風切り羽-90

呼び出し

 室内に射しこむ光に影も落ちてきた頃、玄関で物音がした。紫苑さんも僕も顔を上げると、「誰か靴買ったっけ」と声がした。たぶん、葉月さんの声だ。
「それ、萌梨のじゃないか」
 要さんだ。一緒に仕事探しに行ったのか。いや、帰り道で逢ったとか。
「えっ。あ、あー。え、萌梨来てんの。じゃ、こいつよろしく」
「おいこら、」
 廊下を駆け抜ける足音が近づいてきて、葉月さんがすがたを現わした。そして僕のいる場所を認め、芝居がかって一歩後退る。
「な、何。何で紫苑といるんだ」
「え、と、いろいろと」
「いろいろって何。たぶらかされたんではあるまいな。そいつはギターフェチだぞ」
「葉月」と向こうで要さんの強い声がした。「何」と葉月さんが振り返ると、「手伝え」と返ってきた。何かあるのだろうか。
「えー。あのさ、どうでもいいんだけど、」
「どうでもいいならいらん。あー、ほら、泣くな。家だぜ。誰もいないって」
「萌梨いるよ」
「萌梨ならいいだろ。な、よし。ほら葉月」
「だから、紫苑連れていけって言ったのに」
 ごちゃごちゃ言いつつ、葉月さんは玄関に戻っていった。何だろ、と僕は首をかたむけ、紫苑さんはギターを抱え直す。
 ギターフェチ、というのにも紫苑さんは動じていない。これはどちらかといえば、硬くなった心のせいではなく、そう言われるのを許しているせいなのだろう。
 向こうの話し声にも構わず作曲に没頭したのち、紫苑さんはいったんギターを置いて書きこんでいたノートを膝に広げた。イメージはかたまったようだ。すごいよなあ、と感心していると、物音がリビングに近づいてくる。
 要さんと葉月さん、それに梨羽さんがいた。梨羽さんは泣いていた。要さんにほぼ抱えられているかたちで、リュックを抱きしめてしゃくりあげている。ヘッドホンも外れている。
 ひとりで出かけて大丈夫──ではなかったのか。梨羽さんを引っ張る要さんも、僕の位置には面食らった。
「えー、萌梨、だよな」
「あ、はい」
「隣に誰がいるか分かってるか」
「はあ」
「君、どうでもいいって言ったじゃん」
 葉月さんは梨羽さんの背中を押している。
「どうでもよくないぜ、あれは」
「やだねえ、男の嫉妬って。梨羽ちゃん、ほら、買ったCDでもお聴き」
「嫉妬って何だよ」
「嫉妬じゃん」
「俺はお前とは違うぜ」
「何ですか、それは」
 梨羽さんが要さんの腕の中を身悶え、ふたりははたと変な喧嘩を中止した。梨羽さんは要さんの腕を逃げ出して、コンポのそばである隅っこにしゃがみこんでうずくまった。
「誰かに絡まれたんかな」
「抱きつかれたのかもしれないぜ」
「ひゃー、痴漢」
「シンパ」
「あのへん、シンパいるかなあ。人混みにめまいがしたんじゃない」
「偶然他人と目が合ったとか。まあいいや。お前、毛布取ってこいよ」
「はいよ。どこある? あ、萌梨、その迷彩柄取ってきて」
「お前行けよ」
「いいじゃん」
 僕は立ち上がり、紫苑さんの向こうのクローゼットのそばにあった、梨羽さんの毛布を取った。起毛生地で柔らかい。
 持っていくと、「サンキュ」と要さんが受けとって梨羽さんに優しく被せる。「梨羽相手だと要はホモだね」と葉月さんは言って、要さんの睥睨を食らっていた。梨羽さんはもそもそと毛布の中に閉じこもった。ホモと言われつつも、要さんはCDをかけて梨羽さんにヘッドホンを渡してあげている。
「梨羽さん──」
「俺と要が面接に行ってるあいだ、駅前の百貨店のでかいCDショップに置いといたんだよ。あいつがそれでいいとも言ったし。迎えにいったときは無表情でも、車に戻った途端、泣き出した。あいつなりに人前では耐えてたんだな」
「何かあったんでしょうか」
「さあ。すれちがって服があたったのかもしれんな。梨羽って変なとこにムカつくんだよ」
 要さんに肩をとんとんとされても、梨羽さんは震えている。
「で、萌梨はひとりなの」
「あ、はい」
「紫苑に何かされなかったか」
「……何かって」
「睨まれるとか。無視されるとか。拒否されるとか」
「お話してただけです」
「あいつ、滅多にしゃべらないんだけど」
「おうちとか、ギターのこととか」
 葉月さんはぎょっと目を開いた。ついでノートに書きこみをする紫苑さんに目を移し、すぐに僕を見直す。
「マジ? 話したの?」
「まあ」
「そうなのか。あらまあ。すごいじゃないですか。成長したわー。おにいさん嬉しい」
 涙をぬぐう仕種はふざけていても、やっぱり紫苑さんが告白するのはすごいんだな、と再認識する。ギターを弾く紫苑さんを見やると、「過激でしょ」と葉月さんはにやっとする。
「まあ、はい」
「俺、聞いたときヒイたもん。聖樹のは笑ったけど──って、あ、言っちゃった。ごめん、俺笑ったんです」
「……知ってます」
「あ、そお。ごめんね。反省はしてる。紫苑のには笑えなかったな。きてるし。そういう親ってほんとにいるんだよなあ。俺、そんなんされたらグレるわ」
「お前グレてただろ」
 梨羽さんの肩をぽんとして、かがめた腰を伸ばした要さんが割って入る。
「俺は普通の子だったぞ」
「どこがだよ」
「えー、普通だよ。グレるっつーと、もっとこう、あるじゃん。世をすねるっつうの。俺は人生の楽しくするために壊したのであって、どちらかといえば前向きな──」
「あー、はいはい。でも、そっか。話したのか。俺たちと聖樹以来、初めてじゃないか」
「そうなんですか」
「何年か前に引っかきまわしてきた奴もいたか。ま、あいつが自分で語ったのは」
「悠紗は」
「世の中には、それを知っていい時期と悪い時期がある」
 然りだった。煙草を取り出す葉月さんが、「そういや悠は」と部屋を見まわす。
「今日土曜だよな。聖樹は家事か。休日出勤?」
「いえ、ふたりで出かけて、それで僕はここに来たんです」
「まあ、萌梨を置いて。可哀想に」
 葉月さんは僕の頭を撫で、「あんまりほっとくならもらっちゃお」とにんまりとする。要さんは葉月さんを小突き、「買い物か何か」と訊いてくる。
「保育園です」
「保育園」
「悠紗の。昨日夜に電話があって、ずっと休んでることで先生とお話しすることになったって」
「呼び出しですよ」と煙を吐いて葉月さんは笑う。
「いいねえ。悠だねえ。このまま邪道を突っ走れ。うーん、あいつが俺たちに追いつく日も近いね」
「話って、来いっつっても悠は行かないだろ。萌梨もいるし」
「向こうは説得するつもりだと思いますけど、聖樹さんと悠紗は保育園を辞めるって言いにいくみたいです。聖樹さんが、辞めるんだったら自分で保育園が嫌だって言いなさいって」
「ほう。いいじゃないか」
「俺も聖樹みたいな父親がいい」
「お前らタメだろ」
「そうだっけ。そうか。ははは」
 笑った葉月さんは、散らかった部屋の中央あたりに腰をおろした。紫苑さんは作曲に集中しているし、僕も邪魔せずに葉月さんのそばに座る。梨羽さんの状態を見た要さんもやってきて、「しかし」と葉月さんはあぐらの膝に肘をついた。
「呼び出しといえば、俺もされたなあ」
「あー、俺も」
「行った?」
「すっぽかした」
「俺は利用した。痛快なのがあったな。そう、要憶えてる? 山江やまえって理科教師いたじゃん」
「ヤマ──あー、あの講釈垂れ。俺もあいつに呼び出されたことあるぜ。あいつ、イジメについて論ずるの好きだったし。俺のことさんざん軽蔑してた。俺、あいついまだに嫌い」
「弱い者イジメする奴ほど弱い、とかな。うざいんだよね。だからそういう性質を利用して、一計案じてやったの」
「マジか」と要さんは長い脚を伸ばす。
「どんなの」
「えっとねー、呼び出しされてた理科室で、イジメやらせてたんだよ。もちろん嘘っぱちの。鍵は俺が入れるように最初から開いてたんだ。奴は勇んで入っていって止めるだろ。イジメっこは偽善野郎と反抗する。奴は切れて、傷つけられる気持ちが分からんのか、とイジメっこ引っぱたく。そこで待機していた俺が『失礼しまーす』とやってきて、突如イジメられっこが先生が友達を殴ったと訴える」
「えげつなーっ」
 要さんはげらげらとして愉しげだ。本当にその先生が嫌いだったらしい。僕は閉口している。

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