風切り羽-99

迎えにいくよ

「あの曲、タイトルも変わっちゃったんですね。“BOY”でも合いませんか。子供のまま、とか」
「ああ。あれはどっちかっていうと、焼きつく子供の頃が、大人になった自分を支配してるって意味なんだ。“BOY”のほうには物語があってね、子供の頃にひどいことされて、今、大人になってひどいことになってるって。梨羽はちょうど、僕と彼女のことを聞かされたところでもあった。書き換えて経過の描写はなくなって、前のと区別もつけようって、タイトルを変えることになったんだ。それであれに」
「“DAYFLY”、ですか」
「うん。蜉蝣、だね」
「かげろう」
「虫のほうだよ。あの、数時間で死ぬ」
「あ、ああ──すみません、英語ってダメで」
 照れ咲いすると、聖樹さんも微笑む。
 蜉蝣。僕は内容を思い返して、蜉蝣かあと反復して思った。
 そうか、と感じる場所はあっても、何で、という部分もある。きっと、“何で”のところは“BOY”から引き継がれた部分なのだろう。
「タイトルは、聖樹さんがつけたんですか」
「梨羽だよ。あれは内容より僕に当てた曲っていうのを言ってるんだ。僕の名前をタイトルにするわけにもいかないし。蜉蝣って、梨羽の僕への印象なんだ。梨羽には僕は、もろくてすぐ壊れそうなんだって。どっちが、ってそのとき思ったけど」
 咲った聖樹さんに、僕も咲ってしまう。確かに、聖樹さんへの曲ならば、聖樹さんに宛てていることを冠するほうが内容を象徴している。
「途中、歌うよりささやくって感じのところがあるよね。羽を失くしたって」
「あ、はい」
「あれは“BOY”にはなかったんだ。梨羽たちに彼女とうまくいってないのを話して、そのあと梨羽とふたりになったとき、あの内容みたいな話をした。死ぬしかないって思うこととか、生きてるのが楽しくないとかね。羽がなくて何度も堕ちるっていうのは、ああいうことをされて、人間関係とかがうまくできないってことの喩えかな。梨羽は僕がうまくいってないとすごく落ちこむんで、そのときも僕より梨羽が泣き出しちゃって」
 何だか想像がついて、胸の奥が切なくなる。
「そのあとに、梨羽が“BOY”の詩を持ってきて。あの頃はほんとにひどくて、ああいうことをされたのが、どれだけ今の僕に根をおろしてるか、身を持って体感してる頃だった。あの曲には、その最悪だったときの僕が映ってる。それも、あの曲を聴くのをつらくさせるのかな。またああいう状態にならない、って保証もないし」
「ない、ですか」
「ないよ。あの四人がいなくなって、悠も萌梨くんもいなくなったら、絶対僕はまたああなるよ。もっとひどいかな」
 聖樹さんは自嘲を混ぜて咲い、紅茶を飲む。
 そばにいます、と言えないのが僕もつらかった。いや、僕以外の人は聖樹さんを捨てたりしないだろう。できない、と思う。
 それを言うと、聖樹さんは弱く微笑した。
「分かってる、けどね、怖いんだ。あの四人がどっか行ったきり帰ってこなくなったらとか、沙霧に愛想尽かされたらとか、悠に何かがあったらとか。考えただけで、それが実際に起こった気になって怖くなる。今は、萌梨くんのことも思うよ。誰かに見つかって、取られちゃったらどうしようとか」
 それは僕にも恐ろしいことで、うつむいてしまった。誰か──おとうさんに発見され、ここにいるのを剥奪されたら。こればかりは杞憂ではない。
 紅茶の水面に、おかあさんの目が映っている。この顔がある限り、僕はおとうさんを逃げられない。あそこにいる限り、みんなのことも逃げられない。仮に成長してもてあそばれることがなくなっても、平然とした顔をされるのはなくならない。
 いや、もしかすると、もてあそばれつづけるかもしれない。女の人に振られたり、相手にされない人に。服従させられる確信を持たせる、この脆弱さがある限り、何もなくならない。この傷がある限り。
 何も得られないように、何もなくならない。逃げられない。逃げられるわけがない。
「ごめん」と聖樹さんの声がした。僕は顔を上げる。聖樹さんはすまなそうに僕を窺っていた。
「見つかるとか。気に障ったよね」
「あ、いえ。でも、そうですね。それはなくもないです」
「僕の勝手な不安だよ」
「そんなことないです。悠紗とかはいると思います。僕は分からないです。逃げられないと思います。おとうさんとか、こういう、暗くなるのとかも。暗いままだったら、おとうさんじゃなくても、ほかの人の獲物になるのは逃げられないでしょうし」
 聖樹さんは口をつぐんで考えると、「まあね」と息をついた。
「精神的なものは、逃げるっていうのはむずかしいよね。現にされちゃったんだし、記憶も消せない。忘れられなかったら、気持ちだって生々しいし。逃げるのは無理だと思う。受け入れるしかないんだ。ああいう体験も自分の一部だって。全部そうじゃなくても、やっぱり、もがれたら終わりで戻ってこないものだってあるし」
 僕はうなだれた。悲観ではなく、ごく正論なのがつらかった。「でもね」と聖樹さんが続けて、僕は上目をする。
「おとうさんとか、物理的には逃げられるんじゃないかな。逃げなきゃいけないことだから」
「……つかまえられたら、敵わないです」
「萌梨くんはひとりじゃないんだよ」と聖樹さんは苦笑し、僕は顔を上げる。
「僕が取り返しにいくよ。悠とかがいなくなったらへたりこみそうでも、萌梨くんは違う。連れ戻さなきゃって思える」
「何で、ですか」
「守るって言ったのは僕だし。萌梨くんがそこから連れ出してほしいのも、絶対に疑わない。誘拐罪になってもいいよ。僕は犯罪者になるより、萌梨くんをそういう場所に放っておくほうが怖いよ」
「悠紗、聖樹さんが犯罪者になったら泣きますよ」
「あの子は、何が本当に悪いのかを分かってるよ。だから、保育園にも行けないんだ。法律に触れた先に重要なものがあるなら、悠は犯罪も認めるよ」
 悠紗を想い、反論できなかった。けれど、僕自身に聖樹さんを犯罪者するのは忍びない想いがある。
「肉親が加害者だと、法律が障ってくるんだよね。邪魔になったり、役に立たなかったり。僕は、ああいうことが法律なんか関係ないぐらいひどいって、普通の人よりは知ってる。迎えにいくよ」
 聖樹さんを見つめる。聖樹さんはクッキーを割りながら、「僕ひとりじゃ頼りないかな」と咲う。僕は慌てて、かぶりを振った。
「あの四人も来てくれるんじゃないかな。要あたりは怖そうだね。要って、好きな人が傷つけられても、嫌いなもの相手みたいに残酷になりそうだし。葉月はにこにこして口車にまいて、立場が悪くなる自白でも引き出してくれそう」
 いかにもな予想に、つい咲ってしまった。「悠も沙霧もほっとかないよ」と言われて、ひとまずうなずく。
 現実にはそううまくいかないのは分かっている。でも、そうして僕を救い出そうとしてくれる人が確かにいて、ひとりぼっちじゃない証拠になるのは気を楽にさせた。
「って、何かごめんね。ほんとに連れていかれたみたいに」
「いえ。嬉しいです」
「助けにいかなきゃっていうより、助けにいきたいんだ。昔の自分へのなぐさめってわけではなくても、自分は助けてもらえなかったから。萌梨くんは、って思うんだ」
 もちろん僕は、それで聖樹さんが楽になるのなら利用だなんて思わない。僕がこくりとすると、聖樹さんも微笑んだ。
「ここにいられるよ」と言われ、信じてうなずくほどにはなれなくても、咲い返せるぐらいの希望は持てた。

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