似ている顔
翌日は、悠紗が紫苑さんに見てほしい勉強があるということで、昼過ぎに四人の部屋を訪ねた。
みんな昼食の最中だった。食べ終わってすぐ、要さんと葉月さんは仕事に出かけるという。
紫苑さんはいつもの窓辺でパンをかじっていて、悠紗はそれが終わるまでゲームで時間をつぶす。その隣に座った僕は、梨羽さんを見返った。
隅っこの梨羽さんは床に腹這いになり、三種類のおにぎりを気紛れに食べている。何となくだるそうだ。
「梨羽さん、元気ないですね」
僕が言うと、「そうか?」と要さんは梨羽さんを見て、首をかしげる。
「俺には分からん」
「ていうか梨羽、そういうまちまちな食べ方はよしなさい。聞こえてないか」
まちまちな食べ方とは、ひと口食べて別のおにぎりに移る食べ方だ。一周すると元の味に戻っている。梨羽さんの胸元には見憶えのないまくらがあって、訊いてみると、「ああ」と要さんが言う。
「昨日、荷物あさってたら出てきたんだ。フローリングって痛いだろ。あいつ、何かずっと寝てるし」
「はあ」
「『俺も欲しい』って言ったら、『お前くせ毛柔らかいだろ』とか言われた。ムカつくー」
「柔らかくないのか」
「柔らかいから痛いんだよ。弾力がない」
「お前、どうせ頭とか以前に、うつぶせになって寝なかったか」
「あれ何でかなあ? くせ? 赤ん坊みたい」
「赤ん坊はうつぶせ窒息するだろ」と要さんはサラダを食べている。「そうだっけ」と言う葉月さんはハンバーガーだ。
「あーあ、それにしても仕事やだなあ。面倒。何で食べるのに金がいるわけ? 金ない奴は死ねってか。ふん、そんな世の中はこっちがお断りさ」
「じゃあ死ね」
「えー。しかし、歳食ったら簡単にバイトもできなくなるよな。どうやって生きてんだろ」
「今から貯金しとくか」
「あ、なるほど」
音楽で食べていこうとは思わないみたいだ。このあとの仕事は何なのかを問うと、「ホストに決まってんじゃん」と返ってくる。
「……決まってるんですか」
「つーか、何だろ。昼はカフェで、夜はそういう感じの。ほら俺、偽善的な笑顔がうまいから」
「はあ」
自分で言うのか。自覚しているだけいいのか、逆に悪いのか。
「要さんも、同じですか」
「まあな。葉月と違って高級店だけど」
「高級」
「ここに帰ってきたらっていう、いつも同じとこ。一応面接はするけど。今日もさっそく同伴だぜ」
よく分からずにいると、「萌梨は知らんでいい世界だ」と頭を撫でられた。
そうしていると、十分もせずに昼食は終わり、要さんと葉月さんは部屋をばたばたしだした。
紫苑さんも昼食を終え、悠紗はゲームをセーブして窓辺に行く。持ってきたノートを広げて何かを質問し、紫苑さんはギターを持ってくると弾いてしめす。
梨羽さんはおにぎりたちの半分くらいを胃に収め、まくらに頬をうずめていた。目を見開いている。開いている、のだけど、何も捕らえていない。いい徴候の瞳ではない。
ちょっとびっくりするくらい身なりを整えた葉月さんと要さんは、紫苑さんに梨羽さんの世話や留守番を頼み、梨羽さんにはたわいなく話しかけ、悠紗と僕にはまた今度遊ぼうと言って、出かけていった。ふたりがいなくなると、ストーブにぬくぬくした部屋はしんとする。
紫苑さんが弾くギターの音色が、きわやかになった。XENONの曲ではなさそうだ。悠紗は感嘆して自分の右手を広げ、「もっと指が長かったらなあ」と言う。
その旋律を弾くと、紫苑さんは悠紗にギターとピックを渡して、弾いてみるのをしめす。「楽譜は」と悠紗は不安そうにして、紫苑さんは悠紗のノートにざっと何かを──恐らく楽譜を書いた。
それを覗きこみ、悠紗はぎこちなくではあれ、丁重に音色をたどりはじめる。今、紫苑さんが弾いていた曲で、僕は単純に悠紗に感心する。
しかし、ふたりのギター講座をぼうっと観覧しているのも、間抜けだった。が、そうすると、僕にはやることがない。ゲームはできないし、雑誌は僕の周りのはポルノばかりだ。
どうしよう、と焦った。僕は手持ち無沙汰だと思索に堕ちてしまう。昨日悪い夢を見たばかりで、傾向はさらに強まっている。
聴いておく音楽もないしなあと梨羽さんのほうを向いた。梨羽さんはさっきから微動だにしていない。目だけ剥いて、あとは死んでいる。かといって、その目も生き生きとはせずに濁っている。視線は何にも届いておらず、虚ろだ。
このあいだ、ひとりでうろついたときの何かが残っているのだろうか。そう思っていると、梨羽さんが急に起き上がってどきっとした。
梨羽さんはきょろきょろすると、周りに散乱するゴミや本をめくったり放ったりした。何か探している、と察したところで、梨羽さんはコンポが載ったチェストの引き出しを開けた。
CDを入れ替えるのかと思ったら、違った。梨羽さんが取り出したのはレポート用紙とシャーペンだった。
何、と思っていたら、梨羽さんは腹這いに戻って、それに何かを書きつける。何だか気になり、距離的にも覗ける位置だったので、思わず盗み見てしまう。
支配 声 きこえる こまく のこる ざんげ ゆるす 神 目 耳 ちぎる
一瞬逡巡して、シャーペンはまた動く。
えし
そこまで例のかわいらしい字でひと息に書くと、梨羽さんはだるそうな息をついた。レポート用紙もシャーペンも向こうにやり、ぐったりとまくらに顔面を埋めてしまう。
何だろう。僕は梨羽さんが綴った一貫性のない言葉を連射を思い返す。ざんげ、とか、神、とか──もしかして、いずれ詩にする断片のイメージだろうか。最後の、えし、とはなんだろう。ひらがなのせいかピンとこない。
「萌梨くん」と呼ばれ、ギターが止まっているのに気づいた。振り返ると、悠紗は僕を、紫苑さんは悠紗を見ている。
「こっちおいでよ」
「え」
「座っててもつまんないでしょ」
「あ、うん。いいの」
「いいよ。ね」
悠紗に見上げられ、紫苑さんは無言でうなずく。先日、話をしたおかげで、それを悠紗に合わせた演技ではないかと疑わずに済んだ。
梨羽さんは気になっても、今はそっとしておくのがいいようだ。僕は立ち上がって、悠紗たちのそばに移動した。
歩きながら、梨羽さんをちらりとかえりみて、どきりと足を止めそうになった。梨羽さんはのっそり顔を上げ、もう見開きもしていない混濁した目で僕を見ていた。
その目に、なぜか心臓がすくんだ。痛いぐらいに鼓動が跳ねた。僕の動揺を見取ったのか、梨羽さんはうつむいて、視線の行方を失くした。
僕はどぎまぎしつつ、ギターの練習を再開している悠紗の隣に座りこむ。背中を預けたガラス戸は、外の曇りに冷えこんでいた。
さすがにこう近くだと、紫苑さんの声も聞き取れた。悠紗が短いその曲を弾き終えると、次はコードがどうとか言っていた。僕には意味不明の言葉の連続に、悠紗はちゃんとうなずいている。
やがて悠紗は、ギターの弦を抑え、聴き憶えのあるXENONの曲のコーラスをゆっくり弾きだす。その曲は僕も知っている。曲名は忘れてしまったけれど、自殺の方法をささやくように連ねた透明な感触の曲だ。曲調も、聴く限りでは簡素だった。
梨羽さんを見やった。ここで見ると、毛布にくるまる梨羽さんは遠く、小さく、もろげに見えた。
梨羽さんはまだここで半月も休めるし、それまで練習以外では歌わなくていい。それでも、ああして低迷している。歌わなかったら歌わなかったで、どんよりしたものが堆積していくのだろうか。
虚ろな瞳は、つかみきれないものをただよわせている。僕はもやもやしたものを感じずにいられない。
死んでないのに生きてない。そんな目だ。ぱっちりした大きな瞳のかわいらしさは、印象が蝕んでいる。
そういえば、僕の顔も造りより表情に支配されている。そう気づいて、分かった。何だかあの顔は、僕の顔だ。
似ている。うなされたあとに顔を洗いにいったときの鏡や、せめて軆をゆすぎにいったときの浴槽の水面、こちらを覗きこんできた無神経に笑う瞳孔に見た、僕の壊れた顔に。
何でだろう、と思う。梨羽さんは聖樹さんや僕のようなことをされたわけではないという。なのに、僕たちを素早く察知する。人との接触を嫌って、内閉する。女の人を抱いて戻したという話も聞いた。
何よりも、音楽で表現しているあの痛切さは何なのか。異常に暗い詩、沼にはまったような悲鳴、繊細な暴力性。
梨羽さんはかわいい顔をしている。子供の頃は女の子みたいだっただろう。僕にはどこか、ほんとに、という疑問がある。ほんとに、梨羽さんは何も──
邪推に嫌気がして、膝を抱えた。背中に当たるガラスは、僕の体温に温かくなっている。
梨羽さんの停止した瞳は、自分を見るようで怖かった。僕は逃げるように睫毛を伏せると、太陽の光が射さない床に視線を放った。
【第九十六章へ】