聖域が猛威を振るっている。
「どういう……意味? 分かってて言ってるの? あのことに? それとも話に合わせた演技? どっちもにかけた皮肉? バカにしたの? だいたい何で平然と来れるの? 笑えるの? 気分はどうだなんて、あの人、全部分かってるくせに。ほんとに分かってないの? 分かんないよ。僕は貧血なんかじゃない。貧血なんかじゃなかったのに。僕は、僕……そんなんじゃなかったのに」
「聖樹さん……」
「そんなんじゃないよ。何で誰も分かってくれないの。助けてほしかったのに。つらかったら早退してもいいなんて、そんなので片づくものじゃなかったんだ。何でみんな、みんな、誰も……」
「聖樹さん」
 聖樹さんは僕を見た。聖樹さんの瞳は、引き裂かれたみたいに涙を流している。つたなくても、僕にはやはりこの言葉しかなかった。
「僕は分かります」
「………」
「僕も、いつもそう思ってました。信じられないぐらい、みんな分かってくれませんでした。助けてくれなかったです。助けることだとも思ってくれませんでした。笑ってました。泣いたら不思議そうにされました。誰も分かってくれないのが、僕も分かりませんでした。だから僕は、あの人たちより、聖樹さんの気持ちのほうが分かります」
「萌梨くん……」
「僕は、分かります。……分かっちゃい、ます」
 聖樹さんは少し視線を下げた。すぐに僕を見つめなおした。僕は聖樹さんから目をそらさなかった。
 長い沈黙のあと、聖樹さんは息をついた。「ありがとう」とかぼそく言った。
「ずっと、誰かにそう言ってほしかったけど」
 聖樹さんは僕の手を丁重に包む。
「どうせ信じられないと思って、言われるのも怖かった」
 こくんとした。不信感による猜疑心は、僕にもある。
「萌梨くんは……そうだよね。ありがとう」
 今度はかぶりを振った。その聖樹さんの言葉には、微妙に謝罪も含まれていた。責めるような口振りを使ったことや、僕にものしかかるものがあることへ。でも、そのことは本当に気にならなかった。
 僕が手を離すと、聖樹さんは不安そうにした。「向こうであったかくなりましょう」と僕は言った。聖樹さんはほっとしてうなずき、いつもと逆の台詞がおかしかったのか、わずかながら咲った。聖樹さんが咲うと、僕も無意識に口元をほころばせられる。
 後始末をしようとした聖樹さんを止めて、それは僕が引き受けた。鬱にやっと光の亀裂を感じたときに、そうして早くもしなくてはならないことを背負うのはよくない。床を拭いたり洗面台を流したり、手早く洗面所を元通り綺麗にした。
 聖樹さんに目を戻すと、その瞳はずいぶん子供の怯えを鎮め、大人の穏やかさを取り戻していた。僕と視線が合うと微笑みもした。僕は咲い返して、「紅茶ぐらい作れますよ」と言う。微笑した聖樹さんは、「もらうよ」とさしだした僕の手を取り、立ち上がった。

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