裏庭
「高いとこ行こう」と悠紗が言い出したとき、朝食の食器を洗っていた僕も、そういえばしばらく屋上に行っていないのに気づいた。四人が来て以来、みんなといるのを選んでいた。
今日は四人のところに行く予定はなかった。要さんと葉月さんは仕事探しか、すでに仕事を始めているかだし、梨羽さんは買ったCDを聴き、紫苑さんはあの新しい曲を濃やかにする作業をしていそうだ。何よりもともと、まだみんな寝ている。
少し気分転換をしたかった僕は、見つめてくる悠紗にうなずいた。食器を片づけると、悠紗と共に鈴城家を留守にする。
今日は天気がよかった。少なめの雲に青空も覗いて、冷気は陽光にやんわり制されている。
とはいえ、当然肌寒さはあって、悠紗も僕も上着を羽織っている。寒くなってくなあと憂鬱になった。僕には冬用の暖かい服がない。あの一万円も使いきってしまった。
どうしよう。重ね着だろうか。聖樹さんが貸してくれたりするかなと思わないことはなくても、サイズが違うし、さすがに甘えすぎで申し訳ない。
サイズには目をつぶり、聖樹さんがいらなくなった服でももらったらいいだろうか。それとも、どうせ真冬になる頃にはここにいないか──。
思考が陰鬱に堕ちかけ、慌てて押しやって、金網に駆け寄る悠紗を追いかける。
悪い夢を見たせいだ。小学校のときの夢だった。
六年生だった。小学生には受験生なんてほとんどいない。運動会は晩夏だった。
おかあさんはもういない。おとうさんは仕事で来なかった。
金網を登った悠紗に、「のぼりすぎたらダメだよ」と保護者じみた注意をしておく。悠紗はこくんとして、首をそらせて天を仰ぐ。僕は金網に触れ、少し濡れているのに気がつく。
夕べは小雨が降っていた。僕はまくらに顔を埋め、嗚咽の中でそれを聴いていた。
「すべらない?」と悠紗に問うと、「平気だよ」と返ってくる。でも心配で、いざというときのために悠紗のそばに立った。
向こうのマンションでは、洗濯物を干している人が何人かいる。それをぼうっと眺めるうちに、視界が昨夜の悪夢を揺り返す。
運動会では、観客としてやってきた家族の昼食を食べる。僕はおとうさんもおかあさんも、代わりの人もいなかった。そうした生徒は僕だけではなく、そういう子は学校が配給する弁当をもらえる。僕はおかあさんが出ていって以来、これだ。幕の内で、毎年内容は変わらない。
食べるところは自由だ。友達の家族に混じってもいいし、設置されている連絡本部の隣のテントで食べてもいい。僕には友達がいなかったし、狭い場所に他人とすしづめになるのも嫌だった。家族で楽しそうにしている人たちを見ているのもつらかった。
その夏、僕はおとうさんに犯されたばかりだった。夏休み中も何度かのしかかられ、絶望的な鳥肌に寄生されていた。
明るい家族を見ていたくなかった。弁当を抱え、幸せそうな人たちの中をふらついていく。笑い声やふざけあう声が、頭にがんがんする。
にぎやかな人混みを抜けて、北側の裏庭にたどりついた。じめついたそこに人はいなくて、ただ自転車やオートバイの駐輪場になっている。
ここなら誰も来ない。僕は花壇の土をはらってそこに腰かけ、ひとりでぼんやりと昼食を食べた。
おとうさんのことを考えていた。何で、僕はあんなことをされなきゃいけないんだろう。おとうさんは僕をシーツに押しつけ、おかあさんの名前を言う。だから僕は、おとうさんが見ているのは、僕ではなくおかあさんだと知っている。
おとうさんは、おかあさんを忘れたのだと思っていた。違ったのか。息子の僕に重ねられるほど、妄執しつづけていたのか。おとうさんが、そこまでおかあさんに本気だったとも思わなかった。
外でされる女の子やおもちゃあつかいも耐えがたくも、狂った妄想の道具にされるのも屈辱だった。僕はあのとき、僕という存在を、人権を、男である事実を蹂躙されている。
最中は頭が真っ白になって、ろくな知覚はできない。終わって、おとうさんが隣で満足そうないびきをかいて眠り、茫然と天井を見つめるとき、光景が断片的によみがえる。
僕はこれまで、明確に女の代わりにされたことは、かろうじてなかったのだ。家の外でも肛門を膣代わりにされるようになるのは、中学生になったあとだ。それだけに、おとうさんが僕にしたことは、今までを超越したショックだった。おとうさんは、僕に挿入することしか考えていなかった。
追いかけられたり、抑えつけられたりしたとき、抵抗しなきゃと思う。でも、思うことしかできない。死ぬ直前のあがきみたいに心臓が暴れ、息苦しさに喉が引き攣れ、悲鳴は吐き気が飲みこむ。
服を剥ぎ取られると、家族に思春期の全裸を見られる異様な恥辱感に脳がゆだり、機能停止状態になる。汚臭がする股間に頭を押しつけられ、「しゃぶれ」と言われて泣くことしかできない。
うなじにかかる酒の臭いに、こめかみがゆがむ。べったりまといつく肌には、死んだほうがマシな猛烈な嫌悪感を覚える。そして、あの下腹部をえぐる鈍痛と圧迫感、言いようのないうめき、体内に放出される僕を作り出した白濁の膿──
頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられなくて、ときどき、かえって一種の静寂さえちらつく。
悪夢が過ぎたあとの虚脱感は、名状できるものではない。何というか、真っ白なのだ。でも、真っ暗なのだ。信じられない。信じたくない。激痛に腰が麻痺しているあいだ、僕は灰になって脳内を失明させている。
この人と自分は、父親と息子だ。その事実に気づくと、持ちこたえられない衝撃と嫌悪が破裂する。
何をやっていたのだろう。そう思う。本当に、何をやっていたのだろう。この人と僕は、何をしていたのか。
男同士で。親子で。父親と息子で。いったい何を──
痛みが痺れを破くと、ようやく泣けてきて、ベッドを降り、ふらつきながら、ときには這いずりながら、寝室を出ていく。バスルームに行き、泣いたり嘔吐したり、自殺の真似事をしたりする。絶望感がたまらなかった。
立ち上がろうとしてふらつき、鏡にぶつかったことがある。曇りが溶けて、僕の顔が映った。僕は死人の顔を見たことはない。でも、僕の顔は死んでいた。精神的な死が表出していた。
今だったら、生身で切断されても痛くないかもしれない。そう思って、カミソリで手首を傷つけた。痛かった。血がどくんとあふれるたび、切断された血管が痛んだ。
僕は裏切られた気持ちになって、また泣き出し、傷口には絆創膏だけ貼って部屋のベッドにうずくまった。
──僕は、幕の内弁当から食べ物を口に運ぶ作業を止め、左手首を見た。何も残っていない。目をこらしたら、していなくもない茶色の変色がある。結局、僕の勇気なんてこんなものだ。消えた手首の傷はそれを物語っていて、僕をうなだれさせる。
ひとりぼっちの昼食は続いた。
向こうで放送が聞こえた。昼休みの放送だ。二十分間だったと思う。もう昼食を食べた場所に留まらず、友達とおやつを交換したり、遊具で遊んだりしていい。
五分前にはまた集合の放送がかかる。そのときに帰ればいいだろう。高学年の僕は、委員があったけど、昼休みに仕事はなかった。午後の部が始まるまでここにいられるなら、そうしようと僕は箸でごはんをすくった。
僕はいろんな人に嫌なことをされてきたけど、近頃、同級生まで変な目でこちらを見るから、ますます畏縮している。
実際に悪戯されたこともある。先日の休みの日、買い物帰りのところをつかまえられ、公園のトイレに連れこまれて、成長過程の性器を舐めさせられた。学校のトイレで、いきなり抱きしめられて股間をこすりつけられたりもする。
みんな、男だった。何で僕でそういうことを試そうと思うのか分からない。みんな、女の子にいずれやるようなことを僕で試した。
ショックより、衝撃的なこともあった。初夏の修学旅行では、性器をくわえさせられてボールペンで肛門をこじあけられた。五年生のときには、更衣室で着替えているところを急に抑えつけられ、クラスメイトの男全員の前で下着をおろされた。
みんな笑っていた。僕はそのとき、自分がされていることを笑える人がいるのだと知った。
しなければいい回想を自虐的に垂れ流して塞ぎこんでいると、不意に声がかかってびくっとした。
顔をあげると、影がかかった。体操服の名札の色が同じ、同級生たちがいた。
クラスメイトではない男子が、三人いた。
「何してんの?」
「昼飯か、それ」
「何でこんなとこで食ってんの。親は?」
「それもらう奴って、親来てない奴じゃない?」
「ふうん。六年だな。何組?」
「俺知ってる。三組の朝香だろ」
「ああ、あの──」
その“あの”がどういう意味だったのか、僕には分からない。人とずれた暗い奴ということだったのか、母親が男と逃げた片親の奴ということだったのか、もしかすると、僕がクラスメイトに性的なおもちゃにされていることを知っていたのか。
三人は、対象年齢が高そうなアイドル雑誌を取り出すと、お菓子片手にそれを眺めはじめた。とまどいにかまけて、僕はそれをぼうっと見ていたけど、はっとしたのと同時に慌てた。
何しろ、同級生も油断ならなくなってきているのだ。危ないかもしれない。そう感知した途端、あたふたと食べかけの弁当を片づけて逃げ出そうとした。
ひとりが振り返り、立ち上がって僕の左手首をつかんだ。別に、切った傷口が痛んだわけではない。あんなの、もう傷痕でもない。なのに、その手を振りはらう力を手首にこめられなかった。
「誰かに言う?」
「えっ。あ、い、言わない。言わない、から」
その人は僕を観察し、口元に笑みを浮かべた。その後ろでは、ほかのふたりも僕をかえりみてきた。
泣きそうになった。そんな反応こそ、こいつは服従させられる、と確信させる要因なのだけど、こういうときにそんな計算をする余裕はない。
「離して」とからからの喉で言おうとした。が、言う前に手を引っ張られた。
また、僕は使われた。下肢に挿入こそされなくても、スナック菓子が詰まった口づけをされて、北側のじめつく泥にひざまずかされた。
運動会当日は、夏服の体操服を着るよう指定されている。短パンの股間に、膨張はいやに誇示された。知らないおじさん、今頃高校生ぐらいになっている上級生がよぎる。同級生も、あの機能を脚のあいだに持ちはじめたのだ。
僕はそのほてった性器をしゃぶるのを命令された。かたまっていると、髪をつかまれて無理にそうさせられた。
早かった。僕は喉元に射精された。同い年の人間の精液が、口いっぱいに氾濫した。
僕はそれを地面に吐いた。やたら青臭かった。三人、立て続けにそうされた。たとえ口だけではあっても、辱めだった。
満悦すると、みんなは性器を下着の中に休めた。泥にへたりこむ僕を、ひとりが立たせて泥をはらうと、「誰にも言わないんだよな?」とにっこりとしてくる。僕の頭には、これ以上何もされたくないということしかなかった。僕はうなずいた。何度もうなずいた。
その人は、友達にするみたいに僕の肩に手を置くと、「もう午後の部が始まるから行こうぜ」と言った。僕は茫然とするまま、その人たちと四人組の友達のように表に連れていかれ、何事もなかったかのように別れた。
それで終わりだった。
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