茜さす月-5

呪いのような夏【2】

 マスターが私にカフェラテを持ってきて、「どうも」と受け取る。萌花はジョッキを持ち上げて、ビールをごくんと飲む。私は、仕事以外ではあまりアルコールを飲まない。「こんな時間から飲んでていいの?」と訊くと、「飲みたいの」と萌花は口元についた泡をぬぐう。
「家いるといらいらしてさ」
「ご両親?」
「ん。就職考えろってね。働いてるだけマシだろうが」
「堅気の仕事って、よく分からないわよね」
「高校時代で金銭感覚狂っちまったからなー。一時間を三桁で売るとか、よくみんな耐えられるよな」
「正社員になったら、マシなのかしら」
「高卒から採るってあるのかな。でも、もう学校はやだ。やりたい勉強もないし」
「私もない。でも、水商売も二十代のあいだよね。自分のお店持ちたいわけでもないし」
「あーあ、将来のこと考えると死にたくなる。とっとと都合いい男と結婚するのが一番かな」
「今、男の人いる?」
「いない。萌香は?」
 首を横に振って、カフェラテに口をつける。ここのカフェラテはまろやかだけど、ほどよく苦味があって好きだ。「萌香って男作らないよな」と萌花はハンバーグの大きなひと切れを食べて、「理想高いのかな」と私は苦笑でごまかした。
 もし、有栖をかきけすほどの男が現れたら、私はどうするのだろう。有栖なんかすぐ忘れてしまうのだろうか。そう思うと、カビが生えるみたいに嫌悪感が芽生えた。有栖がどうでもよくなるなんて、気持ち悪い。
 そんな男はいないと分かっている。タイムマシーンで過去を書き換えない限り、そんな男はいない。有栖とのあの記憶がある限り、どんな男も私の中で有栖を超えられない。あのとき私を救ってくれたのは有栖だった。だから、今、私が生きていること自体有栖のおかげで、なのにほかの男に目移りなんて、どうすればできるっていうの?
 昼食を食べ終わっても、三時のおやつも食べる頃まで、萌花とそのテーブルでしゃべっていた。ほとんど、最近の客やママへの愚痴だったけど、こうして共通の仕事をしていて吐き出せるだけマシだ。
 萌花なら、有栖のことを打ち明けて、相談してもいいのかなと思うときもある。でもやっぱり、吹聴とまではいかなくても、誰かとうわさされたらと思うと言えない。弟にこんなに飢えているなんて、理解してもらえるか分からないし、有栖に執着する理由まではさすがに話そうと思えない。
 私が弟を愛していると聞いて、萌花はもやもやと悩んできたら、誰かに吐く。吐きたいと思ったら口にする子だから、楽なのだけど、ときどきそれが息苦しい。私は結局、有栖に関しては、自分の底に澱んでいるしかできない。
「あたしは家帰りたくないし、まだここにいる」と萌花は充電の終わったスマホを手にして、私は「じゃあ、また明日」と自分の伝票を取って店を出た。
 雲が流れて青空が覗いて、外はちょっと暑くなっていた。
 駅前に来たのだから、ついでにスーパーで買い物をしていこう。今夜は和食がいいかなと思いながらスマホを取り出し、有栖に今日は帰ってくるのか訊こうと思ったけど、まだ早いかとやめておく。作ってしまったのを理由に、仕事前にそっけなく訊くのが自然だ。
 時刻は十五時半で、スーパーは店内放送がうるさいだけで空いていた。十七時近くなったら、タイムセールでスーパーは混んできて鬱陶しい。私はセールなんてどうでもいい。献立を考えながら、ゆったり食材を選ぶほうが好きだ。
 今日は鰆の塩焼きをメインにすることにした。有栖は、魚なら白身が一番好きだ。あとは小エビを和えた菜の花の炒め物を添える。よし、と夕食のメニューが整うとレジを抜けて、日が陰ってきた道をマンションまで歩いた。
 家には誰もいない。冷蔵庫に食材を預けると、取り出しただけだった洗濯物を畳んでいく。有栖の洗濯物は、リビングのソファに置いておくと、いつのまにか回収されている。
 何となく、部屋には入らない。あの頃、いつもふたりで過ごしていた部屋だから、家具の位置、染みこんだ同じ匂い、窓からの温度、いろんなものに理性が保てないかもしれない。
 洗濯物が片づくと、夕飯の支度に取りかかる。いつも、作るのは私と有栖のぶんだけだ。
 昨日の夜から、有栖に会っていない。会いたいな、と思うと泣きそうになる。
 私は有栖に、むごいことをしている。有栖はまだ私を見ている。私さえ踏み出せば、きっと有栖に呪いをかけられる。もう私のそばから動けなくなってしまう呪いだ。
 私にはまだ魔力がある。でも使えなくなったふりで、有栖の訴える瞳を生殺しにしている。有栖が目をそらしてしまうときが怖くてたまらないのに、まるで、試しているみたいだ。うぬぼれている。有栖にだっていつか限界が来る。そうなったら、それこそ私は取り返しのつかない涙に溺れるのに、何でもない顔をしてしまう。
 だって、こういうことはいらないなんて、バカげた強がりをしてしまった。有栖のあの熱がないと、本当は生きることさえままならないくせに。
 夕食ができあがると、シャワーを浴びてスーツを着た。私はいつもスーツで出勤する。もっと露出した服も着ろとママに言われるけれど、私はあんまりキャミソールとかホルターネックが似合わない。ドレスも着物も、周年とかクリスマスとか、行事で強制にならない限り着ない。それに合わせた化粧や髪のセットに、手間がかかる。いつもの手順で、今日のスーツはクリームレモンだから、オレンジ系の化粧に仕上げる。
 流した髪を内巻きにした頃には、十八時が近づいていた。玄関に有栖の靴がないのを確認して、会えなかった、と歯噛みしながら、そろそろ仕事に行くとやっと有栖にメールを送信する。ひとりで食事を取って食器を洗うと、十九時になりそうだった。
 服に合わせた、白いエナメルのバッグを選ぶと家を出た。外は暗くなっていて、歩くと風が涼しく頬を撫でる。電車に揺られていると、ふとスマホが震えて、画面を点燈させた。
 有栖だ。あの子のメールも、私に負けずにそっけない。
『今夜帰らない。
 メシは朝食ってくから。』
 その文面を見た途端、ぐにゃ、と頭の中が言い知れないいらだちでゆがんだ気がした。
 堰を切って、客に営業メールを送りはじめる。有栖が私をないがしろにする。そんなの許さない。絶対許さない。有栖を心配させるんだ。また、「同じこと」をして、有栖を振り向かせる。
 そうしたら、きっと有栖は戻ってくる。私から目を離せなくなる。有栖は私のもの。今どんな女といるとしても、有栖は私だけの男。ねえ、有栖だって、私より興奮できる女なんかいないでしょう?
「学校お疲れ様」
 私は小学六年生、有栖は小学三年生だった。
 集団下校が当たり前になっていたけど、有栖はあまり同級生になじまず、六年生の教室まで来て、私と一緒に帰りたがった。私もあまり同級生が好きではなかったから、「じゃあ、一緒に帰ろう」と有栖と手をつないだ。
 私がもう六年生ということで、「有栖くんは、おねえちゃんの萌香ちゃんと帰るから大丈夫」と先生たちは判断していた。
 私と有栖は、いつも手をつないで下校していた。そして、マンションの並びに入って人気がぐっと減った角で、ふとそんな声がかかった。
「あ……、」
 私は声をもらしてから頭を下げて、有栖もちょこんと頭を下げた。
 その人は、たまに私たちにおやつをくれたり、有栖とも遊んでくれたりする顔見知りの男の人だった。大学生だと言っていたから、二十代の前半だと思う。
 有栖のほうが、私と手を離して、その人に駆け寄る。その人は笑顔で有栖を抱き上げると、私をもう一度見た。
「おかえり、萌香ちゃん」
「あ、……はい。ただいま」
 家にも着いてないのに合ってるのかな、と思いつつ私が言うと、その人はにっこりした。
 夏休みが近い猛暑だった。蝉の声が青空に反響し、汗が滲んで浮かんでは流れていく。
「アイス食べていかない?」
 炎天下のそんな台詞が、切っかけだったように思う。有栖が「食べたい」と言って、私だけがいらないと帰るわけにもいかなかった。
 正直、分かっていたのだけど。よく知りもしないこの人に、お菓子をもらうとか遊んでもらうとか、先生たちが鬱陶しいほど忠告している「いけないこと」だと。
 でも、有栖がすっかり懐いてしまっているから、私が代わりに警戒して見守るしかなかった。その人は有栖を右腕に抱え、左手で私の手をつかむと歩き出した。握り返せなかったのは、手汗が気持ち悪かったからだろうか。
 連れていかれたアパートの一室は、狭かったけど、あまり物がないせいでがらんと見えた。カーテンで遮光され、用意していたようにクーラーがかかっていた。テレビにはゲームがつながっていて、有栖がすぐに飛びついた。私たちの家にゲームなんてない。
「やってみたい」と言った有栖に、カップアイスを持ってきたその人は「どうぞ」とうなずいた。嬉しそうな有栖は、受け取ったバニラアイスをスプーンですくいながら操作の説明を聞いていた。私はランドセルを下ろして、壁に背中を預けて、隣の部屋の物音がけっこう筒抜けてくるのを感じていた。
「萌香ちゃんは、チョコでよかった?」
 有栖がコツを飲みこんでゲームを始めると、その人は私にチョコレートアイスのカップとスプーンを差し出した。私はこくんとして、有栖に操作を教えているあいだに少し溶けて、すくいやすくなったアイスを口に含む。
 ひんやりとして、甘い。
 軽快なBGMに乗せて、有栖は上手に敵キャラや障害を越えていく。

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