茜さす月-4

呪いのような夏【1】

 普段からあまり深く眠れないから、どんなに疲れていても、お昼になる前には目が覚める。今日もベッドに入ったのは午前五時だったけれど、十時になる前に起きてしまった。
 熟睡が足りずに、腫れぼったい頭を抱えて目をこすり、ベッドスタンドのスマホを充電からちぎる。すみれ色の指先を滑らせて、メールをチェックすると、特に急用がないことにほっとして起き上がった。
 寝起きは、いつも少し頭が痛い。でも二日酔いなんて言っていたら、水商売では働けない。
 スマホを置いて、ふとんの皺に投げた手は、背後のカーテンで陰っている。私の手は綺麗だとよく言われる。けれど、本当はこの手はひどく汚れている。目も舌も、私は汚れきっている。
 弟の有栖だけが、それを知っていたけど、もう巻きこんではいけないと距離を置いた。それでも、有栖は物言いたげな瞳で私を見つめる。
 その目が、私をかろうじて生かしている。この手が有栖に届かなくなったら、私はきっと死んでしまう。
 だけど、私はあの子の姉だから、何も求めてはいけないのだ。本当は、今だって有栖がそばにいて、口移しで水を飲ませてくれて、それで頭痛がやわらいだらどれだけ幸せかと考えるけれど。
 どうして、私は有栖の姉なのだろう。本当は、あの無骨な手首を縛って。喉仏を隠すように首輪につなげて。私を見つめるとき以外は目隠しをして。有栖から、自由なんか奪ってしまいたい。
 あの落ち着きはらった、昔と違って低くなった声で、私のことだけ呼べばいい。私は有栖を舐めて、腰を沈めて、子宮で包む。もう誰にも壊せないように、有栖に私の性を壊してほしい。
 この世に、有栖とふたりきりになりたい。そうしたら、私は姉ではないし、有栖も弟ではない。私と有栖を引き裂く存在が存在しない世界が欲しい。
 白い壁に肩を預けて、声を絡めてため息をつく。
 有栖が中学生になる前に、秘儀はやめた。その頃、ちょうどあの人も結婚した。「もう有栖は、こんなことしなくていいから」と私は有栖を抱きしめてから、突き放した。
 それでも、有栖は私を見つめる。
 その視線を思い返すと、心が熟れて、灯ったマッチのような微熱で脚のあいだで蜜がしたたる。潤んだそこをすくって、濡れた指を有栖の舌だと思いながら核をこすると、切なく痺れる軆に、もっと果汁があふれてくる。
 目を閉じて、水音に集中して、壁に身を寄せてこらえる。
 有栖。私を抱けずに苦しんでいる有栖。その目で分かる。私も苦しい。私のほうが有栖を求めている。かわいい、愛おしい、この世でひとりだけ。
 ザラメから綿飴が集まっていくみたいに、かぼそかった快感の波が、ふくれあがっていく。声が甘く引き攣る。頭の中がどんどん白くなって、有栖が私をいやらしく刺激して、涙さえ滲んでくる。
 有栖。もっと。私を、ダメにして──
 突然、熟した果実が地面に落ちる。甘い香りと水気が飛び散る。きつく目をつぶって、軆が震えるまま、やがてくずおれる。
 少しのあいだ、泣いてしまう。有栖がそばにいなくて、泣いてしまう。いつ有栖が離れていくか、私を捨てるか、ほかの女を見るか、いろんなことが頭に錯綜して、また一歩、狂気に近づく。
 ゆらゆらとトイレに行って、快感を含んだ下着のシートを替えて、洗面台で手を洗った。
 鏡の中には、ちょっと疲れた自分の顔がある。昔からこんな老けた顔をしている気がする。無邪気に咲った記憶がない。「綺麗だよ」とは言われても、「かわいいね」とは言われない。
 有栖は昔はかわいかったなあ、とぼんやり考えながら部屋に戻ると、ちょうど電話着信の音が流れていた。スマホを手にすると、画面には萌花ほのかの名前があって、反射的に応答へ指をすべらせる。
『あ、もしもし。ごめん、寝てた?』
「ううん、起きてた。おはよう」
『おはよ。萌香、今日って出勤?』
「今週は五連勤よ。どうして?」
『あたし、今日休みだから、ランチどうかなって』
「ランチなら構わないけど。あんまり作る気もしないし」
『そっ。じゃあ、十二時にいつもの駅前の店で』
「分かった。あとでね」
 スマホを耳から離すと、通話を切って、十時半を大きくまわっている時刻を確認する。スタンドミラーでルームウエアの自分を見てから、いつもの店なら服だけ着替えればいいか、とそれでも髪はとかして、アップでまとめた。
 部屋を出ると、まずダイニングキッチンに向かい、後退した頭痛をミネラルウォーターでもう少し鎮めて、シンクで水につけられた有栖の食器を洗う。
 昨夜は有栖は家にいて、私が作ったマカロニグラタンを夕食に食べた。だから、朝に有栖が食べたのは、私が明け方に帰宅して用意したきちんとした朝食だ。今夜はどうなのかな、とスポンジを握ると、オレンジの香りの泡がこぼれる。
 分かっている、有栖が帰宅しない夜に、どう過ごしているかなんて。洗濯籠に放りこまれている服から、女の匂いがする。私はこんなに有栖に執着して、ほかの男なんて目に入らないのに、有栖はもうどこかの女を見るときがあるのだ。
 私といるときは私を見ているけど、私といないときは私じゃない女を見ている。そんなの許せない。なのに、何も言えない。何か言って、有栖に押し倒されていいのか分からない。
 有栖がどこかの女のものになって、ここに帰ってこなくなったら、どうすればいいのだろう。私は有栖以外の男なんか考えられない。この家にひとり残されるのだろうか。
 私がひとりになって、有栖がそれを平気だと思うようになるかもしれないことが、すごく怖い。有栖は、私が寂しく凍えていたら、すぐにでも抱きしめにきてくれなくてはならないのだ。
 手首を縛るより、首をつなぐより、目をふさぐより、有栖の心を閉じこめてしまいたい。永遠に、私と共に、この家に。
 洗濯物が乾燥まで仕上がって家事を終えると、着替えをして家を出た。
 晴れ渡らない雲があっても、連休前なのに気候は蒸すようで、涼しさはほとんどなくなってしまった。来週、五月になったら季節は初夏だ。雲もなくなって、皮膚を焼くような青空が始まるのだろう。
 マンションの住宅地を出ると、人も車も行き交って、ざわめきのある駅前の通りに出る。横断歩道を渡ってロータリーを歩いて、並ぶお店の中にダイニングバーがある。そこが萌花との「いつもの店」で、私はドアを開ける。
 コーヒーを挽く匂いがして、スタッフが持ち寄った洋楽がかかっている。いつもの店内に何となくほっとして、「いらっしゃいませ」という渋いおじさんのマスターの声に、顔を向ける。
「萌花、もう来てますか」
「ボックスでビール飲んでるよ」
 右手がマスターのいるカウンターで、左手と奥にボックス席がある。見憶えのある常連がちらほらする席を見渡していき、奥にウェーヴの長い髪の後ろすがたを見つけた。私は歩み寄り、「おはよう」と声をかける。
 肩の出る青いミニワンピースの萌花は生返事で、顔も上げずにスマホをいじっている。ちらりと覗けた画面は、今ハマっていると話していたゲームで、いつものことなので気にせず正面に腰を下ろす。
 マスターに声をかけられ、キッチンから出てきた女の子が持ってきたメニューをめくる。萌花はエッグハンバーグとライス、そしてジョッキビールをがっつり取っているのに対し、私は軽めのシーフードと野菜のリゾットにしておく。
 飲み物はいつもここではカフェラテだから、たいてい言わなくても伝票に書きつけてもらえる。「少しお待ちくださいねっ」と私と同い年くらいのその子は、笑顔でキッチンに引っこみ、私は頬杖をついて萌花を眺めた。
 萌花はびっくりするほど童顔の甘い顔立ちで、いまだに中学生に間違われることがある。けれど、軆つきはかなりメリハリがあって、スマホを挟めておけるくらい胸も大きい。だから、ロリータっぽさはなくて、色気も強い。肉づきが柔らかくて、おいしそうな女の子だ。
 この店に来るときは、私同様に化粧なんて適当だけど、ちょっと厚ぼったい唇を赤く塗っておくのだけは忘れていない。ぱっちり大きいわけではなくても丸くころころした瞳、頬や顎の柔和な曲線、日に焼かない肌は白く、そんな容姿に合わせた何も知らない無垢な演技もうまい。
 実際にはけっこう、あざとい性格だったりするのだけど、私にはただのざっくりした子だから気にならない。
「よしっ、死んだ! あー、やっと攻略」
 私はゲームなんてしないからよく分からないけど、最近のスマホゲームはSNSも兼ねていて、知らない人とグループになって物語を進めていくものがあるらしい。萌花はかなりネット中毒で、オンラインの友達も多い。
「あ、萌香おはよ。ちょっと待って、みんなに落ちるって言うから」
「別にやってても構わないけど」
「いや、どうせ集中できないし。めしりだしますよー、っと……」
 萌花とは、中学からの友達だ。川村かわむら萌香もか川田かわだ萌花ほのか。単純に出席番号が前後だった上、担任が私のことも萌花のことも「モエカ」と呼んだ。でも、私は萌香と書いてモカ、彼女は萌花と書いてホノカだ。「うちらシンクロやべえじゃん」と萌花のほうから話しかけてきて、いつのまにか、ゆいいつの友達と呼べる子になっていた。
 萌花はやっとスマホを置いて、ポータブルの充電器につなげた。ビールを飲み、「冷めちまったな」と言いつつ、ハンバーグを口に放りこむ。
 萌花はよく「太った」と嘆いているけれど、それでも、そうやってぱくぱく食べるほうが、健康的で魅力的に感じる。
「てか、萌香、五連勤ってマジ?」
「土曜日に出ないぶん、平日にはなるべく出るようにってママが」
「クソババアだよなあ。あたしにもレギュラーになれってうるさいわ」
「昔は楽だったよね。好きなときでよかったし」
「ほんと。でも、二十歳になるのにあれはなー」
「萌花は歳偽れると思うけど」
「萌香と組まないと嫌だもん」
 高校生のとき、私と萌花は、街で売春斡旋のチームに声をかけられて、デリヘル感覚で売りをしていた。ひとりで客のところに行くのはさすがに怖かったので、私と萌花はセット販売で、客と3Pをしていた。
 なじみになった客の目的が、片方に過ぎないときは無理に三人でせず、あぶれたほうはただ同じ部屋にいて、ルームサービスを取ったりテレビに衛星を受信して映画を観たりしていた。
 高校を卒業したのと同時にチームを抜け、風俗でも行こうかとも相談したものの、結局どこも本番強要が多いといううわさで水商売に落ち着いた。今もふたりで同じ店に勤めている。ママはあんまり好きではないのだけど、同伴がノルマではないのが楽で、半年以上続いている。

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