風切り羽-94

忘れないで

 ぷつんと目が覚めて、意識が昨夜に移った。暗い天井があった。雨の音がしていた。胸には、あのぽっかりとした打撃が生々しく残像していた。
 僕はいまだに、あの日の午後の部をほとんど憶えていない。午前の部も憶えていなくても、その忘却とは明らかに異なる記憶喪失だ。目の前が真っ白だったのは憶えている。それと、まばたきも忘れていたのか、砂ボコリのたびに眼球が痛んで、よく目をこすっていた。そして、気を緩ませたら、その指のあいだに生温い水分が伝いそうだった──
 そう思った途端、急激に泣けてきた。あのとき必死に我慢した涙を、数年越しに解放した。
 十四歳になった今でも、忘れられない。あまりの鮮明さに、心は痛めつけられる。苦しかった。僕はひとりで、雨音に紛れながらすすり泣いた。
 ──鼻歌が流れてきて、我に返った。指を引っかけていた金網をつかむ。屋、上。そう、悠紗と来た屋上だ。景色を眺める悠紗が、いつのまにか鼻歌をしている。
 その旋律は、僕も知っていた。“DEYFLY”だ。あの詩は、梨羽さんが聖樹さんについて書いたのだっけ。それで悠紗は、聖樹さんのことを分かろうとその曲を何度も聴いたと言っていた。
 悠紗の鼻歌は正確で、音感があるんだなあ、と思う。ぼんやりと旋律に耳を澄ましていると、鼓膜に梨羽さんの声が空耳になる。

  何にも知らなかった
  それが虐げだとも
  傷つくことも知らなくて
  無垢な血痕と共に
  犯された心
  傷のまま死んだ裂け目は
  俺を地獄にはりつけにして

 言われてみれば、聖樹さんに沿っている。あの詩には、僕にも重なる言葉の拾い方が多かった。
 最後のほうにどきっとした記憶がある。聖樹さんの心に沿って歌ったのだとすると、納得がいく。

  まるで子供のままみたいだ
  すべてが不可解
  何にもでも必死
  だからって
  別に純粋なんでもなくて
  穢されたとは思わない
  ただすごく真っ暗だよ

  俺はただここにいたいのに
  たったそれだけがうまくできないよ

「おとうさんがね」
 ふと悠紗は鼻歌を止めて僕を見下ろしてきた。僕は悠紗を見上げ返す。
「何か苦しいことがあって、それが今も続いてるのは分かるの」
「……うん」
「何があったのかは分かんない。この歌でも。けどね、何か“しぬ”って言葉がいっぱい出てくるよ。梨羽くんの声は苦しい。子供で止まって、大人になれないってあるでしょ」
「うん」
「それ聴くとね、おとうさんが手首切ってたとき思い出すの。あのときのおとうさんの目、子供だったもん。泥まみれで置き去りにされる、って言ってるとこもあるよね」
 何度めかの展開で、歌うというよりささやいているところにあったと思う。
「それも。おとうさん、子供みたいに泣き出しちゃって、ぼろぼろに座ってたの。ひとりだった。僕も見てくれなかった」
 僕は少し目を伏せ、道路を俯瞰する。
 要さんの台詞がよぎった。物事には知る時期がある。僕もそう思う。僕自身、知らなくてもいいときに性を切り開かれ、わけが分からないままかきみだされ、分かるときにはもう破壊されていた。
 僕は、幼さを利用された虐待の悲惨な足跡を体感している。けれど、時期と同等に方法も重要なのではないかと思う。あんなやりかたでなく、きちんとしたやりかたであったら、時期はかまわないのではないかと。
 僕は、ああいう教えかたをされたから傷ついた。下着を脱がされたり、性器に口をつけられたりつけさせられたり、あんな理不尽なたたきこまれ方をされたから、性の認識を引っくり返された。引っくり返されたがゆえ、きちんと成長していく周囲とずれて、芽生えた性意識にとまどう少年の倒錯的な餌食になった。積み重なる悪い経験に、父親にのしかかられても拒否できなかった。
 時期も問題だったが、切り開いたメスが最悪だった。
 脚を開かせなくたって、性器で実習しなくたって、性は教えられる。
 性とは、好きな人と軆を介して、心を分けあうものだ。僕はあの方法でそういうふうには教えられなかった。
 僕があのことで知ったのは、逆らわない受動でいること、性器は相手のおもちゃであること、男である資格を失うこと、何より性なんかこの世で最もおぞましいという、命の育みを嫌悪する捻じれた認識だった。
 方法が悪かった。そしてあの方法が悪いと分からない子供だったのが、仮に悪いと分かっても敵うわけがない子供だったのが、さらに僕を化膿させた。
 僕はあのことで“男性”を掠奪された。同級生たちが僕を女に見立てたのは、そういうことだったのかもしれない。
 男の素質をもがれていた。だから、みんな僕を女にできた。きっとそうだ。男も女もない幼少期に、いずれ男の象徴として育っていくもの──能動や主導や包容──を踏み躙られた。
 きちんと性を開花させる周りは、本能的に僕の男性的要素の欠落を感知する。自分には成長していくものがこいつにはない、男としての主張が何もない、と。それでみんな、相談もしないのに集中的に僕を女の代わりにあてがったのだろう。
 やっぱり、僕に原因があったのか。おじさんに性器をいじくられ、上級生に奉仕させられ、僕の男としての本能は、それに抵抗できる強度がまだなかった。あっさりつぶれて破水し、はらむものは流出した。
 愛情も欲望も、自慰さえない。僕の男としてのうつわは空っぽだ。
 時期と同じくらい、教わり方が最悪だった。どちらかといえば、時期は効果的な従で、方法が主だ。
 きちんとした教え方なら、幼くても大丈夫なのではないか。無論、自分の肉体は性とほど遠く幼いので、実感がなくて分からなくもあると思うけど。その“分からない”と僕の“分からない”は別物だ。むしろ、いずれ直面した際、これはあのことかと慌てずに済む予備知識になる。方法がきちんとしていれば、子供に性を教える時期は問わないのではないか。
 悠紗を仰いだ。悠紗は考えごとをする僕を観察している。悠紗は聖樹さんの傷口を知っている。尋常ではない深さも理解している。悠紗は聖樹さんが傷ついているのを、自分で苦しくなるぐらい分かっている。悠紗が知らないのは、傷つけた刃物だ。
 聖樹さんが何に傷ついたのか、明かして悪いことがあるだろうか。理解しているぶん、そういうことが恐ろしい刃物になると痛感するだろうし、万一のとき、それがいけないことだとはっきり拒絶できる。告白が悠紗の認識に触れるとしたら、そのへんのごく正しいことだ。少なくとも、悠紗がいつかする恋愛の上で、支障になる認識は何も生まれない。
「悠紗」
「うん」
「聖樹さんのこと、知りたい?」
「うん」
「………、聞いたってそぶり出さないなら」
 悠紗は僕を見つめた。
「萌梨くん、ほんとにそう思ってるの?」
 僕はばつが悪くうつむき、「聖樹さんが決めることだと思う」といった。「うん」と悠紗は安心と甘心を混ぜた笑顔になる。
「いい、の」
「いいよ。僕も、おとうさんに自分で話してほしいもん」
「そっか」
「萌梨くん、おとうさんのこと知ってるんだね」
「………、僕も似たことされてたから」
 悠紗はこちらを見つめたあと、「そっか」と天を仰ぐ。
「じゃ、おとうさんに教えてもらったら、萌梨くんのも分かっちゃうね」
「うん」
「僕にばれちゃっていいの」
「悠紗には知っててほしいし」
 悠紗はまばたきをした。太陽の光が透いて、睫毛がきらきらする。
「悠紗は、分かると思うんだ。分からなくて笑う人もいるんだよね。悠紗は分かる。僕のことも、聖樹さんのことも。絶対」
 見つめあったのち、悠紗は照れ咲いした。「分かるといいな」と遠慮して空を向き、僕も正面のマンションを見やる。
 洗濯物を干す人は、さっきより減っている。
「僕、ちゃんと、よかったって思ってるよ」
「え」
「萌梨くんみたいに、おとうさんを分かってくれる人ができて。おとうさんも、萌梨くんなら分かってくれると思えてるでしょ」
「梨羽さんたち、いるよ」
「梨羽くんたちは、やっぱ音楽もいそがしいし。萌梨くんはずっとそばにいる。そういう人がおとうさんにいたらなあって思ってたの。僕がまだなれないなら、誰かいてほしいなって」
「なれてるかな」と自信のなさに訊いてみると、「なれてるよ」と悠紗は即答してくれる。
「おとうさん、萌梨くんが来て元気になったもん。楽しそうに咲うのも増えたし。僕、おとうさんのこと分かってあげられると思うけど、ダメなとこもあると思うんだ。おとうさんがどのぐらい痛いのか、ほんとのは分かんないもん。想像するだけ。萌梨くんは全部じゃなくても、分かる。想像ばっかじゃないんだよね。で、たぶん、それで僕じゃダメなとこを分かってあげられるの」
「悠紗じゃなきゃダメなとこもあると思うよ」
「そうかな」と悠紗は首をかたむける。黒髪がさらさらとした。
「悠紗に分かってもらえたら、聖樹さんには一番心強いんじゃないかな。僕は、一緒にその苦しいのが分かるだけだもん。引っ張り上げたりできない」
「してるよお」
「ひとりじゃないっていうのしかできないよ」
「大事だよ。もし、おとうさんが引っ張り上げられないぐらい沈んじゃったら、一緒にいられる萌梨くんはすごく大切でしょ」
「………、そ、かな」
「うん。おとうさんが沈んじゃったら、そばにいてあげてね。おとうさんも、萌梨くんが沈んじゃったらそばにいてくれるよ。『助けて』って言ったら、おとうさんには聞こえると思うの」
 僕はうなずきつつ、沈むたびに押し殺している自分を思い出す。
 あれはしなくていいことなのだろうか。沈鬱を漏出させ、聖樹さんの傷口に共鳴を求めていいのだろうか。
 分からなかった。どこかで僕は、そうして聖樹さんの傷口をめくってしまったら、と案じる。聖樹さんが落ちこむのは僕もつらい。
「萌梨くんはね、大切なんだよ。もっと威張ってもいいよ」
「え」
「僕も萌梨くん好きだもん。おとうさんが落ち着く人だったら、僕は嫌いでも我慢しようと思ってたの。へへ、僕が嫌って思う人で、おとうさんが落ち着くわけないよね。僕、萌梨くん好きだよ」
「……うん」
「僕とおとうさんは、萌梨くんみたいな人が欲しかったんだよ。ずっと。忘れないでね」
 僕ははにかんで咲い、「ありがと」と言った。悠紗も笑んで、また空を仰ぎ見る。僕は金網に前髪越しに額を預けた。
 あの夢に落ちこんでいたぶん、悠紗の言葉は嬉しかった。反面、あの夢に揺すぶられて自卑が暴れ、いつものようにすんなり受けられなくもあった。
 悠紗も察しているのだろう。『信じて』ではなく、『忘れないで』と言った。
 忘れないことなら、気持ちにぶれがあってもできる。聖樹さんも悠紗も僕を許してくれている。反芻すると、僕はできる限り憶えていられるように、その事実を胸に刻みつけた。

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