茜さす月-10

縛ってつないで【2】

 息ができない。有栖を殺したいほど愛してる。だから、私の元を離れる有栖が憎い。私を癒すはずの有栖が、私をめちゃくちゃに傷つける。
 有栖はクラスメイトの女とつきあうような月並みな男ではない。もっと頭のおかしい子だ。私にべったりつけた染みは何だったの。責任を取って、一生かけて私を愛すべきでしょう?
 何で、どうして、そんなに変わってしまうの。私を押し倒せばいいだけ、まだ欲しいと言えばいい、私に穢れた足枷をつけてくれたら、私だって有栖に手枷をつけて、自由を失ったふたりだけの世界に戻れる。私にはその世界しかないのに、有栖は──
 お米を蒸らすあいだ、キッチンと冷蔵庫を見て親子丼が作れそうだと思った。親子か、と洞窟に取り残されたような気持ちで思った。
 どれくらい、帰ってきていないかな。いつもこの家には、有栖とふたりだけだ。ずいぶんと昔から。おとうさんもおかあさんも、私たちのことなんてどうでもいいのだろう。いや、もはや有栖さえ、私のことなんか何とも想っていない。
 まだ白い殻にこもるたまごと、自然解凍しようと冷凍庫から取り出した鳥肉の切り身を見つめた。親なんて、死んだのと同じだ。有栖は同じ無垢な殻の中にいてくれると思った。でも有栖も孵化して、羽ばたいて、親と同じように私を離れた場所で死ぬ。
 じゃあ、私も死んだほうがいいのかもしれない。生きていて、何なの。有栖を見失っても生きていて、何だっていうの。生きていたくない。家族はみんな死んだ。ばらばらになって死んだ。それでも生きていく理由なんてない。有栖の愛情がないのに息をしていたって、そんなのただの拷問だ。
「ねえさん?」
 はっとして顔を上げた。隣で有栖が突っ立つ私を見下ろしていた。茶髪の奥の瞳と瞳が重なって、私は突然泣き出しそうになってしまう。そのひずんだ湿り気に驚いた色を走らせ、それから有栖は少し困ったように咲って、不意に「ごめん」と言った。
「え……」
「俺は誰ともつきあわないよ」
「えっ」
「ねえさんを置いていかない。その女子も、適当に相手しておいて振るつもりだし」
「告白は、本当?」
「うん。だから、連れてくるのはほんとにあるかもしれないけど、何にもないから。ちょっと意地悪だった。ごめん」
 私はゆっくりまばたきをして、深く息を吐いた。有栖はまた咲って、手にしていたふくろからビスケットを一枚取り出す。そして、それを私の唇の隙間にさしこんで食べさせた。
 あんまり甘くない、素朴なビスケットの味がした。ついで、ほんの一瞬、有栖の指先が唇に触れた。その感触に胸倉を鷲掴まれるより心を引っ張られた。私はすぐ背後に、心から叫びたい悲鳴を感じ取った。
 有栖、まだ愛してる──
「俺に……彼女ができたら、寂しい?」
 私は口の中でビスケットを噛みながら、ほんのかすかにうなずいた。すると有栖は微笑んで、私の頭を撫でて、私は小さく砕けたビスケットを飲みこむ。
 おねえちゃん。
 声変わりする前の有栖の声が耳元にちらついた気がした。でも、見上げても有栖は何も言っていなくて、手もすぐに下ろしてしまって、ビスケットのふくろをピンで留めると棚にしまった。
「有栖」
 リビングに戻ろうとした有栖に、思わず声をかけてしまう。でも、振り返った有栖に、私はすくんでうつむく。
 言ってしまえばいい? 言ってしまっていい? そうしたら、私たちはあの頃のように愛しあえる? 愛してもらえる? 有栖は私を愛してる? まだ愛してくれている?
 私だけが重かったら。それでむしろ嫌われてしまったら。この気持ちがかえって有栖を遠ざけてしまったら──
 言いよどんでいるときに、リビングの有栖のスマホが鳴った。さっきと曲が違うと思ったら、「ごめん」と有栖は言い置いてスマホをつかんで電話に出た。
 私はそれを見つめて、どうせ言えなかったもの、と思った。けれど、やはりその電話の相手を憎らしく感じた。
 今、有栖は私とこの家にふたりきりなのに。この家にいるとき、私たちのことは誰も邪魔してはならないのに。
 有栖は私といるときとは明らかに違う、砕けた感じで相手と話している。私はそこにいるのが急につらくなって、炊飯器のスイッチは入れておくと、廊下を抜けて部屋に閉じこもった。
 ベッドに投げられた自分のスマホをつかんでみると、ちかちかとランプがついていた。ベッドサイドに腰かけながら、画面を起こして確認すると、萌花のメールだ。
『今起きたけど昨日の記憶がない。
 メールとか完全に無意識に返してるわ。
 静からもメール来てて、いつのまにか明日会うことになってる。
 萌香も来いよ。つか来て。
 サシで会ったら、笑顔で変な仕事紹介されそう。』
 静は萌花に会いたいだけなのに、この勘違いようだ。でも、それをほのめかしても、萌花は静を眼中に入れていないから、思い当たることもない。
 このまま私が断ったら、たぶん萌花は静に会うのも酔っていたと訂正して断るだろう。そしたら何だか静が可哀想なので、私は仕方なく何時頃に待ち合わせるのか、返事を打ちはじめた。
 それ以降、有栖とは何もなかった。お昼ごはんに柔らかい匂いの親子丼を食べながら、有栖もちょっと親の悪口をつぶやいたくらいだ。私が明日出かけると言うと、有栖も明日は友達と出かけると答えた。それでまた、私たちは完全に離れてしまったようだ。
 小雨になったとき、私は銀色に霞む中を傘をさして買い物に行った。スーパーはちょっと混んでいて、特売だとお買い得だとスピーカーがいっそううるさかった。冷やし中華の材料を買いながら、明日の献立はいらないのかと何となく胸に空洞を覚えた。
 そして夜、私と有栖は冷やし中華を一緒に食べた以外、共に過ごすこともなくそれぞれの部屋で眠った。
 日曜日も雨が降っていて、有栖は朝食を食べると早々に出かけてしまった。私は時間にゆとりがあるあいだ、棚から例のビスケットを盗んで何枚か食べた。
 誰ともつきあわない。私を置いていかない。
 本当だろうか。でも、私は似たようなことを有栖に言った。有栖に誰かできるまで家は出ていかない。まだ、多少は私たちはお互いを束縛できているのだろうか。
 有栖に彼女ができないということは、私もまた誰も作らないということだ。でも、有栖がそこまで深く考えてくれているのか分からない。私が不憫だから言ってくれているだけかもしれない。私を縛るために、有栖は恋人を作らないなんて──やっぱり、都合がいい解釈である気がする。
 お昼過ぎに萌花と駅前で落ち合って、高校の頃に毎日通った駅まで出た。静はやっぱり小説を読んで先に待っていて、声をかけた萌花に嬉しそうな顔ぐらいすればいいのに、おっとりとただ微笑む。
 私たちは近くのクラブに行って、いくつかのバンドが今夜のイベントのリハーサルをしている中で、それぞれドリンクを頼んだ。静を挟んで座ったから、「静ちゃん両手に花ねえ」とスタッフの女の人が楽しそうに笑う。
 私はカシスオレンジ、萌花は生ビール、静は烏龍茶で乾杯すると、「一応報告しとく」と静は私たちがいたチームでトップを任されることになったことを話した。「雅臣まさおみはー?」と私たちがいた頃のトップのことを萌花が訊くと、「就活するって」とまったくイメージが湧かないことを教えられて、笑ってしまった。
「静もいつかはリーマンになんのかな」
「大学出たら、コネ入社で出世するよ」
「うわー、あたしたちのこと底辺と思ってるだろ」
「そんなことはないよ。出世をサポートしてくれる華だろ?」
「よく言うな。いつまでもこんな仕事できねえよなって、萌香とも話すぜ」
「萌香さんは、ちゃんとした正社員になれそうな気がする」
「そうかしら」と私は咲って、萌花は舌打ちする。
「あたしは社会不適合者かよ。まあそうかもしんないけどさ」
「萌花さんはアフィリエイトとかで稼いだら?」
「やーめーろっ。リアルすぎるっての」
「萌花はネット中毒だから向いてるんじゃない?」
「ネットは遊びで、仕事じゃねえんだよ。仕事になったら萎える」
 萌花はごくごくとビールを飲んで、「トップ、おつまみおごって」と静の頭をくしゃくしゃにする。静はくすくす笑いつつ、まったくのポーカーフェイスで、カウンターの中のマスターにフライドポテトを注文する。
 私は昨日、有栖に頭を撫でられたのを思い出し、ぜんぜん平気でいられなかったのにと思う。
 フライドポテトはもちろん揚げたものでなく冷凍食品で、「マスター、これしなしなだぜ!」と萌花は文句を言いつつ食べる。そんな萌花を一緒に見ていたあと、静は私のほうを向いて眼鏡越しに笑んだ。
「萌花さんと萌香さんは相変わらずで楽しいや」
「やっぱり、怖がられるようになる?」
「そうだね。態度が急に変わった人は多い」
「私たちは、もうチームと関係ないもの」
「戻ってこないの?」
「そうね。戻ってもやることがないおばさんになったわ」
「綺麗だよ、ふたりとも」
「ありがとう。おかげで何とか水商売も板についてきた」
 私は甘い香りのカシスオレンジを飲んで、喉から軆にほてりを覚える。
「弟さんは元気?」
「弟? 元気よ」
「よく話してたよね」
「そうかしら」
「僕と同い年だって」
「そう、ね。考えてみれば」
「今の仕事は隠してないんだっけ」
「一応、話してるわ」
「チームにいた頃は、そういうこと全部隠してたみたいだから」
「話せないわよ、弟に」
「何で? 軽蔑される? それとも、罪悪感?」
 私は静の穏やかな視線を見つめ、ちょっと答えに迷ってしまうと、「静、そういやこないだ、うざい客がいてさ」と萌花が静の肩を揺する。「何か手まわそうか?」なんて答えながら静は萌花を見て、その瞳が私を見るときよりやっぱり優しくなることに気づく。私は頬杖をついてグラスをかたむけ、たぶん違う、と思った。
 有栖に売りをやっていたことを話せない理由は、軽蔑されるからじゃない。罪悪感を覚えるせいでもない。あまりにもうぬぼれているからだ。
 こうすれば有栖が戻ってくるかもしれないと考えていた。それを見透かされて、相手にされずに嘲笑されるのが怖かった。また有栖に振り向いてもらえるかもしれないなんて、浅はかな理由で軆を売っていた。
 お金も褒め言葉も快感もいらなかった。有栖の視線が欲しくて、飢えていて、でも結局肌を汚した白濁を見せること自体できなくて。有栖は、私に拒絶されたまま離れていった。
 汚れて。昔、有栖は私にそう言った。僕が綺麗にしたいから、もっと汚れて。あの無邪気な言葉が、いまだに私を呪っている。水商売だって、同じ理由でやっているのだ。触れられて穢れていく。私は幼かった有栖が望んだことを、成長した有栖に求めている。
 汚れる、もっと汚れる、だからそれを忘れるために、有栖、あなたに触れてほしい。姉弟という線を超える理由のために、私は自分を穢しつづける。
 有栖に抱かれたら、私は犯された傷が癒されて、醜い血も止まる。だとしたら、姉弟だなんてもうどうだっていいことだ。私たちの愛は正当化される。
 私さえ辱められたらいい。そしたら、有栖が私に触れることは、きっと神にも許される。
 有栖、あなたを誰にも渡したくない。そのためなら無数の男の手垢にまみれていい。指で、手で、舌で、何度も私に触って。
 この体温であなたを縛る。そして、その体温で私を縛ってほしいの。

第十一章へ

error: