分かるようになりたい
翌朝、悠紗はちょっと落ち着かないようだった。聖樹さんと僕を交互に盗み見ているあたりから、あのあと、僕を信じて眠ったようだ。
聖樹さんは落ち着いてくれた、と思う。あのあと短いお茶会をして、僕たちは眠った。聖樹さんは再び洗面所に走ることなく、背広すがたになった今も悠紗の様子に咲っている。眼鏡をかけるのは忘れず、「いってきます」と悠紗と僕に残すと出勤もしていった。
テーブルに僕とふたりになると、悠紗は食べかけのししゃもを口から離す。
「萌梨くん、おとうさん……」
「演技、かな」
悠紗は首を振った。悠紗がそう言うのなら、あれは平常になれた演技でもないということだ。
よかった、とごはんをすくっていると、悠紗は睫毛をぱちぱちとさせる。
「萌梨くんが、おとうさんを元気にしちゃったの」
「元気、というか。落ち着いてはくれたみたい」
「そっかあ。よかった」
悠紗はししゃもを飲みこむと、得意気に咲ってくる。
「萌梨くんだったら、おとうさんのそういう人になってくれるって思ったの。当たったね」
「そ、かな」
「うん。おとうさん、そういう人が要るのにいなかったんだ。よく分かんないけど、僕でもダメなんでしょ」
「おっきくなったら、悠紗のが僕よりそういう人になれるよ」
「そお」と悠紗は首をかしげ、「でもね」と僕を仰ぐ。
「どっちでも、今はダメでしょ。おとうさんは、今、そういう人が要るんだと思うの」
そこは否定できず、僕は素直に悠紗の感謝を受け取った。いずれ──聖樹さんが悠紗に心を打ち明けたとき必要なくなるだろうとしても、さしあたり、聖樹さんは僕がいるのを大切にしてくれている。
「僕、初めてだよ」
「え」
「おとうさんがあんなになったあと、僕を通り抜ける目、ぜんぜんしないの」
「そう、なんだ」
「うん。眠ってて分かんなかったときもね、次の朝には分かっちゃってたんだよね。今日のおとうさんだったら、眠ってたら分かんなかったかも」
「そっか」
「んー、それもちょっと寂しいか。あともう少し、分かるようにならなきゃいけないところがあるんだろうなあ」
ししゃもをかじり、この子は分かるだろうなと思った。聖樹さんが一番自分を受け入れてほしいのは、僕ではなく悠紗だ。遅かれ早かれ、悠紗は聖樹さんのかけがえのない理解者になる。
「分かるようになれるかな」と悠紗は僕を見上げてくる。「なれるよ」と僕が言うと、悠紗は嬉笑していそいそと朝食に戻った。
朝食が済むと、僕は食器を洗い、悠紗はゲームを始めた。
泡立ったスポンジで食器をこすり、今日と明日は四人のところには行けないんだよなと思った。木曜日と金曜日には、スタジオがあると言っていた。土日は聖樹さんもここにいるし、行くとしたら月曜日か。
仕事をすると言っていたが、たぶん要さんと葉月さんが働き、梨羽さんと紫苑さんは留守番するのだろう。ならば、訪ねられなくもない。
でも、あのふたりといてもなあ、とかしこまる思いは振り切れない。悠紗は紫苑さんにギターを習えても、僕は所在なさそうだ。
梨羽さんは誰かに構われるのは嫌がる。本音だと、一度梨羽さんと話がしてみたいのだけど、どんな話だと言われたら分からない。梨羽さんも対話なんか嫌いそうだ。梨羽さんが嫌なら強制はできないし、何しろ、僕が行ったところでヒマそうなのだった。
食器洗いを済ましてリビングに戻り、ガラス戸を見やった。雲が落とす影に肌寒そうであれ、晴れている。いつのまにか暖房を入れたりする日も出てきていた。
季節感を感じると、ここに来てけっこう経ったのを実感する。一ヶ月は経過している。まさか、そんなに無事でいられるとは思っていなかった。一ヶ月も、家にも学校にも行っていない。一ヶ月もあんなことをされていない。初めてだ。
悠紗のRPGはかなり進んでいた。悠紗曰く、終盤にさしかかっているという。「何か新しいの欲しいなあ」というのが、近頃の悠紗の口ぐせだ。
午前中は、僕は悠紗の隣でその佳境の物語を追った。昼食でゲームは中断されて、午後には悠紗は勉強を広げる。
「紫苑さん、わりと悠紗にギター教えてるよね」
「うん。学校行く歳になったら、紫苑くん一個ギターくれるって約束してるの」
「そうなの」
「うん。紫苑くん、いっぱいギター持ってるの。大切にしてるのは、いつも一緒の奴だけだけど」
僕はふと疑問になり、「学校行くの?」と訊いてみた。悠紗は眉間に皺を寄せる。
「行きたく、ないけど。おとうさんが『行きなさい』って言いそう」
「聖樹さん、悠紗が嫌なら行かなくてもいいって言ってたよ」
「ほんと? じゃ、行かないかも。ギターもらえないかな」
「別に入学祝いとかではないだろうし。くれると思うよ」
「そっか。へへ。ギター弾けるようになったら、萌梨くん聴いてくれる?」
僕がうなずくと、「約束ね」と悠紗はノートに向き直った。
紫苑さんといえば、“White Carnation”について放りっぱなしだななんて思う。
悠紗が勉強に集中しだしたので、僕は邪魔せずに身を引いて音楽を聴くことにした。
奥につまっている洋楽を聴いてみようかとも思ったけれど、最後にはXENONを手に取っていた。どれがいいかな、と三枚あるのに悩み、“White Carnation”が引っかかって『MADHOUSE』のケースを開く。
ヘッドホンをして仕切りにもたれ、僕は梨羽さんの声をたどった。ライヴのほうが較べものにならないほど強烈だったとはいえ、そのあとに聴けば気が抜けるというやわはCDにもない。
ライヴは瞬発力がものを言っていた。CDは持久力だ。何度聴いても飽きないようになっている。
誰か俺をイカれてると言ってくれ
正常でいるのはたくさんだ
もう何にも感じたくない
軽蔑の目で踏みにじってくれよ
俺をイカれてると言ってくれ
狂人のほうが気が楽なんだ
その九曲目“病的願望”が終わると、“White Carnation”が現れる。梨羽さんの声が乗らないと、不思議な感じだ。ベースとドラムスはきちんと存在している。梨羽さんはいない。紫苑さんの残像するゆがんだ憎しみが深く刻まれている。
母親への憎しみだ。父親ではなく、家族でもなく、母親への憎悪だ。おかあさんと何かあったのかな、と紫苑さんの暗い瞳を思い返す。学校ではギターを抱えていただけだというし、家庭で何かあったとしても、あながちはずれていないだろう。家は“ない”らしいとしても。
聖樹さんも、紫苑さんに子供の頃につらいことがあったとは示唆していた。僕はそんな気力がなくて、おかあさんをまともに憎めもしない。そのぶん、この音の激しいねじれはうらやましかった。梨羽さんの歌とは別の感じで、僕はこの音にも個人的な経験をあわせて共感できる。
梨羽さんとも話してみたくとも、紫苑さんにも興味はあった。僕もおかあさんを憎んでいる。ホワイトカーネーションだ。
けれど紫苑さんに、この曲が分かる、と言ったって、心を閉ざして信じてもらえない気もしなくはない。そもそも僕には、あの人と対峙する勇気もない。やっぱダメかあ、と抱えた膝に頬を当てた。
【第八十五章へ】