壊れそうな頭【2】
小波が入学式から俺に一目惚れしていたという涼の話に適当に相槌を入れながら、涼にしては懸命に小波をアピールするなあと感じる。でも涼が小波のことを好きで、小波の幸せを想って話しているとは思えない。こいつはそういう奴ではない。俺のことも小波のことも好きだから、くっつけば嬉しいだけなのだろう。
それでも、涼に実の姉に想いを寄せているなんて話はしようと思えない。降りる駅が近づいて俺がカードケースを取り出していると、「俺も降りる」と涼が言い出したので俺は怪訝を浮かべた。
「何だよ」
「いや、降りてどうすんだよ」
「有栖の家行く」
「は? もういいだろ、小波のことはあきらめろ。どうしても可哀想ならお前が彼氏になれ」
「ゲスなこと言ってるぞ」
「小波は友達で納得してるし、させたし。お前が心配しなくていいんだよ」
「ほんとに友達ではいてやるのか」
「そのためにやったんだよ」
「それって、厄介ばらいじゃないよな」
「ちゃんと仲良くするよ。らしくない心配すんな」
俺はシートを立って、冷房が吹きつける中、扉の前まで歩いた。涼は膝に頬杖をついて、仏頂面をしている。ちらりとすると、しっかり視線が合った。電車がホームに滑りこんで、車掌のアナウンスが流れて、後ろに降車する大人が何人か並ぶ。広告ステッカーが貼られた扉が両側に開く──
その寸前、俺は負けた息をついて「涼」と呼びかけた。
空気がむっとした白い電燈のホームに降りて待つと、涼がかばんを連れて降りてきた。並んでいた人が乗りこみ、電車は行ってしまって、ちょっとホームの密度が減る。「泊まるのか」と俺が訊くと、「分かんない」と涼は屋根の向こうの夜空を一瞥した。
「ちょっと意外だ」
「何が」
「涼が小波のことに、そんなに熱心になるの」
「別にあいつに惚れてるとかじゃないよ」
「分かってるよ」
「ずっと、相談受けてきたから。けっこう発破もかけてきちゃったし。何か、俺まで気まずい感じが」
「気にしなくていいよ。悪いのは俺なんだろうし、小波も涼のことは責めない」
「そうかな」
「うん。ちゃんと今まで通りだよ。夏休みも三人で遊ぶし」
「……分かった。何かごめん。確かにしつこかった」
「いや。家どうする? 寄ってく?」
「行っていいのか」
「別にいいよ。何で」
「何か、有栖って家に呼んでくれないからさ」
「来たかったのか?」
「少し」
俺は肩をすくめて歩き出し、涼は隣を追いかけてきた。そのあと、涼は小波の気持ちを押しつける話はしなかった。こいつでも気まずいとか気にしたりするんだなとか思ってしまう。
改札を抜けて駅構内を通り、私鉄の駅に移動するとそこから地元に帰ってくる。窓の向こうは、夜景というより、もうただの暗闇だ。街燈と街路樹だけで人気のない夜道を歩きながら、「マンションばっかり」と言う涼は一軒家に住んでいる。
いつものマンションの自宅にたどりつくと、鍵をまわしてドアを開けた。
奥からテレビの音が聞こえてきた。「親?」と涼は俺を見上げ、「姉貴」と俺はスニーカーを脱いで家に上がった。ダイニングキッチンには皿だけ並べられていて、萌香は本当に俺を待って食べていないみたいだった。
リビングのソファには萌香の背中があって、テレビが流しているのは映画みたいだ。「そんなの、今日やってたっけ」と言うと、萌香は振り返って空のレンタルケースを見せてきた。
「観たいのでもあった?」
「観ておくと話題になるから」
「オフは仕事のこと忘れろよ」
「どうせ、ほかにやることはないもの」
「っそ。夕飯何?」
「おそうめんとちらし寿司」
「夏だな」と俺が言ったところで、萌香が首をかしげて俺の背後を見た。「あ」と俺は振り返り、きょろきょろしそうなのをこらえている涼のすがたを認める。
「友達?」
「うん。涼、俺のねえさん」
涼は俺のかたわらに来て、萌香と見合った。萌香はどんな笑みを向けるべきかちょっと迷ったような表情で、「こんばんは」とそれでも物柔らかに涼に挨拶した。「あ、」と涼はやや間の抜けた声で言って、急いで頭を下げている。年上の女なんか、こいつが一番慣れている生き物だと思うのだが。
「ふたりで食べてきたの?」と萌香は俺を見上げてきて、「食ってないよ」と俺はキッチンを見やる。
「三人分には足りない?」
「ちらし寿司は余るかなって思ってたから。大丈夫、おそうめんも湯がけばあるわ」
「じゃあよろしく。涼、部屋行くぜ」
「あ、うん。──何か、すみません」
萌香は立ち上がりながら微笑んだものの、特に言葉はなかったから、ちょっとは動揺しているらしい。そういえば、この家に俺と萌香以外の人間がやってきたのは何年振りだろう。萌香って友達とか連れてこないよなあと気づきながら部屋に向かう。まあ、俺も連れてこなかったわけだけれども。
ずっとこの家はふたりだけの秘儀の場所だった。俺はさすがにちょっと違和感を覚えて、いけなかったかな、とちらっと思った。そんなのうぬぼれかもしれないが、萌香は俺との場所を他人に晒してほしくなかったのかも──
「ちょ、やばい、有栖。あれはやばいだろ」
明かりをつけて部屋のドアを閉めると、涼は途端にかばんを放って俺の肩をつかんで揺すってきた。「は?」と俺が本気でぽかんとすると、「あの人は反則だろ」と涼はリビングのほうを指さす。
「何が」
「お前を女にするとあれか。えっ、うーん。どうだろ。分かんねえけど、あれはやばいよ」
「何がやばいんだよ」
「お前が女装したって、あんな美人にはならねえぞ」
「……美人」
「あ、姉弟だからそういうの分かんないか。分かんないよな。あれはSSクラスの美人だからな」
俺は涼の手をはらって、ネクタイを緩めながらベッドサイドに腰かけた。
そんなことは知っている。俺が誰よりも知っている。姉弟だから。一番近くで育ったから。萌香の美しさに見蕩れて、欲しくて、手に入れたくて、貶めてまでしてこの腕で抱いた。
「あの姉貴、名前は?」
「………、萌香」
「萌香さん。へえ。いいなあ、あんな姉貴いいなあ。俺が弟だったら、弟でもくらっといってるなあ」
「姉貴は、涼がいつも口説いてるタイプの女じゃないぜ」
「口説く女と好みの女は違うんだよ。落とせる女を口説くもんなんだよ。好みは手に入らなくても憧れる感じ」
「ああいうの好きなのか?」
「すっげえ好き」
「……ふうん」
「うわー、もっと早く有栖の家に来てればよかった。これからまた来ていい? いや、仲良くなれるとは思ってないけど。つか、彼氏いる?」
「さあ」
「だよな。俺も兄貴と弟に何かいるかとか知らねえな。彼氏いたら、そいつ幸せすぎるよ」
ネクタイをほどいて、俺は涼のこともうらやましい、と思った。萌香を好きだ、好みだとあっさり口にできる。何だか、小さなトゲに摩擦されているように心がいらいらする。
そして、とっさに思ってしまった。萌香がそう思っているかどうかより、俺のほうが思った。
何か、連れてこないほうがよかった。
こいつに萌香をもう見せたくない。声も聴かせたくない。口をきいてほしくない、料理も食べてほしくない、笑みを向けられてほしくない。
それは全部、俺だけが独占できるものだ。関係が終わった今も、萌香を誰にも渡したくないと思っている。誰かに取られるなら、殺してでも萌香を手元に置いておきたい。それか、近づく虫を駆除してやる──……
そのとき、本気で自分の気が狂ったのかと思った。一瞬、涼の首にナイフを走らせるところを想像した。その鮮血に微笑んだ自分が分かった。そして、萌香の手をつかんで逃げる。
三人で夕食を取りながら、俺は意識が錯乱して息が震えそうになった。どうしよう。俺は何を思っている? 親友を殺したいと思っている。萌香にそれ以上近づけないために、殺したいと考えている。
やめろ、涼。頼む。やめてくれ。それ以上、萌香に興味を持たないでくれ。萌香の料理を褒めたり、器用に萌香を咲わせたりしないでくれ。俺から萌香を奪うなんて夢は見るな。そんな夢を持っているのなら、俺は本気で、お前の喉に包丁を突き立てる。
「かわいい子だったわね」
萌香の声にはっとして、俺は赤い妄想に囚われて自分が喪神していたのに気づいた。涼はいつのまにかいなくなっていて、萌香は食器を洗っていて、俺は食器乾燥機にあった食器を片づけていた。
え、と混乱が続いた。何。ぜんぜん憶えていない。気絶していたわけではないのに、記憶が飛んでいる。涼来たよな、と思っても、本当にいつの間に消えたのか分からない。
俺は萌香を見た。萌香はオレンジがほのかに香るスポンジで食器をこすっている。
「……え、」
「有栖の友達にしては、おもしろい子だったし」
褒めている。萌香が涼を褒めている。また頭の中が赤黒い嫉妬に染まりかけて、俺は息をゆっくり吐いてから、手にしていた食器を棚に置いた。
「ねえさんを気に入ってたよ」
「え」
「あれって、やっぱり紹介しろってことなのかな」
萌香は手を止めた。けれど俺を見ない。こっちを見てくれるだけでいいと思った。そしたら、もうひと息に萌香を抱きしめる。しかし萌香は俺を見なくて、また食器を洗いはじめながら言った。
「してくれるなら、私は構わないわよ」
唇を噛んだ。萌香の細い首が視界でぶれて、そこに手を伸ばして絞め上げたいと思った。
俺以外の男を見ようとするなんて許さない。そんな萌香はいらない。それ以上俺を突き放すなら死ね。死んでくれ。
そして、俺のそばに横たわればいい。萌香が生きていようが死んでいようが、そんなことはどうでもいい。俺のものであればいいのだ。それを叶えるためなら萌香の命など犠牲にする。俺は怖いと思わない。萌香を殺すことに恐怖を感じない。むしろ、もうそれだけが残された萌香への愛情なら、今すぐ──
殺したい。萌香、あんたを殺したいよ。殺したいほど俺はあんたを愛してるのに、どうして分かってくれないんだ。
俺を見てくれよ。俺だけを見て、その瞳を潤ませて、うわごとをまた繰り返してくれ。「有栖が好き」って、もう一度……壊れたみたいに言ってくれ。
【第十三章へ】