茜さす月-11

壊れそうな頭【1】

 どんな女と寝たって同じだ。満足もなければ、後悔もない。どうでもいい。
 だが、今回は、さすがにしくじったかもしれない。
 まだ梅雨の最中だった先月、話があると真剣な顔で言ってきた小波と教室を出て、妙に沈黙して廊下を歩き、「雨すげーな」と俺は昇降口でつぶやいた。すると小波は、「有栖が好き」とぜんぜん返事になっていないことを言ってきた。俺は小波を見たけど、小波はうつむいて頬を染めていた。「そうか」と俺はまた雨を見やって、息をついて、面倒だなあとぼんやり思った。
 俺も小波は好きだけど、正直、そういう対象としては見れない。俺のそういう対象は萌香だけだ。どうやったら、小波を傷つけずにうまく友達で収まれるか考えた。考えて、すぐ答えが出なかったので「少し保留で」と言った。小波はやっと俺を見上げて、こくんとした。
 しかし、予想はしていたが、小波はあまり慎ましく待ってくれなかった。直接急かすわけではなくても、明らかに会う約束、そしてメールと電話が増えた。その返事が遅れると「何してたの?」「誰かといたの?」──涼に相談したら、「つきあえばいいじゃん」としか言われなくて、役に立たなかった。
 ただ、俺が女とつきあうかもしれないと萌香の心に探りを入れると、予想以上に混乱している反応が返ってきた。それだけで、俺には小波を選ぶ理由はもうなかった。いざとなれば、小波を失っても困ることもない。そんなことより、萌香を安心させて、あわよくば抱きしめたい。
 七月になる前に、俺は小波に断りを告げた。
「何で?」
 小波の声は今にも泣きそうにわなないていた。駅前のカフェで、外の雨が蒸しているせいかクーラーがきいていた。
「何か、小波は友達だから」
 一番むごい答えなのは分かっていても、事実は仕方がない。小波は案の定、泣き出した。
「友達としてなら、ちゃんと好きなんだぞ」
「そんな『好き』いらないよっ」
「俺は友達でいたいけど──」
「ふざけないでよ。そんなの無理」
「……じゃあ、無理はしなくていい。これからは俺のことスルーしろ」
 アイスカフェラテを飲み干し、席を立った。が、小波はすぐに俺の手首をつかんで、足止めする。
「何だよ」
「スルーなんてできないよ」
「でも友達が嫌なら、」
「友達になればいいの?」
「それなら今まで通りだしな」
「じゃあ、ひとつお願い聞いて」
「何」
「あたしの処女もらって」
 女の言い出すことは、よく分からない。それでいったいどうなるのだということを言いはじめる。なぜそんな、俺が責任を持つようなことをしなくてはならないのか。でも、振った慰謝料請求にも感じられて、何となく断れない。いや、ふざけんなと冷たく突き放してもよかったけど、そうしたら、俺が言い出した「友達でいたい」をこちらが破ることになる。
 七月頭の期末考査が終わると、仕方なく俺は小波とホテルに行って彼女を抱いた。特別にいいとか、何にもなかった。むしろ痛がられて行為を続けるのが億劫になった。小波が気持ちよかったのか、いったのかもよく分からないし、だが出血はさせたのでこれでいいのかと、俺のほうは余裕があったのでゴムを剥がして自分の手で射精した。
 ベッドに横たわると、小波が腕にしがみついてきた。「友達はこんなことしません」と俺は緩くそれをほどいて、まくらを抱える。
「今だけでいいから」
 俺は背中にくっつく小波を見やって、ため息をつくとまくらを置いて、身を返して抱き寄せてやった。小波は俺を見上げて、ヘアピンをしていなくて見慣れない感じの顔で咲う。「幸せ」と小波は俺の心臓に耳を当て、「ふうん」と俺はどうせつけてもAVなので、真っ暗なテレビの画面を眺めた。
 こうなったからって彼女面しないよなあ、とやや不安もあった。小波は割り切るとかそういうことが下手だ。だから、俺がふらふらするのにも口出ししていた。
「俺、終電には帰るぞ。休憩しか取ってないし」
「泊まっていかないの」
「うん」
「いつも朝帰りしてるじゃん」
「そういうのやめろって小波が言ってたじゃん」
「……もう言わないよ」
「どっちにしろ、今日は帰る。最近、家族がうるさいって言ってるだろ」
 大嘘だけれど。小波と過ごすことになった放課後は、俺は朝帰りに厳しくなったと言って、家に帰るようにしている。小波にひと晩じゅうじわじわ言い寄られるなんて、重すぎる。
「そういえば、涼が言ってたけど」
「ん」
「去年のクリスマス、涼の家で三人で過ごしたじゃん」
「そうだな」
「夏休み、今度は有栖の家に集まりたいって」
「俺の家、何にもないぞ」
「何にもないからいいじゃん。涼、煙草見つかってひどかったらしいよ」
「どうせ涼しか吸ってなかっただろ」
「あたしと有栖にそそのかされたことになってるみたいだよ」
 俺は舌打ちして、涼の奴、と思った。まあ、そのへんは調子のいい奴だとは知っている。
「それで、涼の家は無理でしょ、あたしも男の子ふたりを連れこむなんて無理、だから有栖の家」
「まあ、いいけど。どうせ姉貴しか顔合わせないだろうし」
「親は仕事?」
「そんなとこ」
 また大嘘だけれど。萌香しか家にはいない。まさか、涼と小波が来た日に限って、かあさんが帰宅してくるなんてないだろう。とうさんが帰ってくるなんて、もっとありえない。
「じゃあ、来たい日、涼といくつか決めといて。その中でいい日を俺が家族にも訊いて決めるから」
「ん、分かった」
「涼ドタキャンだったとか言って、小波だけ来るのはなしだからな。その場合は中止だ」
「分かってるよ。有栖って、そんなガード堅いのに、女ふらふら漁ってるの?」
「ガード堅いから漁れるんだろ。病気も妊娠も起きないように、冷静にやってるんです」
「ふうん」と小波は俺の胸に額を当てる。小波の肩の柔らかい曲線を見て、萌香だったらなあと相変わらず思う。
 萌香だったら、きっと俺のほうが甘えてしがみついて離さない。萌香は俺の腕の中で、困ったように咲う。萌香の髪はきっと俺と同じ匂いがする。それがたまらなくて、キスをして、性器に触れあうとお互い濡れている。
 夏休みか、と時計を気にしながら小波との会話を思い返した。萌香と同じ屋根の下で過ごす時間がぐっと増える。毎年、すごく我慢する。
 それより以前の夏休みは、気が狂いそうに甘い蜜月だった。あの男の部屋には通う日が決まるくらいになっていて、そのとき以外は、ずっと俺の部屋で戯れていた。萌香はよく妊娠しなかったなあと思う。思春期、俺の精子が濃くなるから萌香は距離は置いたのかとか悩んだときもあった。でもやっぱり、そうじゃなくて、あの男が彼女と結婚して萌香に悪戯できなくなったのが原因だと思う。
 翌日の昼休み、俺は涼と敏輝と潤弥と食堂で昼食を取った。涼は小波本人から聞いたらしく、とっとと俺が小波と寝たことをふたりに話した。そしてそれが恋人に進むためでなく友達に落ち着くための退路と聞いて、「贅沢すぎるだろ」と敏輝にも潤弥にも小突かれた。
「ほんとにそれでいいのかよ」と涼はちょっと不服そうで、「逆に何でお前が気に入らないんだよ」と俺は香辛料が立ちのぼる中辛のカレーを食べている。
「そりゃ、秘かに小波の相談受けてましたから」
「マジか。でも無理だな、あいつは」
「やっておいて、何で、んなこと言えるんだよ」
「勃たなかったとか?」と潤弥が言うと敏輝が笑い、「中ではいけなかったな」と俺は嘘ではないことを言う。
「それって、小波が緩いって言ってんの?」
「いや、俺の集中力の問題」
「確かに、いちいち集中して勃起すんのって、けっこうしんどいけどなー」
「集中しなくてもぽんぽん勃つほうがうぜえだろ」
「小波いいと思うけどなー」
「じゃあ、涼が口説けば」
「俺はお金持ってる年上じゃないと無理」
「俺も──無理なんだよ」
「今、溜めたな」
「何か理由あんのかよ」
 俺は肩をすくめて何も言わず、涼の豚カツ定食からカツをひと切れ奪って、口に放った。「あーっ」と涼の注意さえそらせば、話題はもうそこに戻らなかった。
 昼休みが終わると、教室でうとうとと五時限目と六時限目を受けて、放課後、また四人で駅前のゲーセンで遊ぶ。
 萌香は仕事に出たかなとふとスマホを見ると、『今日はオフだから帰り待ってる。』というメールが来ていて、俺は慌ててかばんをつかんだ。
 やっぱり、朝に顔を合わせられないのは不便だ。萌香は自分からいつがオフなのか前もって言わないし、俺は不意にこうして萌香を待たせていることを知って泣きそうになりながら帰る。
 ちょうど電車が来ていて滑りこんだのと同時に、「乗るから待った!」という声がした。俺なら叫ぶより待つだろうな、と振り返って目を開く。
 扉のそばで息を切らしていたのは、上の空で謝ってゲーセンに残してきたはずの涼だった。
「あー、焦った」
 そうつぶやいて涼は車両を見まわし、混雑も減ってきた中で真向いの扉にもたれていた俺を見つけると、「よっ」と歩み寄ってくる。
「有栖、たまにいきなりこんなふうに帰るよな」
「敏輝と潤弥は?」
「お前みたいに置いてきた。ちょっと、今日は有栖とふたりで話したかったし」
 俺が眉を寄せると、「その話で当たり」と涼はにやっとした。俺は鬱陶しくため息をつくと、「小波に言われたのか」と静電気のようにいらっとする。
「いや、小波の話を聞いてきた俺自身の判断」
「小波の話って……」
「けっこう長いよ、あいつの気持ち」
「知らないって。興味ないから、考えたこともなかったし」
「ほんとに」
「ああ」
「小波も不憫だなー。バレンタインだって、明らかに俺へのとは違ったりしてたのに」
「『高いほうが味も安心でしょ』って言われた気が」
「それ信じるか」
「信じたな」
「ったく、お前鈍感な」
 俺は少しむくれて、ポケットの中のスマホに触れる。萌香に『帰る』とひと言でもメールをしたいのに。そんな隙もなく、ホテル街もある駅を通り過ぎると、座席も空いたので俺たちは腰を下ろした。

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