新しい旋律
「しかもイジメっこは気づくと迫真の涙。当然俺は、事情を知らないで見たままを信じこんだ演技。正義を振りかざした爽快な顔が狼狽えてくのおもしろかったなあ。結局、半泣きで言い訳と口止めされておしまい」
「嘘つけ。しゃべっただろ」
「あれ、何で知ってんの」
「あいつ、妙に半端な時期に飛ばされたし」
「まね」と葉月さんは得意そうに笑う。
「次の日の朝、イジメっこの痣が消える前に別の先公のとこ行ったんだ。忘れ物したから探してただけなのに、忍びこんだって決めつけられて殴られた、と。きちんと靴箱の落とし物箱にイジメられっこの筆箱も入れておきましたね。あーら、もう理科室にはなかったのね、とオチまでつけちゃった」
「抜け目ないな」
「なあ。で、さよならー。まさか辞めさせられるとまでは思わなかったよ。俺はあいつが嫌いなんで、揶揄っただけだし。学校って、保身好きだから」
葉月さんの皮肉に嗤い、煙草をふかす。僕は息をつきたくなる。相変わらず悪知恵だ。
「俺、あいつに解雇にかなり喜んだ記憶が。お前の仕業だったか」
「仕業だったのです。公表はされなかったよな。俺も口外しないようにきつく言われたもん。俺に学校の弱み握られたの、向こう苦しげだったなあ」
「お前の計略って分かってたんじゃないか」
「たぶんね。でもすでに時遅し。十三のガキの猿知恵にハマった向こうが悪いのさ」
「猿知恵ね」と要さんも煙草に火をつける。
「山江って、イジメには燃えるくせに聖樹のことにはヒイたんだよな」
「えー。あ、そっか。萌梨、知ってる?」
「え、いえ」
「その先公、聖樹の担任でもあったんだけどさ。放課後の教室で聖樹がクラスメイトの野郎に下着おろされてるとこに鉢合わせて、笑って済ましたんだよ」
息を止める。胸元が黒くざわついた。
笑って、済ます。その軽蔑には僕にもある。最悪はあの写真のときだ。
聖樹さんのそのときの気持ちを思うと、可哀想かも、という先生への同情が消えた。
「最低なのは次の日で、聖樹にお決まりの呼びだしをやって、何て言ったと思う? 風紀が乱れるからホモだってことは隠すように、とか嫌悪感たっぷりに言ってきたんだよなあ、おい。ってごめん聖樹、勝手にしゃべっちゃったよ。あとで謝ろ。怒るかな。へこむかな」
「萌梨ならいいだろ」
「っかなあ。でも謝ろ。ま、あの先公はそういう奴だったんだよ。みんなが分かることしか分からない。聖樹がショックで立ちすくんだって何も感知しなかったらしいし。俺以下だよ。嫌だねえ。退治して正解」
思わず僕がうなずくと、「よしよし」と葉月さんは僕の肩をたたく。
「梨羽と紫苑は、山江には会ってないか。もしいたら、枠にはまれって呼び出されてただろうな。あいつが飛ばされたとき、二匹は小学生だった」
「小学校は、みんなちゃんと行ってたんですか」
「紫苑は行ってないよな。──な」
要さんに顔を向けられ、いつのまにかギターをしまいにかかっている紫苑さんはちらりとしてうなずく。確かに、こちらに来て六年分を一年半で詰めこまれたと言っていた。
「梨羽は行ってたんじゃないか。登校拒否期間を織り混ぜつつ。俺は普通。誰にもいらついてなかったんで」
「俺は優等生だったよ。成績もよかったしい。で、中坊になって、点数取るためだけの勉強が虚しくて切れちゃったのね」
「保育園で親同伴の呼び出しを食らう悠は、小学校も行かねえんだろうな」
「俺たち以上になるぞ」
「末恐ろしいな」
「同じく」
煙草をふかしてうなずきあっているところに、ギターを背負った紫苑さんがやってきた。ふたりが顔を上げると、紫苑さんは書きこみをしていたノートをさしだしてくる。
「曲作ったのか」と要さんがノートを受け取ると紫苑さんはうなずいた。しゃべらないのに戻っちゃったなと思った。
「昨日も知らん曲弾いてたな。今度デモ録るか」
「梨羽の詩どんなのかな」
「曲によるだろ」
要さんはノートを開き、書きこみがある最後のページを開く。葉月さんも覗きこんだ。
要さんが音符をたどって旋律をハミングで転がし、葉月さんがそれを聴く。さっき紫苑さんが弾いていた曲だ。よく楽譜で曲がつかめるなあ、と僕は素人の感心をする。
「けっこうおとなしくない?」
「だな。詩もきついより暗そう」
「アフターケアが難儀ですわ」
新曲にあれこれ言うふたりには黙し、紫苑さんは窓辺に戻らず、梨羽さんのそばに行った。毛布に包まって震えていた梨羽さんは、気配を感じたのかこわごわ顔を覗かせる。
紫苑さんは見つめ返し、梨羽さんの隣に腰をおろした。梨羽さんはしばらく紫苑さんを見つめ、そののち放っていたリュックを取って包装のかかった新しいアルバムを何枚も床に積み重ねた。
紫苑さんはそれを手に取り、丁寧に包装を剥がしてあげている。梨羽さんも自分でそうする。
ノリはまったく違っても、要さんと葉月さんのように、あのふたりには個人的なつながりがあるようだ。紫苑さんはああして梨羽さんに心遣いをしているし、梨羽さんも紫苑さんにもたれている。要さんや葉月さんにもそうであっても、紫苑さんにもたれるときはもうちょっと精神的だ。
梨羽さんは、紫苑さんのおかあさんへの曲が、ほかの曲と違うのもすぐ察知した。そして、紫苑さんの心を重んじて、詩で濁さずに“White Carnation”という迂曲したタイトルだけつけた。紫苑さんはそのタイトルの深長さも表現も気にいっている。梨羽さんと紫苑さんには、傷口で共鳴しあっているところがあるのかもしれない。
紫苑さんの陰った傷口については、僕の中では透徹になった。虐待。裏切り。憎悪。ギターへの執着も剥き出しの拒絶感も、“White Carnation”のことも分かった。
聖樹さんにはああ言われても、僕は話してもらえる期待をしていなかった。だからびっくりしたし、内容は衝撃的だった。
でも、要さんや葉月さんへと一緒だ。僕は紫苑さんが話そうと心を開いてくれたのを真っ先に見る。要さんや葉月さんには、受け入れられる、と思った。紫苑さんには、嬉しい、と思う。紫苑さんに許されているのか無視されてるのか判然としなかったぶん、そう感じる。
梨羽さんはどうかなあ、と思った。紫苑さんよりは僕を受けつけてくれているようにも感じるし、どうでもいいと思われている感もある。聖樹さんは梨羽さんも僕を許しているとは言ったものの、紫苑さん同様、判然としない。
転がる時計の針は、十五時半になろうとしている。そろそろ聖樹さんたちも帰ってくる。
梨羽さんと紫苑さんはCDのブックレットを広げ、要さんと葉月さんは新曲の自分の担当へのアレンジを行なう。
僕は迎えのドアフォンが鳴るまで、“White Carnation”や自分のおかあさんにやりきれない疼痛を覚え、穏やかな旋律におとなしく耳を澄ましていた。
【第九十二章へ】