一歩踏み出して
土曜日の午前中は慌ただしかった。
早起きした聖樹さんは、洗濯物をひとまず半分片づける。そわそわする悠紗は、聖樹さんについてまわったり、僕の服を握ったりする。僕は朝食の食器を洗ったり、洗濯の手伝いをしたりしていた。
悠紗がやってくると、僕は聖樹さんに頼まれて悠紗をリビングであやす。あんまり不安がるので、僕はXENONのアルバムを聴くのを勧めてみたりする。悠紗は僕の服を握りながらそうして、衝撃によってやや落ち着いていた。
昼食にミートソースパスタを食べると、十三時半頃、僕たちは揃って部屋を出た。僕を四人の部屋まで送ってくれるという。
悠紗は、聖樹さんのすらりとしたジーンズの脚にしがみついている。眼鏡をかけた聖樹さんは、仕方なさそうに咲い、悠紗の頭に手を置いていた。
エレベーターで十階に向かい、聖樹さんが名札のない1004号室のドアフォンを鳴らす。
が、昨日心配していた通り、不在のような空気がただよってきた。「梨羽と紫苑しかいなかったら部屋のほうがいい?」と訊かれ、僕は曖昧に咲った。もう一度ドアフォンを鳴らした聖樹さんに、「仕事するとか言ってましたよ」と僕は思い出して言う。
僕たちは顔を合わせた。そして、あきらめていったん二階に戻ろうとしたとき、突然背後でドアが開いた。
紫苑さんだった。それでじゅうぶん、要さんも葉月さんもいないのが推知できた。とりあえず聖樹さんがふたりのことを訊くと、紫苑さんは案の定かぶりを振る。
「梨羽といるの?」
かぶりを振る。
「ひとり?」
うなずく。とことんしゃべりたくないようだ。
「要と葉月は仕事?」
紫苑さんは眉を寄せて首をかたむけ、体勢を直す。
「仕事探し」
後退りそうになる。しゃべった。
聖樹さんと悠紗は普通だ。いや、それは僕のように今初めて声を聞いたというのではないだろうが。
「そっか。梨羽は」
「CD買いに」
「あ、ご褒美、か。ひとりで?」
うなずく。口にしなくていい質問には、声は使わないようだ。
でも、びっくりした。口調はひどく平坦でも、低めの落ち着いた耳あたりのいい声だった。
「大丈夫かな」
紫苑さんは首をかたむける。僕も心配になった。梨羽さんは、とてもひとりでうろうろできる人とは思えない。
「まあ、今はひとりなんだね。邪魔したら悪いかな」
紫苑さんは室内への廊下を瞥視して考え、首を横に振った。
「そう。じゃあ、どうする? 萌梨くん」
「えっ」
「紫苑といる?」
紫苑さん、と。要さんや葉月さんだったら即座にうなずけただろうし、向こうが僕を引っ張ってくれただろう。が、紫苑さんとなると──恐ろしく気まずくなりそうだ。
そろそろと紫苑さんを見た。紫苑さんはあの深く暗い瞳で僕をちらりとして、聖樹さんに目を戻す。眼鏡に眇目をされ、「ああ」と聖樹さんは言った。
「僕と悠は、用事があって出かけるんだ。そのあいだ、萌梨くんひとりにしておくのが心配で」
紫苑さんは僕を見直した。この人は、僕が聖樹さんと似たことをされていたのは知っている。ということは、聖樹さんにとって孤独が危険だという知識を僕にも応用できる。
でもなあ、と僕は思った。下手に気まずい空間にいて、強制的に閉ざされたら、かえって危ないのもありうる。
「紫苑の邪魔したくなかったらいいんだよ」
聖樹さんに言われ、僕は迷った。どうしよう。聖樹さんたちは一時間弱で帰ってくる。一時間というと、XENONのアルバムを一枚聴いていれば済む時間だ。
そうしてもいいかもしれない。僕自身、鬱に落ちこむのが嫌だし、紫苑さんに悪い印象を持たれるのも嬉しくない。部屋にいようかな、というほうに気持ちの針が振れたとき、「俺は構わないけど」と紫苑さんがぼそっと言った。
僕は顔を上げる。紫苑さんは僕を見ていた。梨羽さんにそそいでいたような目がよぎっていた。
「どうする?」と聖樹さんが言った。僕は何秒か考え、「ここにいます」と直感で決めた。「そう」と聖樹さんは腕時計を覗く。
「ごめん、じゃあ、もう行かなきゃ。よろしくね、紫苑」
紫苑さんはうなずいた。聖樹さんに歩き出すのをうながされた悠紗は、僕を仰ぐ。
僕は微笑んで、「紫苑さんがいるよ」と言った。悠紗は紫苑さんを見上げ、こくんとすると、おとなしく聖樹さんについていく。
紫苑さんと僕は、ふたりを見送った。エレベーターホールへとふたりが曲がると、紫苑さんは身を引いて無言で僕を招き入れる。僕は初めて来たみたいに恐縮して、玄関に踏みこんだ。
廊下を抜けて覗いた部屋には、確かに誰もいなかった。散らかりっぱなしの中に、要さんも葉月さんもおらず、コンポのそばも空っぽだ。煙草は染みついていても、酒気はごく軽い。
レースカーテンなんて丁寧なものはこの部屋にはなく、緩くなる陽射しがじかに射しこんでいる。その日影が欠落した部屋の光景を雑然とさせていた。ストーブが焚かれていて、室温は暖かい。
散乱するものをすげなく踏んだり蹴りやったりして、紫苑さんはいつもの奥の窓辺に行った。そこには、ギターや楽譜などの音楽に関するものが広がっている。いつものギターケースが開かれていて、空だ。
もしかして、作曲していたのだろうか。作曲はひとりのとき、あのギターでやると悠紗も話していた。ほんとに邪魔じゃなかったのかな、と内心申し訳なくなる。
突っ立つ僕を完全にさしおき、紫苑さんはギターを抱きこんだ。機材につないだりしていないので、弾き出される音はゆがんだりしない。単調に旋律を調べている。
聴いたことのない旋律だった。よくそんなの思いつけるなあと僕は耳を澄まし、立ちっぱなしも目障りかとその場に座りこむ。
こうして紡がれる紫苑さんの曲に、梨羽さんが詩をつける。これにはどんな詩をつけるんだろうな、と僕は紫苑さんを眺めた。ライヴのときもそうだったけど、瞳は冷めて暗いままだ。
紫苑さんは、ほかの三人に出逢う前からギターをしていた。ギターを離さないので、隔離教室になった。いつからそうなのだろう。僕は音楽のことはよく分からなくても、紫苑さんのギターがゆがむだけではないすごいものなのは分かる。梨羽さんの歌に見合うギターだ。
けれど、なぜギターに手を出そうと思ったのかは謎だ。どんなに才能があっても、やってみないと発揮できない。紫苑さんはどうしてギターを始めたのか。そのギターを片時も離さない理由も分からない。ギターがひとりで逃げるはずもないのに。
梨羽さんのことなら、内部はともかく歌や詩に関して要さんと葉月さんに語ってもらっている。しかし、思い起こせば、紫苑さんのことはギターに関してもいっさい伏せられている。せいぜい、ギターフェチとか“White Carnation”のことだ。
視線を感じたのか、紫苑さんは僕に一瞥くれてきた。どきっとして、でも目をそらすのも感じが悪いかと見つめ返してしまう。「何?」と紫苑さんは綺麗ではあっても起伏のない声を発した。
「えっ」
「何かある?」
僕は小首をかしげた。躊躇った挙句に、「ギター」とだけ言った。紫苑さんは怪訝そうにギターに目を落とす。
「いつから、弾いてるのかと」
口調が堅くなってしまう。紫苑さんはそんなことを気にされるのは意外そうではあっても、さして表情に現さずに「十一」と言った。
「え」
「十一で始めた」
「あ、そう、なのですか」
十一。というと、小学五年生か六年生だ。早いのだろうか。分からない。
「ギター、好きだったんですか」
「嫌い」
「あ、そう、ですか。え、じゃあ何で」
「にいさんがやってた」
「おにいさん、いるんですか」
「もういない」
「えっ」
「死んだ」
心臓がぎくりとする。死んだ。死んだ──のか。そっけない紫苑さんに反し、僕のほうが動揺にうつむいてしまう。
膝に柔らかい布が当たっている。そばに“clean”の文字がある瓶もある。
紫苑さんのおにいさんは、亡くなっている。実感がまったくなかった。当然だ。紫苑さんにおにいさんがいるなんて、今知った。母親のことしか頭になかった。
死んだ。その人がギターをしていた。そのおにいさんの死も、“家がない”のに関わっているのか。
「紫苑さん、って、いつもギターと一緒ですよね」
紫苑さんは弦を弾き、楽譜に何か書きこみながらうなずいた。
「一緒、じゃないと困るんですか」
うなずく。
「何で、ですか」
紫苑さんは僕をちらっとしても、答えはしなかった。言いたくないようだ。それなら僕も突っ込めない。紫苑さんは指を弦にすべらせている。
僕は黙って聴いていようと思ったけれど、どうしても気になって、これを訊いたら黙っていようと思った。
「あの」
紫苑さんは目をあげる。鬱陶しそうな色はなくも、本当にないのか、隠しているのか、もしくはそんな感情が湧いたりさえしないのか分からなかった。
「“White Carnation”、ってありますよね」
一番最後なのだろうか。それでも紫苑さんの瞳は、微動しなかった。
「おかあさんを、憎んでるって」
紫苑さんは僕を見つめている。どういう視線なのか分からなかった。話してもいいと見定められているのか、立ち入ってくるなという威嚇か、質問することへの軽蔑か、何も含まれていないのか。
「僕もおかあさんを憎んでる、んです。いや、紫苑さんには関係ないと思いますけど。憎んでる、というか、その気力があったら。だから、気になる、って言ったら悪いかもしれないですけど」
前後する話し方にあきれたのかどうか、紫苑さんは目を落として弦に触った。いらないことだったかなと後悔したとき、「憎んでる」と紫苑さんはつぶやく。
「えっ、あ、はい」
「母親……を」
「ま、あ。あの、僕のおかあさん、ほかの男の人と出ていっちゃったんです。そのせいでおとうさんは頭がおかしくなって、僕にいろいろしてくるようになって。それで僕、家にも帰れなくて、聖樹さんのおうちにいさせてもらってるんです」
紫苑さんは僕を見た。相変わらずこの告白をどう思われたのかは読めなかった。愚痴に使われているという拒絶感はない気がした。紫苑さんはギターに瞳をそそぎ、しばらく何も所作しなかったけれど、不意に顔を上げた。
【第八十七章へ】