風切り羽-85

自分で言うこと

 今週末も、聖樹さんは土日を補う食料と共に帰宅した。帰ってきたのはやや遅めで、聖樹さんは急いで着替えて夕食の支度を始める。
 ボス戦が続いている悠紗をリビングに置き、僕も手伝いにいった。献立は八宝菜で、僕はうずらのたまごを湯がいたり野菜を切ったりする。できあいの春巻きや何やらも添え、夕食が始まったのは二十時前だった。
 えびをつつく悠紗は、土日はどうしているのかを聖樹さんに問う。
「いつもと変わらないと思うよ。掃除と洗濯はしないと。悠は何かしたい?」
「んー、別に」
「そう。そういえば、要たちって洗濯物どうしてるのかな」
「放ってたよね」
 悠紗に顔を向けられ、僕はうなずく。聖樹さんは息をついている。
「着るものなくならなきゃ、コインランドリーにも行かないんだから。タオルなんか、平気で窓辺に干しただけで使うし」
「それでおとうさんがやってあげるんだよね」
「今回はしないよ。潔癖症とか言われるし。部屋は? 汚い?」
「すごいよお。服とかゴミとかお酒とか、女の人の本もいっぱいあるの」
 聖樹さんは眉を顰め、「『悠がいるときはしまって』って言ってるのに」とぶつぶつする。
「でも、そういうのにいるのが楽しそうだったよ。ね」
「うん」
「どうせすぐいなくなるからっていつも変わんないな。ホテルに泊まったりしてもああなのかな」
 聖樹さんがあきれた息をつき、春巻きを取ろうとしたときだ。
 出し抜けに電話が鳴り出し、僕たちはいっせいにどきんとした。反射的にそちらを向き、例の嫌な緊張が走る。
 時刻はちょうど二十時だ。僕たちは顔を合わせ、聖樹さんが箸を置いて電話のところに行った。悠紗が僕ににじりよってきて、僕も不安に悠紗の体温を意識する。
 聖樹さんがゆっくり受話器を取り上げた。
「はい、鈴城です」
 何せ静かなので、内容はともかく、向こうが何か答えたのはぼんやり聞こえた。僕は息を詰めて、聖樹さんを凝視する。
 何秒か相手の話を聞いた聖樹さんは──さいわい、さらにこわばったりはしなかった。何だか承知しているような顔に解けていき、「はあ」と苦笑いを漏らす。
「いえ、こちらこそ改めて連絡しないままですみません。何かご迷惑ありましたか」
 僕たちのほうを瞥観してきても、どうやら僕関連ではなさそうなのがその目で窺えた。悠紗もそう察したようで、ほっとしている。
 だが、だとしたら誰だろう。聖樹さんの仕事関係だろうか。
「いや、そういうわけでも。はい。──まさか。僕の友人に」
 友人。話が見えない。悠紗も同様らしく、僕の服をつかんで止まっている。
 聖樹さんはあまり歓迎しない弱った顔つきで話している。
「そう、ですね。あの子の気持ちの問題というか。──ええ、僕としても、もう行かせないほうがいいかと思って」
 あの子。というと──悠紗か。いつのまにか、悠紗ははっきりと蒼ざめていた。心当たりがあるようだ。
 何だろ、ときょとんとする僕を、悠紗は泣きそうな目で見上げてくる。
「悠紗──」
「先生だ」
「えっ」
「先生だよ。保育園の。どうしよう」
「あ──」
 なるほど、と続きそうになったのは飲みこむ。悠紗は一気に瞳に涙を溜め、僕にしがみついてきた。
 僕は狼狽えつつも悠紗の頭を撫で、聖樹さんのほうを向く。聖樹さんは僕にすまなそうな顔をした。けれど相手が何か言ってきたのか、「はい」と慌てて電話に耳を戻している。
「あ、ああ、まあ──そうですね、小学校。あの子が嫌がるようなら強制したくないと思ってますし。──ええ」
 聖樹さんはこっちをちらちらしつつ、悠紗の先生と話している。
 僕は悠紗のこわばる軆を綏撫した。悠紗にとっての保育園とは、僕にとっての家庭や学校と同等におぞましいところなのだろう。お友達という名目を勝手に掲げられた、好きになれない人間がうようよしている。
 僕があの行為をどんなに言われても許せないように、悠紗には大衆性の偽善が許しがたいものなのだ。見やった聖樹さんは、チェストに手をついてうなずいている。
「そうですね。一度そうしましょうか。──明日ですか。明日は──いえ、僕は別に。あの子が急に行けるかどうか。少し待ってもらえますか」
「嫌っ」
 聖樹さんが耳から受話器を外すより早く、悠紗は叫んだ。聖樹さんは息をついて保留にして受話器を置くと、悠紗と僕のかたわらに来てしゃがみこむ。
「悠──」
 悠紗は激しくかぶりを振った。
「嫌だもん。行かないもん。あんなの辞めたんだ。行かないよ」
「あのね、戻りなさいって話じゃないんだよ」
「嘘だもん。そう言ってるけど、ほんとは戻そうとしてるんだもん。そういう人たちだもん。僕知ってるの。だからやなの。行かないよ。ここにいる。萌梨くんといる」
 聖樹さんは口ごもり、僕は悠紗を見おろした。悠紗は泣き出していた。聖樹さんと僕は顔を合わせる。
「何かね」
「はい」
「事故にでも遭って、入院してるんじゃないかとか思ったんだって」
「はあ」
「それか引っ越し」
「そう、ですか」
「僕が再婚して、新しい母親ができたのかとまで考えたって」
「………、ひと月ですもんね」
「うん」
「連絡はしてなかったんですか?」
「しばらく預かってくれる人がいるとは言ってたんだけど……」
「小学校、っていうのは」
「ああ。来年この子そうでしょう。集団行動ができないなら、今のうちに来させて慣れさせておいたほうがいいんじゃないかって」
 悠紗は悶えて唸った。悠紗にはそれは、気遣いでなく丸めこみにしか聞こえないらしい。
 僕は悠紗の背中を撫でた。悠紗は僕の脇腹に顔を押しつける。聖樹さんはしばしその様子を眺め、聴きおぼえがあるような旋律を電子音で流す電話を一瞥すると、「悠紗」とやや厳しく声をかけた。
「嫌」
「嫌なんだね」
「うん」
「じゃあ、明日、保育園に行きなさい」
「何で」
「保育園辞めますって言いにいくよ」
「えっ」
 悠紗はびっくりした顔をあげた。僕も驚いた。聖樹さんは、冗談ではないまじめな表情で悠紗を正視している。
「嫌なんでしょう。そう言いにいくよ。僕も助けるけど、悠紗が自分で『嫌だ』とも言いなさい」
 悠紗は聖樹さんと見合い、唇を噛むと強くこくんとした。聖樹さんは口元をやわらげて悠紗の頭をぽんぽんとすると、こちらを向く。
「この部屋で一緒にいてもらう萌梨くんには、甘えちゃうね。いいかな」
「あ、はい。もちろん」
 聖樹さんは微笑むと、腰を上げて電話のほうに行った。悠紗も僕を見あげてはにかみ咲う。僕は咲い返して悠紗の頬の涙をぬぐってやると、食事に戻るのをうながした。
 僕がうずらのたまごをつまむのに苦戦し、結局箸に刺して食べたところで、聖樹さんも食卓に帰ってくる。
 悠紗は居心地悪そうに座り直し、いつ行くのかを訊いた。
「明日の二時だよ」
「二時」
「昼のね。保育園だから土曜も空いてるし、お昼寝の時間訊いたんだ。みんな寝てるときがいいんじゃないかと思って」
「そっか。うん。そっちのがいい」
 悠紗は白菜を飲みこむと、僕を見た。
「萌梨くんは来ない、よね」
「え。う、うん」
「……そっか」
 うつむく悠紗に、「僕じゃ不安?」と聖樹さんは苦笑する。慌てて首を振った悠紗に聖樹さんは咲い、「萌梨くんはひとりにしちゃうね」と軽く眉を寄せた。
「四人のところにでも行ってる?」
「そうしてもいいです」
「そのほうが安心だね。いるかな、要たち。いなかったらごめんね」
「何時間もじゃないですよね」
「一時間も話さないと思う」
「じゃあ、たぶん大丈夫です」
「そう。一応、上にも行ってみようね」
 僕はうなずき、夕食は元の状態に落ち着く。
 悠紗は少しそわついていた。「おとうさんと離されたりしないかな」と悠紗が不安げにすると、「僕が離さないよ」と聖樹さんは微笑む。悠紗は聖樹さんを見つめ、信頼してこっくりとした。
 僕はそれを眺め、親子だなあと羨望も混ぜて胸のうちでつぶやいていた。

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