茜さす月-14

朽ちる絆【2】

「ねえさん」
 蝉の鳴き声が響くガラス戸に、頭までもたせかけていた私は、視線だけ声のほうに向けた。隣に有栖がひざまずいていた。
「嫌だった?」
「……え、」
「涼のこと、乗り気になれない?」
「………、分からない」
 有栖がじっと私を見つめて、その瞳がじわりと軆を痺れさせて、私の視界が滲んだ。有栖の指が私の頬に触れて、こぼれた涙をすくった。
「ねえさん……」
「……分からない、から」
「うん」
「萌花に……相談とか、して」
「うん」
「考える……」
「そっか」
「有栖は、私とあの子がつきあってほしいのね」
「………、そしたら、俺はひとりになるのかな」
「えっ」
「……寂しいかな」
 有栖は手を引いて、立ち上がろうとした。私はその手をつかんで身を起こした。ぎゅっと手を握って、有栖の体温や指の関節を感じ取る。
 有栖がちょっと泣きそうな顔をした。
「私は有栖のそばにいるわ」
「ねえさん──」
「私が誰かとつきあってても、有栖が誰かとつきあってても、そばにいる」
「……でも、」
「だから、有栖も私のそばにいて」
 沈黙が流れた。ゆっくり、有栖も私の手を握る。有栖は、小さくうなずいた。私はやっと微笑んで、有栖の視線が潤みかける。
 かわいい有栖。私の有栖。
 姉弟という関係が私たちを引き裂いても、それでも私は有栖しか愛さないまま死ぬ。早く死にたい。この想いを「永久」に磔にしたい。そして、有栖にその涙を供えてほしい。
 月曜日は、有栖が帰ってこないまま出勤時刻になった。駅で会った萌花はマリンブルーのキャミソールワンピースで、肌の露出はママによく褒められている。私はやっぱ肌を見せないアイボリーのスーツだ。萌花と一緒に電車に乗って、いつもの歓楽街に向かいつつ涼くんのことを話す。萌花は営業メールを面倒そうに送信しながら、「年下なー」と眉間に皺を寄せた。
「あたしは年下にモテないから分かんねえな」
「……そうなの?」
「昔からおっさんはよく釣れるんだけどな」
「それは、……仕事で、でしょ」
「やりたいと思わせるんだから一緒だろ。で、その弟のダチって顔はいいのか」
「かわいい感じだった」
「弟によると、性格はえぐいと」
「えぐいというか。年上とつきあって、お金とかを全部女持ちにさせるとは言ってたわ」
「最悪だな」
「……でも、私のことはそういうふうにあつかわないかもしれないから、弟はその子のためにも紹介したみたいね」
「更生目的かよ。まあ、ヒマならつきあって更生させて、治ったら放流すれば弟は納得するんじゃねえか」
「ほんとに、私がちゃんとさせられるのかしら」
「治らなかったら、それはそれで見切ればいいだろ。萌香の話し方の感じ、とりあえず好きになる見込みはない感じだろ」
「そう、ね」
「それでも弟の期待に応えたいなら、ヒマつぶしのゲームと思えばいいじゃん。萌香が男とつきあうのはいいことだとあたしは思うよ」
「………、うん。考えておく」
「おう」と萌花はにっと咲ってきて、私より断然早いフリックでメールを作っていく。
「ところで、萌花ってほんとに年下にモテないと思ってるの?」
「萌香が一番、あたしの歴代の男を見てるだろ」
「そうだけど──」
 静の名前を出したかったけど、本人の許可も何もなくほのめかすのもよくないかと口をつぐんだ。
 窓の向こうはまだ明るい。電車の中は冷房が効いているのに、それでも混んだ熱気で蒸している。
 私もスマホを取り出すと、まずは返さなくてはならないメールを打ちはじめた。有栖からの返信は来ていない。
 よく考えたらあと数日で夏休みだなあ、なんて思った。
「あっ、初めましてっ。有栖くんといつも仲良くさせてもらってます」
 有栖の夏休みが始まって初めての週末、有栖は涼くんだけでなく、ボブカットに差すヘアピンと丸い瞳がかわいらしい女の子を連れてきた。小波さんという名前で、去年のクリスマスには、その三人で過ごしたくらい仲がいいらしかった。
 確かに去年のクリスマスは、朝に帰宅したら有栖がいなかったなと苦く思い出す。そのへんの女と都合よく過ごしていたと思っていたから、そのままでいさせてほしかった。涼くんもいたとはいえ、親しい女の子といたなんてあんまり知りたくなかった。
「で、何のDVDレンタルしたんだよ」
 有栖の部屋でなくリビングで過ごすようだったので、私はソファから立ち上がった。ペットボトルの紅茶を手に、有栖たちのそばをすりぬけると、有栖はこちらなんて見ずに涼くんに問う。
「ホラー! 上映禁止のスプラッタ」
「あたしはガキっぽいって言ったんだけど」
「小波は女だから血ぐらい見慣れてるだろ」
「涼さ、男がそれ言うなよ」
「ホラーとか、俺あんまり見たことない」
「じゃあ、有栖を真ん中にして見よう」
「つか、お前らが昼飯食ってくなら、さすがにねえさん手伝って飯作らないと──」
「じゃあ、俺が手伝ってきますから。有栖は小波とホラー祭りだ」
「よっし、有栖が泣かないか楽しみっ」
「何かそれ、小波のほうがガキっぽくないか」
「いいじゃん、一緒に見てあげるのが楽しみで、あたしも半分お金出して借りてきたんだよ」
 私はキッチンに踏みこんで、冷蔵庫にペットボトルをしまった。そして、聞こえないようにため息をついた。
 私が昼食を作るのか。そうなるかも、とは事前に聞いていたので、食材の用意はしてあるけれど。献立を考えるのが面倒だったので、トマトと挽肉で冷製パスタでも作るつもりだった。有栖だけに作るなら、あと一品考えてもよかったけれど、四人分ならいらない。
 四人分、とはいっても、さすがに私だけあとで食べることにして席も外したほうがいいだろう。もし一緒にと言われても断る。あの輪に入れないし、入りたくない。私と有栖が壊れていく音を聞くみたいにつらい。
 三人はテレビを占領して、私もシリーズタイトルを聞いたことのある洋画の殺人鬼ホラーを見始めた。
 小波さん、か。有栖の腕に触れたり、耳打ちしたりする回数が、いやに多い。見ていると、いらいらする。有栖に近すぎる。告白してきた子を連れてくるかもしれないと有栖は言っていたし、あの子がそうなのだろうか。有栖はその子を振ってしまうようなことを言っていたのに、もしそれが小波さんなら、ぜんぜん拒絶していない。
 むしろ、何となくその匂いを嗅ぎ取ってしまう。私も、昔は有栖とそうだったから分かる。あの子、たぶん有栖と寝た。有栖の肌に触れることに妙に安心しているというか、その権利があると自覚しているというか──
 だからいらいらする。私はもう有栖に触れられない。画面にわざとらしい血がほとばしると、当然のように有栖にくっついて、笑いながら肩に顔を伏せている。
 時計を見ると、午前十一時にもなっていない。それでも、量を考えたら昼食の支度をしたほうがいいのだけど、少し部屋で休みたい。有栖と小波さんを、視界に入れていたくない。また音を殺してため息をつき、廊下に出て、自分の部屋に入ってしまおうとしたときだった。
「萌香さん」
 背後に声がかかって足を止めた。かえりみると、涼くんが駆け寄ってきていた。ちょっと頬を染めて上目遣いで、やっぱりかわいい男の子だなあと思った。
 有栖とぜんぜん違う。
「あの、えっと……何か急によく来るようになってすみません」
「……有栖の家だから、あの子の自由よ」
「もともとは、俺も小波と夏休みに来るはずだったんですけど、その、初めて来た日っていろいろあって」
「いろいろ」
「その、……言っていいか分かんないけど、小波は一度有栖に振られてて」
 振られてる。やっぱり、告白したのはあの子なのだ。でも振られた距離感は見取れない。つきあっている親密さもないけれど。
「それでも、小波は有栖が好きなんですけど。有栖も──何でOKじゃないのか、俺には分からない感じで」
「………、あのふたり、関係はあるんでしょう?」
「えっ」
「分かるわ。何となく」
「そ、そう、……ですか。まあ、そうらしいです。小波が『処女もらってくれたら忘れる』って言ったらしくて」
 鼻で嗤いそうになった。そんなくだらない台詞でがっつく女が、本当にいるのか。有栖はそれで本当に吹っ切ってくれると思ったのだろうか。思ったけれど、口にしても嫌味なのでこらえた。
 ただ黙っていると、「というか」と涼くんは頭をかいた。
「そんな話じゃなくて。小波は頑張ればいいし、有栖は理解しろって話ですよね。すみません」
「ううん」
「ただ、その──そういうごたごたがあって、俺もあの日わけ分かんなくなってて、有栖にここまでついてきて。それが初めてお邪魔した日なんです」
「ええ」
「それからは、小波とまた来るし、別にそんな来なくてよかったのかもしれないけど。けど、その、萌香さんに会いたくて」
 涼くんの頬がじわじわと赤くなっていく。年上の女は財布。私のこともそう思って、そういう反応を現しているなら、この子はよっぽどの女たらしだ。
「萌香さんには、俺なんか眼中にないって分かってます。何か、紹介してもらったときで、それ感じましたし」
「……そんなことは」
「じゃあ、つきあってくれますか」
「え」
「俺、萌香さんが、好き……です。今まで、女のこととかそこまでちゃんと考えなかったけど、萌香さんのことは絶対幸せにします」
 涼くんは真っ赤になってしまった顔をちょっと伏せて、私はそれを見つめた。
 廊下は冷房が届いてなくて、ちょっと暑い。
 涼くんは私を見た。私は静かにまばたきをして、リビングの小波さんの声をぼんやり聞いた。有栖も何か答えている。ふたりがこちらを窺わないのは涼くんへの気遣いなのだろうけど、代わりに私の気持ちはこの状況を押しつけるように無視される。
 有栖も私の気持ちを無視している。私がこの場で涼くんを受け入れるように仕向けて、無視している。自分に告白した女の子といちゃついているようなことをして、私を──
 ああ、有栖、本当に私のことがどうでもよくなってしまったのね。寂しいなんて言っておいて、結局あなたには小波さんがいるってことなのね。
 このままじゃダメなんだ。もう終わってる。とっくに私たちは終わっている。私と有栖は姉と弟で、女と男じゃない。私たちの蜜月は、とうに朽ちている。
 同じ屋根の下に存在しているだけの、他人より遠い単なる肉親。血のつながりしかない、心はちぎれた冷たい家族。私と有栖には絆なんてもう存在しない。
 涼くんを見た。視線が重なって、私は微笑んだ。有栖以外の男はみんな同じだ。それは変わりない。だから私にはこの子じゃないけど、裏を返せば、この子でもいいということだ。有栖以外の誰かとつきあうなら、誰だって同じ──
 だから私は涼くんに近づいて、優しくキスをした。

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