romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

雪の果て-3

 バッグの中でスマホが鳴った。DMの着信音だ。
 まさか──いや、まさかね。
 そう思いながらも、一応スマホを取り出して、誰からなのかだけチェックしようと手ぶくろを外した。通知バーを引っ張ってみて、私ははっと目を開き、息を飲む。
『助けて』
 その、たったひと言──刹那から、だった。
 助けて? どういうこと?
 動揺しつつも、『どうしたの?』と感覚の消えかけた指で何とか入力して、躊躇ったあとに送信した。すぐ既読がついた。
『ここに来て。お願い』
 聞いたこともない地名が書かれていた。神妙にたたずむまま検索してみると、駅名だった。マップによると、刹那が住んでいる隣県にある駅だ。
「えー……?」と私は参って、声まで出してしまう。
 無視するのは、やっぱ、ひどいよな。警察に言う? 小学生とSNSでつながってることなんか言えるか。どうしよう。どうしたらいい?
 助けてって言ってる。あの子の事情はうっすら知ってる。それなのに、放っておくなんて──
 スマホ画面の時刻を確かめた。二十二時半にはなっていない。今なら、終電までに片道行けるかもしれない。
 冷静になれば、たぶん関わらないほうがいい。私は関わってはいけない。刹那の親戚でも何でもない。しかし、あの日、私はたぶん刹那にひどいことをした。寂しいと言われて、それがどうでもいいんだねと言われて、刹那の手をつかまなかった。
 逃げたい、と言った刹那の痛みをはらんだ笑みがよぎる。
「あーっ、もうっ!」
 いらついたようにそうつぶやくと、私はマフラーとコートの裾をひるがえし、改札のほうに駆け出した。
『今からそこ行くけど、何かあったの?』
 暖房がかかった車両の座席はがらがらで、私は適当に座って刹那にDMを送った。
『ほんとに来てくれるの?』
『行かなくていいなら早めに言って。帰るから』
『帰らないで。会いたい』
『駅だよね? 駅まで行けばそれでいいの?』
『どのくらいで来れる?』
『マップの乗り継ぎ予測では二時間くらい』
『それなら、たぶん抜け出して駅に迎えに行けると思う』
 抜け出す、という言葉が引っかかったものの、あんまりやりとりしていてスマホの充電が死んだら、私も行き先が分からなくなって詰む。それを伝えると、『改札で待ってるから』と刹那はおとなしく会話を切り上げ、私もスマホはバッグにしまった。
 がたんごとん、という揺れに身を任せながら、職場のグループに『帰宅しました』って嘘でも入れとかないとやばいな、と気づいた。ただでさえ、私は先月みんなに心配をかけたし、私が帰宅しないと店長も帰れない。
 頭ではそういうことを考えて、やらなきゃ、と思うのにどうしてもスマホに手が伸びない。
 いったん市街地まで出ると、そこから乗ったこともない路線の特急に飛び乗った。このあと、乗り継ぎは二回ある。もし途中で終電時間になったら、タクシーで行くしかない。そこまで覚悟が決まると、引けない状態にかえって張りつめた気持ちが落ち着いてきた。
 職場グループに『すみません、着信があって長引いてました。帰宅してます』とメッセも入れる。『よかった!』『心配してたよ』と店長だけでなく同僚まで言葉やスタンプをくれる。申し訳ない。私、本当は犯罪かもしれないことに踏みこもうとしているのに。
 特急に三十分以上乗ったあと、見知らぬ駅の匂いに臆しながら、広い駅で迷いそうになった。だが、私には迷っているヒマはない。駅員さんに目的の乗り換えができる駅へのホームを訊くと、ちゃんと笑顔で教えてもらえた。お礼を述べて、そそくさと改札を抜ける。
 階段を降りた先のホームには、冷え切った風がびゅうっと音を立てて吹き込んでいた。こちらの空も、ぶあつい雲におおわれている。その駅から準急に乗り、ついに各停で目標の駅に降りれる沿線にたどりついた。
 この時点で、零時をかなりまわっていた。もしかして来るの終電かなと思っていたら、やはりそうだった。
 乗りこむと、酔っぱらった客が多くて、車内は酒臭い。眉を顰めながら、我慢して五駅くらい揺られたと思う。
 いよいよ刹那が指定した駅に到着して、ホームに降りると駆け足で改札に向かった。
 ICカードで改札を抜けようとしたら、さすがに残金が足りなかったのか、引っかかってしまった。舌打ちしながら、少し引き返して機械でチャージして、また改札に向かうと、「一音」とあの幼い声がした。
 顔を上げると、改札の向こう側に刹那がいる。
「刹那──」
 こんな凍てつく寒さなのに、刹那はあの紫のパーカーしか羽織っていない。足元は素足にスニーカー。私は今度こそ改札を抜けて、彼に駆け寄った。同時に刹那は私に飛びこんで、ぎゅっとしがみついてきた。刹那の涙が、じわっと私のキャラメル色のコートに染みこむ。
「ほんとに来てくれた……」
 絞り出すような小声で刹那は言って、「……来るしかないでしょ」と私はささやきかえす。
「よく分かんないけど、家は出てこれたんだね?」
「うん……怖かったけど」
「家で何かあったの?」
 刹那は口をつぐみ、私のコートを握りしめた。その指の細さと白さにいまさら驚く。私は刹那の頭を撫でた。さらさらの髪が指先をすべる。
 あたりを見まわした。改札がここひとつしかない、こじんまりした駅だ。そして案の定、ほかの乗客や駅員さんが変な目を向けてきている。
 やばい。通報される。
 悟った私は、「とりあえず家に帰ろう」とあえて大きな声に切り替えた。「えっ」と刹那が顔をあげると、懸命に目配せして私は続ける。
「私が遅いから、迎えに来てくれたんだよね。何というか、その──弟にそんなことさせてごめんね」
 弟は苦しいかなあと思いつつ、台詞を周りに聞こえさせる私に、刹那も状況を察したみたいだ。けれど、「家は……」と何やら口ごもる。
 まあいい。家に帰りたくないと言うなら、それはそれで考えよう。とにかく、この駅は離れないといけない。「ほら」と私が肩を抱いてうながすと、刹那はうつむいて鼻をすすりながら、歩調を合わせた。
「一音、今夜は一緒にいてくれるの?」
 駅を離れて、商店街らしき通りに出た。こんな時間なので、すべてシャッターは降りているけれど。私のコートをくいっと引っ張った刹那が問うてきて、「ここから帰るタクシー代まで持ってないよ」と私は答える。
「でも、刹那は家に帰りたくないわけだよね」
「帰りたくないというか……」
「このへん、ネカフェとかってなさそうだなあ」
「一音が一緒にいてくれるなら、家には帰れるよ」
「でも、親は」
「それはいない」
「いないの?」
「いつもいない」
「………、じゃあ──刹那の家にお邪魔するしかなさそうだね」
 刹那は私の腕にしがみついて、泣き顔のくせに嬉しそうに咲った。
 ああ、えらいことになってしまった。そう思ったものの、いや、もしかして、明日の始発で帰れば何とかなるかもしれない。もちろん、仕事を休むくらいの覚悟はしてきたけども。
 刹那が向かったのは、立ち並ぶ団地の中にあるひとつの棟の一階だった。家が近づくほど、刹那は不安そうにきょろきょろする。こんな三十路女を連れこむのは近所には知られたくないよなあ、と察してマフラーで顔を半分隠しておく。部屋の鍵を開けた刹那は、「早く」と私を急いで引っ張りこんだ。
「ほんとに誰もいない?」
「いないってば。父親は顔知らないし、母親は彼氏のとこだから」
 刹那は事もなげに説明する。悪いこと確認しちゃったかな、と謝ろうとすると、「帰ってきたって永衣とわいに連絡しなきゃ」と刹那はジーンズのポケットからスマホを取り出す。
「永衣?」
「幼なじみ。同じ棟に住んでるから、すぐ来るかもしれないけど、いい?」
「私のこと変に解釈しないなら……」
「しないって。じゃあ少し通話するね。先に上がってて」
 私は廊下を見やって、やばいことしてるなあ、と思いながらも靴を脱ぐ。「お邪魔します……」と律義につぶやいてみても、気まずい罪悪感みたいなものは落ちない。
 しずしずと廊下を進むと、一番奥はリビングらしきたたみの部屋だった。テレビと、卓袱台と、座布団しかないけど。あと、ほんのかすかに、香水っぽい化粧品の香り。
 明かりがついていても、人の気配はないのを耳を澄まして確かめた。
 エアコンはあれども、ついていなくて寒い。かといって、勝手はつけたらまずいよな、とコートを着たまま卓袱台のかたわらに腰をおろした。マフラーと手ぶくろは外しておく。
 時刻は一時過ぎで、静まり返る中を、ときおり風音が切り裂く。
 明日仕事休む理由はどうしようかなあ、と思案していると、玄関のほうで物音がした。
 話し声もしてどきりと構えてしまったけど、刹那と共に現れたのは、同い年くらいの少年だった。
「この人が、話してた一音って女の人だよ。俺を助けてくれたんだ」
 かわいらしい刹那と違って、すらっと背の高いその子は、鋭い眼つきをしていた。私をじろりと眺めてくる。助けてくれた、と言われても、私は駆けつけただけだけど──
「一音、こいつが永衣ね。子供の頃から親友なんだ。優しいんだよ」
「そ、なんだ。ええと、初めまして」
「初めまして」
 ぶっきらぼうな口調だけど、生意気に愛想が悪いほどではない。
「永衣も家いたくないよね?」
「……まあ、うん」
 しれっと訊かれて、歯切れ悪くも永衣くんはそう答える。この子もわけありか。
「今夜は一音がいてくれるから、三人でいよ。そしたら安心でしょ」
 にっこりして刹那は私の隣に座りこみ、永衣くんも黙ってその正面に座った。リモコンで暖房を入れて、「あー、もう始まってる」と刹那はテレビもつけた。私もいつも観ているアニメだ。
 刹那はテレビを見つめながら、私にくっつくように軆を預けてくる。だからどうというものはなくても、これが甘えている態度なら、SNSで連絡を取らないあいだ、もやもやしてたのは私だけでもなかったのだろうか。
 アニメの時間帯が終わり、異様なテンションの通販が始まると、刹那は私にもたれるまますやすやと眠ってしまった。
「寝室とか、行かなくていいのかな」
 私が小さく言うと、「この家、ふとんがないですからね」と永衣くんもつぶやくように言った。
「ふとんないの? ベッド?」
「母親が男連れこんだふとんならあると思いますけど」
「……そっ、か。ごめん、私、そんなに刹那のこと知らなくて」
「刹那はよく一音さんのこと話してますよ」
「そうなの?」
「初めて自分を大切にしてくれた大人だって」
「あー……いや、手出ししたら犯罪というだけでね」
「それでも、大人は刹那に手を出すから」
 永衣くんを見つめた。永衣くんはうつむき、「刹那、五年生になる前くらいから売りを始めて」とゆっくり語りはじめる。
「それまでは、万引きとかだったけど……声かけてきたおっさんの言う通りにしたら、あったかいごはん食べさせてもらえたって喜んで。それから、どんどん売りで生活するようになって。SNSとかでも客集めるようになって……」
 私は刹那を見下ろした。伏せられて睫毛がより長く見える。
「その中に、やばい客がいて」
「やばい客」
「女なんですけど。二、三回刹那を買ったらしいです。それから、この家まで探り当てて押しかけてきて、ときどき小学校にも来て、自分が全部面倒見るから結婚しようとかわめいて」
「……マジか」
「学校に忍びこんでくるから、学校も対処したんですよ。担任の先生とか、すげえ真剣に刹那をかばって、その女と話し合いしようともしてくれて」
「そうなんだ」
「でも──先生、階段で転んで頭打って……」
「えっ」
「死ななかったけど。あの女がやったのは、みんな分かってました。けど、そしたら刹那が売りやってることも一緒に警察にばれるから……結局、刹那が先生に頼みこんで、先生は『急いでて脚がもつれた』って警察に言い張って」
「じゃあ、その女は捕まってないの?」
「今も刹那につきまとってます。今日も来てました。近所の人は、学校と違って見て見ぬふりで……みんな、自分の状況のほうが大変だから。俺の親もそうだし。玄関とか窓のそばを女がうろついて、何か言ってるあいだ、刹那はひとりで閉じこもってるしかない。すごく怖いけど、うるせえって顔出したら誘拐される。家を出るときも、一応俺が見てまわってからです。今日もそうして、見つかったらやばいけど、一音さん迎えにいくって出かけていって」
 苦しげに陰る永衣くんの表情を見つめたのち、刹那の寝顔を見た。「それでも、この子は売りをやめないんだね」と私がつぶやくと、「家賃も全部、刹那がはらってるようなもんだから」と永衣くんは答える。

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