風切り羽-100

放課後【1】

 五時間目に体育があって、六時間目には数学がある。この火曜日の午後の時間割は、この一年五組で最も嫌われている。
 きつくてだるい授業が終わると、帰りのホームルームが始まるまではささやかな休み時間がある。
 みんなは雑談したり暴れまわったりしていても、孤立する僕は外れている。黙々と今日と明日の時間割を照らし合わせ、置いておく教科書と持って帰る教科書を仕分ける。
 このクラスでは、こういういわゆる置き勉は認められている。そうでなければ、僕はいざこざは避けて持って帰る。
 英語の教科書をつくえに置いておこうとして、書写と訳文にする宿題があったのを思い出した。持って帰らなきゃ、とノートも合わせてかばんにさしこんだときだ。
 ふと頭に影がかかった気配がして、顔を上げた。
 とっさに口元がこわばった。クラスメイトの男の数人が僕を囲んでいた。胸元で恐怖が芽吹いて急成長する。ついで墨がおりた脳裏に、否応なしにあの悪夢がよみがえった。
 はっきり憶えている。残暑の文化祭の用意のときだ。班に分かれて用意して、その日、僕のいる班はひとり欠けていたせいで居残りになった。
 外は暗くなっていた。暗い教室に明かりをつけるのは、普段昼間の学校にしかいないので変な感じだった。
 飾りつけの用意だったのは憶えていても、どんなものだったかは憶えていない。今目の前にいるこの人たちに、床に押しつけられてぐちゃぐちゃにされたからだ。
 そのショックが強すぎて、ほかのことは憶えていない。敵わない力や荒くなった息遣い、複数の手が軆を這いまわる感触はまざまざと覚えている。
 電燈がやたら遠くて、まぶしかった。そしてその電燈で、押し開かれた脚のあいだを同い年の同性に観察された。嫌だとか恥ずかしいとかより、名状できないものがすごくたまらなくなった。泣きたいような、蹴たくって抵抗したいような。
 僕は泣いたけれど、蹴たくれなかった。もてあそばれるまま、僕はこの教室で、この人たちの精液を浴びまくった。肌に、口に、体内に。
 汚臭も味も鈍痛も、はっきり憶えている。忘れられるものではない。同級生に体内を辱められたのは、あれが初めてだった。
 文化祭は終わって、先日中間考査も過ぎ去った。やっと校内は静かになって、あれから一ヵ月が過ぎている。
 僕はもう、地獄への岐路として、あの日を一生忘れられない予断をしていた。この人たちのことも、なるべく避けていた。
 しかし、避けるといっても、僕のことなので話しかけられたら逃げたりできない。何か発生すること自体を抑えていた。
 そんな僕のかろうじての拒否は、この人たちには目に留まるものでもなかったらしい。今、こうして僕を囲む彼らの顔は、みんな笑っている。
 信じられなかった。僕の口や肛門でさんざんいったくせに。何で恥ずかしくないのだろう。忘れているのか。そんな疑問が涌くような笑顔だった。
「朝香ってさ」
 ひとりが腰をかがめ、馴れ馴れしく僕のつくえに肘をついた。十月いっぱいは衣替えの季節で、その人の学ランには防虫剤の臭いがした。
「今日、ヒマ?」
「……え」
「放課後」
「………、家のこと、しないと」
「いいじゃん、一日くらい。俺たちと遊ぼうぜ」
 僕は、その人を虚ろに見た。
 遊ぼう。幼い頃から、そう言われつづけてきた。そして、その遊びは決まっていた。
 僕は喉の奥で深呼吸し、「いそがしいから」とどうにか言った。僕にとっては必死の拒否だった。でも、この人たちには瑣末な言い訳でしかなかった。
「だったら、気晴らしだっているだろ。いいよな、決まり」
 そのとき、都合悪くチャイムが鳴った。みんな、僕の返答も聞かずに自分の席に解散していった。
 ホームルームが始まっても、僕は体勢を正したほかはかたまっていた。
 どうしようと胸が恐慌する。またあんなことされるのか。嫌だ。僕は、昨日の夜おとうさんにベッドに抑えつけられたばかりだ。腰がひどく重かった。こんな軆を痛めつけられたくない。
 何もなかったとしても、僕はあの人たちの気配を感じていたくない。どうしよう。怖い。何でもっと、きちんと断らなかったのだろう。
 走って教室を逃げようか。ダメだ。僕の席から教室の出入口への道で、あの四人のうちのひとりの席の隣を通らなければならない。遠まわりをしていたらつかまる。たとえ逃げられても、この軆のだるさが重荷になって、確実に追いつかれる。
 いよいよ泣きたくなった。またなのか。また、あんなふうに犯されるのか。
 もう嫌だ。僕の軆には、おとうさんの口づけの痕だって残っている。変な勘違いをされたら最悪だ。
 あんな汚辱はじゅうぶんだ。されたくない。逃げないと。犯されたくない。男のおもちゃになんかなりたくない。僕はおもちゃじゃない。精液の便器になるのは、うんざりだ。
 頭の中ではわめきまくっても、実際の僕は、その百分の一も狂暴になれなかった。チャイムが鳴ったら、逃げるどころか恐怖に押しつぶされて動けなくなった。
 みんながやってきて、僕を優しく立たせた。教室を出て廊下を歩き、階段を降りているときに、「俺の家行こう」と誰かが言った。一度家に帰せば、僕がそこに閉じこもるのは、みんな分かっていた。そこは分かっているのに、僕がそうするほど苦しむ理由はちっとも認識しない。
 靴箱を抜け、校門を抜け、同じ制服の集団が濁流する道を縫っていく。
 何にも聞こえなかった。見えなかった。
 脚がぎくしゃくして座りこみそうで、誰かが僕の腕をつかんでいる。
 心臓が搏動し、その脈打ちのたび、吐きそうな悪い気分が血に混ぜられて排出されていく。黒いものは僕の全身に駆け巡り、ところどころで詰まり、とどこおる。
 最低の気分だった。頭がぐらぐらしていた。
 気づくと、僕は誰かの部屋にいた。
 ベッドとつくえと本棚と、ゲームがつながったテレビがあった。僕はベッドサイドに座らされた。神経がばらついていた。
 みんな上の学ランを脱いだり、シャツのボタンをはずしたり、この部屋の人はひとり私服に着替えたりした。僕は学ランの中で硬直していた。
 気晴らしとはいったい何なのか、やはりこの人たちにとっての気晴らしであり、僕はその道具にされるということなのか。そんなことを考えて、呼吸を引き攣らせていた。
 私服の人がベッドの下を漁った。出てきたのは、大量のポルノ雑誌だった。
 茫然とする僕に、「兄貴がくれるんだよ」とその人は説いた。ポルノ雑誌はベッドの上に散乱した。
 水着や下着の女の子がポーズを取ったり、いくつか全裸もあって、セックスの仕方やかたちを興味本位で書き殴っている。犯される体勢を取っている女の人もいた。とにかく写っているのは、猥褻な女の人たちだ。
「おもしろいだろ」と誰かが僕の膝に雑誌を放った。僕の膝の上で、全裸にシーツを巻きつけた小麦色の肌の女の子が、付け根まで脚をさらした。
 僕はぎこちなく目をそらした。震えそうな手で、雑誌を押しのけようとして、そうしたらもっと過激なものをよこされるのではと怖くなり、何もできなくなった。吐き気がしていた。
 みんな淫猥な笑みをたたえて、ページをめくる。学年の綺麗な女の子の名前が飛び交った。しかし、みんなが見るものにも、ベッドや床に散らかるものにも、何というか、そのものの写真はなかった。と、思っていた。
 読書が続いたあと、私服の人がテレビをつけて、ビデオデッキをいじった。真っ赤なラベルのビデオを飲みこませる。テレビには、唐突に薄暗い桃色の証明のベッドが映った。
 制服を着た女の人が現れる。ベッドに脚を組んで座ったその人は、どこからか聞こえる質問に答えた。名前や、年齢や、男性経験や。そしたらまた編集で場面が飛び、いきなり女の人はぼかしの入った男の股間に顔を埋めていた。
 目をそらした。すると、音声が耳についた。男の人の太い声が、女の人にいちいち奉仕の仕方を命令する。そこに、湿った唾液の音や喉を詰められたうめきが混じる。
 耳を塞ぎたくても、そんな目立った行動を取ってこちらに注目されるのも怖かった。けれど、どのみち軆が震え、膝にだらしなく開かれていた雑誌が、床にばさっと落ちてしまった。
 同じくベッドに座っていた人が僕を向き、隣に来る。その人は僕の頭からうなじにかけて撫でると、「観ろよ」と言った。
 僕はかすかにかぶりを振った。
「何で? 男なら誰だっておもしろいだろ。お前、ホモなのか」
 激しく首を振った。冗談じゃなかった。男なんか死んでも好きになれない。これが好きなんだろうと犯されたりしたくない。
「じゃあ観ろよ」
 その人は僕の髪をつかんで顔を上げさせ、テレビに向けた。目をつぶることはできたけど、僕はこの人に抗うのが怖くてたまらなかった。抵抗したら、押し倒されるに違いない。
 僕は観た。女の人は全裸になっていた。開いた脚のあいだに、男の人の頭を置いている。わざとらしく喘いで、ため息を吐き、先のとがった白い乳房を震わせている。
 いやらしかった。観たくない。何もおもしろくない。『もっと』と上の空のかすれた声がする。何かをすするような音に、女の人のみだらな声は高まった。
 モザイクの向こうで、女の人の性器に男の人の口が伸ばす赤いものがうごめく。それが大映しになったとき、僕は耐えきれずに目をつぶった。

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