彼女の恋は凪いでいる-7

秋 – 紀琴【2】

 やがて、夏休みが明けて二学期が始まった。僕と瑠璃海と波葉は、変わらず三人で登下校した。そして、二学期になったのでどこのクラスも席替えが行なわれ、舞凪さんは波葉の隣の席ではなくなった。
 近い席でもなかったので、声をかけにいく隙もなく、僕たちは舞凪さんと仲良くなりかけていたことなんか、あっさり消滅させてしまった。何か薄情な気がするな、と我ながら感じて、たまに舞凪さんの席に視線を向けてしまうけど、結局、瑠璃海が嫌かもしれないなとあきらめた。
 それでも性懲りもなく、舞凪さんの様子を窺っていたとき、視線を感じたのか、舞凪さんと目が合ったことがある。僕はどきっとして、やば、と慌てて目をそらした。
 やばい? 何が? とっさに出たその行動は舞凪さんを傷つけたかなと、ますます気がかりになってしまった。謝らないと、と思っても、僕は瑠璃海と波葉に向かってしか咲えなかった。
 十月になって残暑がやわらぎ、やっと頬を撫でる風に涼しさが出てきた。
 その日は台風が過ぎ去ってよく晴れていて、開けられた教室の窓からの風もさわやかだった。昼過ぎには軽くうとうとしていると放課後になり、僕は波葉の教室に向かった。
 瑠璃海は今日はクラスの女友達とお茶して帰ると言っていた。下校する生徒が行き交う廊下を奥に進み、波葉の教室を覗いて少しどきりとする。波葉は席に着く舞凪さんと向かい合って話をしていて、ふたりとも咲っていた。
 そう、だよな。僕が気にしなくても、僕や瑠璃海がいないところで、舞凪さんは波葉とちゃんと咲っているのだ。
 舞凪さんとっては、波葉が友人であって、僕はそのおまけだ。それに、本当に薄情かなと思うなら、僕も波葉みたいに舞凪さんに話しかけたらいい。それができないのに、心配だけはするなんて、ただいい人ぶっていて、僕はずるい。
 いいんだ。僕が気にかけなくても。恋ではなくとも、舞凪さんには波葉がいる──
「あ、キコじゃん。ルリは?」
 不意にそんな声がかかって、僕ははたと顔を上げた。波葉が僕に気づいていて、隣に瑠璃海がいないことに不思議そうにしている。
 僕は狼狽えそうなのを抑え、教室に踏みこんでふたりに近づいた。邪魔だよな、なんて思いつつ。
「今日は友達とお茶してくって」
「っそ。ルリ、ちゃんと友達いるんだな」
「そうみたいだね」
「キコはいるのか、友達」
「え、ナミがいるけど」
「俺かよ。まあ俺もキコくらいだけどな」
 波葉は苦笑して、舞凪さんはそんな波葉を見つめている。
「ナミと帰ろうかなと思ったんだけど」
「そうだな。荷物持ってくる」
 波葉はそう言って自分の席に向かい、僕はその場に舞凪さんと残される。ぎこちなくなりそうな所作をこらえ、僕は舞凪さんを見た。
 舞凪さんはスクールバッグをつくえに乗せ、自分も帰ろうと思ったのか、席を立った。「あの」と僕が引き止めるようについ声を発すると、舞凪さんは僕を見る。
「何?」
「あ、えと……最近、ごめんね」
「え、何が?」
「いや、その──ナミと席が離れて、話さなくなるとか冷たいよね」
「ああ──別に、波葉くんは話してくれてるし」
「そう、だけど。席替えする前は四人だったし」
「気にしないで。紀琴くんと瑠璃海さんはクラス違うんだし。波葉くんとは話せてるから」
「そっ、か……」
 そう言われると、わざわざ謝ったのが自意識過剰に感じられて恥ずかしい。
 舞凪さんは、波葉と仲良くできていればいいのだ。僕のことは何とも想っていない。なのに、話さなくなって寂しいかななんて考えて、寂しいのはどっちだ。
 寂しい?
 舞凪さんと話せなくて?
「キコ。帰ろうぜ」
 波葉の声に僕は振り向き、「あ、うん」とうわずった声で応えた。やっぱり様子が変に見えるのか、「どうした?」と波葉は首をかしげてくる。
「舞凪に何か言われた?」
「えっ──」
「別に何も話してないし」と舞凪さんがあきれた声で言う。
「私、帰るね」
「駅まで一緒に帰れるじゃん」
「瑠璃海さんいないのに、私がいたら何か違うでしょ。今日は別々でいいよ」
「っそ。じゃあ、明日な」
「うん。また明日」
 舞凪さんは波葉に微笑み、僕には会釈して教室を出ていった。
 それを見送っていると、「俺たちも帰ろうぜ」と波葉がうながしてくる。僕は慌ててうなずき、歩き出した波葉を追いかけた。
 舞凪さんは、誰のことも好きにならない。恋愛はしない。だから、波葉とだって友人として仲がいいのであって──だけど、ちらちら考えてしまう。
 波葉と本当に何もないのだろうか。
 無性愛のことだって、波葉はきちんと舞凪さんの口から聞いたのだろう。僕は舞凪さん自身に聞いたわけじゃない。大切なことだろうから、できれば、舞凪さんの口から聞きたかった気がする。
 何だろう。どうしてこんなにもやもやするのだろう。舞凪さんのことは、もう余計な気はかけないと決めたのに。
 僕が舞凪さんを知るときは、いつも波葉を介している。なぜ僕と直接話してくれないのか、なんて思ってしまう。僕のことを警戒しているのだろうか。僕は、舞凪さんのこと──
 にぎわった文化祭が過ぎてずいぶん秋めいた頃、二学期の中間考査があって、気候はぐっと冷えこむようになった。
 紅葉したあとにひらひらと落ち葉になった木の葉は、冷たい風に乗って地面を転がっていく。空気がきりっと澄んで、空の色も透き通っている。コートだけでは防寒しきれず、マフラーや手ぶくろを身につける人も増えてきた。
 カレンダーはすぐ十一月に入り、僕はその日も瑠璃海と波葉と三人で登校した。教室の入口でふたりとは別れ、席に着いてぼんやりする。
「あ、六組の高畑だ」
 だけど、そんな声が聞こえてはっと声のほうを向いた。近くにいたクラスメイトの男子の何人かが、開いた窓の向こうの廊下を眺めて、話をしていた。
「美人だよなー」
「彼氏いるのかな」
 そんな会話にはもちろん気づかず、廊下を歩いているのは舞凪さんだ。クラスメイトたちは舞凪さんについてあれこれ口にして、その中には、波葉の名前もあった。
 僕は眉を寄せると、席を立って廊下に出た。同じ制服の中に舞凪さんの背中を見つけると、まっすぐそちらに向かって足を速める。
「舞凪さん」
 追いついた僕が突然そう声をかけると、舞凪さんはびくっと肩を揺らし、おそるおそるこちらを振り返った。声をかけたのが僕だと認めると、ほっと息をつく。
「何だ……紀琴くんか」
「あ、ごめん。驚かせて」
「いきなり背後に人がいたらびっくりするよ」
 舞凪さんの苦笑いを見つめて、どうして、と思った。
 春のあのときは、そう思って行動したわけじゃない。いつのまにか、僕は舞凪さんを守りたいから気にかけるようになっていた。この人が誰も愛さない、恋愛はしないというのなら、いっそ僕が閉じこめてしまいたいと──
「舞凪、さん」
「うん?」
「少し、話せるかな」
「え、いいけど」
「じゃあ、ここは人いるし」
「渡り廊下行く?」
 舞凪さんが提案し、僕はこくりとすると歩き出した。舞凪さんはついてきてくれて、僕は心臓が脈打ってくるのを感じた。
 話? 何の話だ? 僕は何を舞凪さんに伝えようとしている?
 渡り廊下はこないだより人が歩いていたけど、教室の並びのような混雑はない。僕たちはそこで向かい合うと「何かあったの?」と舞凪さんが首をかしげてきた。僕は押し黙りそうになったのを何とか頭を働かせ、「クラスの」と苦し紛れの話題を出す。
「僕のクラスの奴が、舞凪さんのことうわさしてたから」
「うわさ」
「その、彼氏いるのかとか。だから、気をつけたほうがいいかもって」
「そう……なんだ。ありがとう、憶えておく」
「うん」
「ええと……それを言うために?」
 そうだよな。やっぱおかしいよな。話題としてどうでもよすぎる。僕は胸苦しさに一度深呼吸して、「それと、もしなんだけど」と言う。
「僕がルリ以外の人を好きになって」
「えっ」
「そのとき、僕はどうしたらいいと思う?」
「え……と、好きな人ができたの?」
「もし、だけど」
「そ、そう。瑠璃海さんにもう気持ちがないなら、まあ、別れるんじゃないのかな」
「………、」
「ごめんなさい、極端かな。私のこと、波葉くんに聞いてると思うけど──」
「僕」
「え、うん」
「舞凪さんを、好きになってるかもしれない」
 舞凪さんは、僕に目を開いた。言ってしまってから、あ、と僕は一気に体温が蒼ざめるのを感じた。慌てて言葉を継ぎ足そうとして、舞凪さんを見て──
 その瞳に、困惑とは言えない、かすかな嫌悪が浮かんでいるのを見てしまう。
 あ、ダメだ。嫌われた。
「違……くて、ええと、深い意味じゃなくて、その、友達として。そう、友達だよ。僕も、ナミみたいに舞凪さんと仲良くなれたらって思ってて」
「……そ、う。でも、それは瑠璃海さんが嬉しくないかもね」
「そ、う……だよね。ごめん。僕が好きなのはルリだもんね」
「うん。瑠璃海さんを一番大事にしてあげて」
 舞凪さんのその言葉で、なぜこんなに泣きたくなるのだろう。波葉は仲良くできて、何で僕は舞凪さんに近づけないのか。
 瑠璃海がいるから? もし瑠璃海がいなかったら? せめて、僕は舞凪さんの友達になれたんじゃないか。波葉ぐらい親しくなれたんじゃないか。
 つらい。そう、僕は舞凪さんに近づけないのがつらいんだ。
 かもしれない、じゃない。
 僕は舞凪さんのことが好きになってしまった。
 届かないのに、こんな想いを抱くほど遠ざかるのに、舞凪さんのことが──
 自覚するほど絶望感に泣きそうで、それを何とかこらえて、かろうじて話を聞いてくれたお礼を言った。舞凪さんはうなずいてから、「じゃあね」と逃げるように早足で渡り廊下を去ってしまった。僕は鬱したため息をつき、渡り廊下の窓にもたれかかる。
 秋晴れの光がまぶた越しにめまいになる。こんなの絶対、瑠璃海に知られるわけにはいかない。
 舞凪さんには近づけない。それなら瑠璃海とは別れない。
 そんなふうに考える僕は、すごく卑しいんだろうなと吐き気がした。

第八章へ

error: