romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

抜殻の潮騒-1

 僕は耳障りが嫌いだ。音は僕を侵害する。
 ひとりぼっちは怖いけど、どうせ心を開いたって、虐待されるだけだ。無音の殻に閉じこもりたい。神経をかきむしるあの声を、二度と聞かずにすむように。
 通りに面した港に降りたとき、少し気分が悪かった。喉元の不快なうねりに、旅行かばんひとつの荷物が、やたら重たい。
 向こうで早めの昼食を取って、船に乗ったせいだ。戻したいほどではなくも、全身を覆う浮遊感覚に、深呼吸が必要だ。強い潮の匂いと緑に浄化された空気を吸い、丁重に息を吐く。
 降りた乗客は僕だけの連絡船は、この小さな港につながれるヨットたちを大波で揺らし、もうひとつ向こうの島へと出発した。そこはホテルやレストランも完備され、おおかたは便利なそちらに行ってしまう。でも、僕は人間がたかるところにはいたくなかった。
 左右を見渡せる通りから、無作為に選んだ小さな島の夏の昼下がりを眺める。空は青く突き抜け、夏風には潮の香りが混じっている。波の音と、それに合わせてヨットがきしめき、地面には海藻が貼りついていた。
 民家に並んで通りにあるのは、駄菓子屋、定食屋――日に焼けたおじさんが船の手入れをしたり、子供たちが釣りをしていたりする。
 僕はコンビニやマンションがある街に暮らしていた。雑音や喧騒が乱れ、風は排気ガスで水はカルキ、アスファルトにはゴミがこびりついている。それらを、夏にはやりきれない太陽が、冬には哀しそうな灰色が見下ろしている。
 ここから見ると、日射しは恵みに感じられ、汗もさわやかなのが不思議だ。
 民宿はあると聞いたけど、一見、それらしいものはない。民家のどれかだろうか。人に訊けばよくても、今はなるべく人と口をききたくない。
 島の人ってよそよそしそうだしなあと偏見しつつ、波にささめく濃紺の海原を見返った。連絡船は遠く、ここから見るともう模型みたいになっている。客も乗せるあれが来るのは、一週間後だ。普段は貨物船しか来ず、何せ僕は、一週間ここにいるほかない。
 一週間、あの部屋に帰らずに済むのだ。あの声を聞かずに済む。僕をぶしつけにかきみだす彼女の声を。代わりに、この耳は揺るぎない波の音で、傷んだ神経を癒せばいい。
 僕の神経は、音に過敏だった。昨日の夜も、周りの雑音で恐怖と焦燥に精神が捻じれ、彼女に怒鳴られた。ついにたまらなくなった僕は、彼女がいない隙に部屋を出てきた。
 ほかに宛てはないので、しょせんあの部屋に帰るのは分かっている。それでも、ひとときでも心をなだめたかった。ちょうど、ウェイターの仕事も店の改装で夏休みだ。
 神経の慰安には、無音が何よりだった。だが、そんなのは自分が呼吸して搏動している限り、ありえない。ならば、鼓膜に優しい音のみのところで、僕は波の音を選んだ。
 突発的な旅行だった。所持金も、かきあつめた頼りない金額で、民宿に泊まれなければ、ここの砂浜で過ごすことになる。それでも構わなくても、一応訪ねてみよう。
 船酔いが取れてきた軆で荷物を持ち直すと、ひとまず自分の足で民宿を探すことにした。
 港を背に右の行き着く先は、砂浜に降りる階段のようなので、左手へと歩いた。むっとした空気を潮風が切り開き、髪や頬を撫でていく。
 向こうでは蝉の声にもいらついていたけれど、ここのそれは鉄筋に跳ね返らず空中に開放されるので、頭にがんがんしない。澄んだ空気に呼吸は自由だし、空の透いた光は黒い不安を軽くする。
 出来損ないには容赦なかった社会とは違い、自然は差別なく鷹揚だ。
 そう、僕は出来損ないだった。健全を脱落し、常識に乗れず、真っ当な生活にこらえ性がない。人には病気だと言われる。
 僕は自尊心に値しない。死んだほうがいいのに、明日は何か変わるかも、と性懲りもなく未来に期待し、のろのろと生きている。
 子供の頃は健康だった。いや、健康であるように努力した。勉強もよくできたし、友達も多く、妥当な喜怒哀楽を持っていた。
 思春期にさしかかった頃、疲労に傷みはじめた。欺瞞に価値を見いだせなくなった。うやむやなまま十一で登校拒否を始め、中学時代は引きこもりに終わり、外界に耳をふさぎつづけた。
 声や音に、きわめて自制がなかった。あふれる悪感情に、はちきれる悲鳴を上げ、引き裂かれるように僕は泣いてしまう。
 操作できない感情は、脅威だった。頭では、受け流せばいい、と冷静に理解している。なのに、強迫観念が僕に切れることを強制する。ナイフを喉に当てるのだ。
 耳障りだと感じるたび、僕は息苦しい強迫観念に襲われ、自分を、調和を、心を侵害された。我慢しきれなくなった両親、特に父親に、いつまでも子供みたいにしてるんじゃないと、高校にたたきだされた。
 学校は怖かった。イジメとかはなかった。ただ同年代の集団に視界がちかちかして、肩幅を圧縮されるようないたたまれなさに、顔を上げられなかった。高校に行って良かったことなんて、わずかばかり外界への免疫ができ、卒業と同時に家庭を捨てられたことだ。
 それが今年の春で、バイト募集の張り紙をしていた喫茶店で場当たり的に働きはじめ、そこで未晶みあきに出逢い、未成年の上に保証人がいなくてろくなところに住めずにいた僕は、誘われるまま彼女と暮らしはじめた。
 未晶は僕よりみっつ年上で、専門学校を卒業して、イラストの仕事のかたわら、かけもちするバイトで生計を立てていた。創作中は人がいると気が散るということで、僕は寝室に閉じこもった。
 ペット可のマンションで、隣の犬の甲高い鳴き声が、神経をかきむしった。大通り沿いのマンションでもあり、車やオートバイの走音もひっきりなしに聞こえた。いらつきに頭が変になりそうで、いつも頭にふとんをかぶっていた。
 喫茶店のバイトは続けていても、ほかにはやることがなく、家事は僕が担うようになっていった。
 やがて未晶は、僕の心がおかしいことに気がついた。初めはつきあってなぐさめてくれていたが、いくらほどいてもすぐもつれる僕の神経にうんざりして、病院に行けと怒鳴るようになった。
 彼女は、土砂降りのように僕をののしる。いっそ鼓膜を破ってしまえと、裁縫用の錐を投げつけられたこともある。僕は怖くて、謝りながら泣くしかない。
 好き勝手言われている反感はあった。それが昨日、「ガキっぽいのもいい加減にして」という言葉で破裂した。それは、僕を高校に蹴り出した父親と同じ台詞だった。耐えかねた僕は、とにかく神経を守りたくて、波の音だけ求めて、こうしてぜんぜん知らない島に来ている。
 無音の殻への隠遁を望み、近所への外出も躊躇う僕がこんな旅に出られたのは、奇跡だ。やればできるという奴でなく、切れただけだろう。バットで他人の頭を殴るような衝動だ。
 自分がそういうことをやっておかしくないのも、本当にやる度胸がないのも知っている。意気地なしなのだ。未晶の言う通り、僕はこの鼓膜をつんざき、聴覚を失っておけばちょうどいいのだろう。
 左に抜けていると、右手に緩い登り坂が現れた。その途中に地図の看板があったので、正面には港添いの道が続いていたけど、右折してみる。
 この島は観光地ではない。番地だけの住民用の地図かな、と思ったら、果たしてそうだった。でも、括弧で店名のようなものが添えられた家はいくつかある。〔民宿・海の里〕というのがあったので、そこに行ってみることにした。
 民宿は坂をそのまま行った先にあった。三階建てであるの以外、周りと変わりない木造民家だ。低い石垣が庭を囲み、かんぬきのついた門扉から玄関まで飛び石が続いている。こうも普通だと、玄関のチャイムを鳴らしにいくだけで泥棒の気分だ。
 門扉を押すと、金属的なきしみにびくついてしまったが、庭に踏みこんで玄関に行く。表札の下に〔民宿・海の里〕とある。チャイムを鳴らそうとしたとき、背後でまた門を開く音がして、僕はびくんと振り返った。
 僕と変わりないぐらいの歳の男の子だった。太陽と風に髪がぱさぱさに脱色され、肌はなめらかな小麦色だ。Tシャツに短パン、ぼろぼろのスニーカー、すらっとしていても筋肉はしっかりある。荒削りな輪郭や、深い光の瞳が印象的だった。
 色白で華奢で、暗い瞳の僕と正反対だ。この家の人だろうか。男の子は、怪訝そうな眉で歩み寄ってくる。
「あ、あの──ここって民宿ですよね」
 男の子はいったん立ち止まり、首をかたむけて僕のそばに来た。彼の髪は湿ってきらめき、澄みきった潮の匂いが強くした。汗でなく、海水のようだ。
 見つめられる拒絶感に気圧される僕を、男の子は玄関の引き戸を開けて、招き入れてくれた。涼しい家の中にも海の匂いがし、かすかに木の匂いもした。他人の家特有のなじめない匂いは希薄で、やっぱり民宿なんだなと納得する。
 何より、玄関の右脇に会計の窓口があった。スニーカーを脱ぎ捨て、家に上がった男の子は、廊下を少し行った先の右のドアに消えた。放置に困惑しつつ、左手の幅のある階段や廊下の突き当たりの引き戸を確認していると、こんこんと音がした。
 男の子が会計口でノートをさしだし、ボールペンでテーブルを打っていた。僕は玄関先に荷物を置いて、そこに駆け寄る。男の子はノートを開くと、住所や名前が簡単に記された前項をしめし、僕にボールペンを渡した。
 言えばいいのにと思いつつ、ボールペンを受け取って、前項にならって記入する。住所は──未晶の部屋しかない。書くあいだに男の子はどこかに行って、ボールペンにふたをした僕が所在なくしていると、男の子が入っていったドアが開いた。
 出てきたのは、男の子でなく、女の人だった。長い髪を背中でみつあみにし、ワンピースにデニムのエプロンをつけている。あの男の子と面影は似ていても、おっとりと柔らかな顔立ちだ。
 あの男の子の母親、にしては若すぎる。二十歳前後だろう。
「お客さんですよね」と彼女はスリッパで駆け寄ってくる。
「それ、書いていただけました?」
「あ、はい。えと、泊まれますか」
「はい、もちろん」と彼女はノートとボールペンを取り、僕の記入を確認する。
「予約とかしてないですけど」
「大丈夫ですよ。何泊されますか?」
「え、と、できれば一週間」
「六泊ですね。じゃあ、お部屋――」
「あ、あの、六泊でいくらかかりますか」
「え。えーと、おひとり様ですよね」
「はい」
「じゃあ、朝晩のお食事つきで……二万四千円ですね。泊まるだけなら半額です」
 二万四千円。船代は往復切符を買ったので気にしなくていいし、この島で僕は砂浜でぼうっとするだけだろう。「お願いします」と軽く頭を下げると、「じゃあ、お部屋に」と彼女は笑んでスリッパを出してくれた。
 麻夢まゆめと名乗った彼女が僕を案内したのは、二階のひとり用の部屋だった。シングルベッド、チェスト、クローゼットもあり、通りを見下ろせるベランダにも出れる。床はフローリングで、壁も明るい色の木目だ。
 カーテンを開けて、たたまれたシーツを広げ、エアコンの説明をした麻夢さんは、板焼きにつながった鍵を僕に渡した。
「雑用は私に言いつけてください」
 訛りなく言い残して、麻夢さんが去ると、僕は鍵をチェストに置いてベッドサイドに腰かけた。ため息に力が抜ける。
 これで、この島に滞在する手続きはこなせた。寝床も食事も安定し、一週間、ここで心置きなく安息できる。
 荷物を部屋の隅にやると、冷房はつけず、網戸をかけてベランダへのガラス戸を開けた。蝉の声に混じり、波の音と匂いが届く。夏風にレースが踊った。
 いらつかない。よさそうだ。
 この島を選んで失敗でなかったことにもほっとして、昨日からいろいろ疲れていた僕は、暗くなるまでベッドに横たわって過ごした。
 夜になると、魚介の夕食をもらって小さめの浴場を借り、朝食の時間を確認して部屋に上がった。
 夕方に人の出入りがあったけど、泊まるのは僕だけのようだ。よかった。隣の部屋の物音で切れたりしたら、最悪だ。
 ガラス戸は開けっぱなしで、潤った波が遠くに聞こえた。いつもと違うシャンプーと石けんと部屋の匂いの中、糊のきいた白いシーツに仰向けになった。
 未晶は僕が出ていったのに気づいただろうか。書き置きも何もしなかった。

第二話へ

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