風切り羽-87

憎しみの果てに

「来て」
「えっ」
「こっち」
「え、えと、いいんですか」
 僕の狼狽えた変な質問に、紫苑さんは無表情にうなずく。僕は居心地悪く身動きして躊躇い、おそるおそる立ちあがって、窓辺の紫苑さんのそばに歩み寄った。
 紫苑さんはギターをかたわらのケースの上に寝かせる。僕は自分で紫苑さんの隣にしゃがみこんだ。
 紫苑さんは何秒か僕を瞳に映すと、背中をめくるのを指示してきた。「え」とわけが分からなくて当惑する僕に、紫苑さんは服の裾をしめす。
 肌を──とりわけ男の肌を剥くことに、恐怖や嫌悪がなくもなかった。それでも、ゆっくり紫苑さんの服をめくる。そして、はっと目を開いた。
 肩胛骨の下あたり一面に、引き攣れた火傷の痕が広がっていた。
 目を背けたくても、動けなかった。だって、ひどかった。肌色と呼べない茶色がかった肌は、無感覚なのではと思わせそうに引き攣れている。健康な肌との境目を見ると、その差異が一段とくっきりした。大人の男の背中、その面積の三分の一以上がそんな火傷にさらされている。
 何で。どういうこと。
 息を飲むまままごついて停止していると、紫苑さんは自分で服を戻した。
 僕は腕をのろのろとおろし、床に座りこんだ。紫苑さんは僕を一瞥する。その瞳は何も変わっていない。もうそれがすねているのではなく、感情というものがすりきれてしまったせいなのは分かった。
 紫苑さんは座り直し、ギターに触れる。
「俺は子供の頃、親に虐待されてた」
 心臓が大きく脈打った。紫苑さんの顔は、こわばりも弛緩もしていないのになぜか動かない。その顔を僕は見つめる。
「性的なことはなくても、殴ったり蹴ったりが当たり前だった。両親は仲が悪かった。俺たちを虐待してないときは、あのふたりは喧嘩してるか寝てるか、稀になぜかやってるかだった」
 俺たち、というのが引っかかった。おにいさんかな、と思った。僕は嫌な予断をしてしまう。まさか、おにいさんは虐待のすえに死んでしまったとか──。
「父親のほうが、むごさも体力的にもひどかった。仕事は日雇いとかで、それもほとんど酒に消えてた。俺はろくに学校に行かせてもらえなかったし、食事も三日ぐらいないのがざらだった。寝たら殺されるのが分かってたから、眠れなかった。それで頭がぐらぐらになってるときにも、父親は容赦なかった。父親が俺たちを殴った理由は分からない。でも、父親も自分の父親にそういうことされてたのは知ってる。父親の肩は踏まれすぎて壊れてて、よく神経痛になってた。その痛みが起こったときは絶対殴ってきたし、しかもそのときが一番ひどかった。この背中のときもそうだった。痛みがすごくて軆が言うこと聞かなくて、だから物に頼った。俺はここのつだった。ほんとはポットに入れるはずだったやかんの熱湯を、ぶちまけられた」
 ぎこちなく視線を落とし、陽があたっているジーンズの膝を抱えた。
 紫苑さんの無表情を見ているのがつらかった。話しながら泣けるだけ、僕はマシなのだろうか。そんなふうにも思いそうに、紫苑さんは淡々としている。
「母親が引っぱたいてくるのも、子供の俺にはすごかった。淫乱で、しょっちゅう浮気してた。捨てられるたびに平然と帰ってきて、父親と喧嘩しては俺たちにやつあたりした。父親がいないときに恋人を連れてきて、二桁にもなってない俺たちの目の前でしてた。一度、生理中に母親が愛人とさんざんやって、その片づけをさせられたことがある。血が沼みたいになって、その臭いは今でも覚えてる。腐ったみたいな、それに精液の臭いも混じって、俺が軆に流す血とは違うものの気がした。隣で母親は男のものを脚のあいだにくわえたまま眠ってた。そういうことも精神的な虐待だったのかもしれない。別に、君とか聖樹みたいに、自分に何かされたんじゃないけど──」
 紫苑さんをちらりとした。紫苑さんも僕にそうした。
「それのせいで、俺もセックスとかが嫌いにはなってる」
 こくんとした。分からなくもない。直接犯されないと性は踏み躙られない、なんてことはない。
 僕だって、肉体的なことばかりで痛めつけられたわけではない。むしろ精神的な刃物もあったからこそ、こんなに深層までえぐられている。
「あの曲は、おかあさんひとりにあてた曲なんですか」
 紫苑さんはうなずいた。
「おとうさんはよかったんですか」
 紫苑さんは静かな視線を暖かい室内にやり、ギターに触れさせていた手を離した。
「俺にはにいさんがいた」
「えっ。あ、はい」
「両親がしてきたことはひどかったと思う。熱湯かけられたときなんか、死んでもおかしくなかった。子供の頃も床にたたき落とされたりしてた。何で死ななかったのかって思うけど、たぶんそれはにいさんが俺をかばってたから」
「……かばう」
 紫苑さんはかすかにうなずき、ギターに目をやる。
「にいさんがいたから、俺は死ななかった。俺よりみっつ上で、同じように殴られたりしてた。俺をかばったり、向こう見ずに言い返して俺の代わりに殴られたりもしてた。この熱湯のときも、にいさんがすぐ救急車を呼んだんだ。もちろん、父親は間違えて引っくり返したって言って、病院もそれを信じたけど。俺はにいさんを信頼してたと思う。にいさんが頼りだった。自分のこと分かってくれるのも、守ってくれるのも、そばにいてくれるのも、にいさんしかいないと思ってた」
 死んじゃったんだよなあ、と抱えた膝に顎をあてる。やっぱり、虐待の末に亡くなったのか。
「でも、にいさんには、俺は弟ってだけで守らなきゃいけない重荷だった」
 予想外の展開に紫苑さんを向く。紫苑さんは無表情だ。
 重荷。おにいさんも、そうして頼ってくる紫苑さんをかわいがっていたのではないのか。
「俺は、そんなのずっと分からなかった。両親にされてることでいっぱいで、にいさんを疑う余裕がなかった。ほとんど盲目的に信じてた。にいさんは俺のことなんか考えてなかった。自分のことしか。どうやってこの地獄から逃げ出すか。にいさんは十三のときにそうした。あの家を逃げ出した。俺を置いて、ひとりで」
 息を詰めた。
 紫苑さんを置いて、ひとりで逃げた──。両親の虐待以上に、紫苑さんにはその裏切りがショックだったと伝わってくる。表情もないし、声も平坦なのだけど、そんな深い麻痺を呼んだほどだとすれば。
「にいさんが俺を置いていった理由はふたつあると思う。ひとつは単に俺が荷物だったから。もうひとつは、手元にぬいぐるみを置いておくことで、自分を捜そうと両親に思わせないため」
 無音に散らかる情景を見やる。
 何か、嫌だ。そのおにいさんが臆病であればあるほど、卑しい後者が強いとなる。紫苑さんは、おにいさんの身代わりの道具にさせられたのだ。
「にいさんがいなくなったあとは、ほとんど記憶にない。毎日が真っ暗すぎて、わけが分からなかった。俺はにいさんのぶんの虐待も受けるようになった。今殴られてるのか殴られてないのか、軆がずきずきして頭はふらふらしてて、そんなのも分からなくなった。死んでもよくても、あっさり死ぬのは癪だった。にいさんだけは許せなかった。道連れにしないと気が済まなかった。だから俺は、父親の目を盗んで家を出ては、にいさんの居場所を探すようになった」
 おにいさんが出ていったのが十三歳ということは、そのとき紫苑さんは十歳だ。だんぜん子供だ。本来、自分でいろいろ行動できる歳ではない。だけれど、そうして始動したということは、それよりおにいさんへの憎しみが勝ったということか。
「にいさんは、なかなか見つからなかった。もうその町にいなかったんだ。当たり前だけど。でも俺は見つけた。たまに行ってた学校でのにいさんの友達が、にいさんの連絡先を知ってた。にいさんは、その連絡先を家族には絶対教えるなって言ってた。俺は家から盗んできた金でその住所を買った。それで、その住所を父親に密告した」
 逃げて野垂れ死んだ、のでもないのか。じゃあ、おにいさんが死んだというのは何だろう。
 紫苑さんの暗い瞳は何も読ませない。いや、しかし、父親に密告したということは──
「勝算があったわけじゃない。それがどうしたって言われるかとも思った。でも、父親はにいさんが逃げたのをバカにされたと思ってたから、俺の挑発に乗った。俺は初めて、その手に殴られるんじゃなく頭を撫でられた。父親は俺を連れてにいさんのところに行った。俺と父親を見て、にいさんの顔はおかしいぐらいに引き攣った。のんきな部屋の状態が、父親の気に障った。ギターとかポルノ雑誌とか、コンドームまであった。父親はにいさんを殴り出した。俺は何にも分かってないふりでキッチンに行って、食べ物をあさった。ジャンクフードばっかりだった。その中でわざと、でもさりげなく包丁を向こうに放った。ちゃんと父親の目に入った。父親はそれを手に取ってにいさんを刺した。それでにいさんは死んだ」
 不穏な搏動が、筋肉を引き攣らせる。
 とっさにどう思えばいいのか分からなかった。それはつまり、父親を媒介にしておにいさんを殺した、ということになるのか。
 紫苑さんはいっとき黙っていたけれど、棒読みのような口調で話を続行する。
「俺の父親は今も刑務所にいる。俺に煽動されたってわめいても、俺のぼろぼろの軆にそんなの誰も信じなかった。俺は何も言い訳しなかった。黙ってればよかった。ただ父親が牢屋にぶちこまれて刑が重くなってほしくて、黙ってたら全部父親になすりつけられた。母親が残ってたけど、母親は俺を引き取るのを拒否した。俺を殴ってたのは父親に強制されたからだって嘘ついて、しかも、それでも虐待したのは確かだから面倒見る自信がないって、愛情からの罪滅ぼしみたいな演技で。ほんとは俺が邪魔なだけだった。俺はここの近くに住んでる、会ったこともない親戚に引き取られることになった。施設に親戚が迎えに来る前の日、母親が面会に来た。ふたりきりになった。母親はあの生理の血みたいな口紅を塗ってた。『ずいぶんうまくやったじゃない』って母親は軽蔑した目で言った」
 ジーンズの布地に視線を落とした。
 おかあさんは、紫苑さんの仕事を見抜いたのか。

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