紅の木の葉
駅構内のカフェに入って、俺とそよ乃にドリンクをおごってくれたその人は、浪内さんと名乗った。
ちなみに神凪は雨でMV撮影が中止になり、すでに帰宅したらしい。
神凪のマネージャーが、俺たちに何の用だろう。一般人のそよ乃はアイドルの神凪に近づくなとか。だとしたら、一応言わなくてはならないのは、そよ乃につきまとっているのは神凪のほうだということか。
ブラックコーヒーを飲んでため息をついた浪内さんは、しばらく考えたあと、「僕と瑠斗は、もともと幼なじみで」と切り出した。
「いつも、こういう場合は僕が謝ってきたといいますか……」
「謝る」とアイスロイヤルミルクティーを飲むそよ乃が言葉を拾い、ホットカフェモカをすする俺も浪内さんを見る。浪内さんは申し訳なさそうに、「何というか」と言葉を選ぶ。
「その……正直に言って、瑠斗、しつこいですよね?」
「しつこいですね」
ばっさり答えるそよ乃に、浪内さんはまたため息をついて、頭を垂らした。これは、とりあえずそよ乃を責める流れではないのか。
「すみません。あいつ、悪気はなくて、ほんとにそよ乃さんが好きなだけだと思うんです」
そよ乃は無表情なまま、「でも迷惑です」ときっぱり言った。
無情なほどはっきりしてんな、こいつ。
「私、ずっと森羽とつきあってきたし、これからも森羽とつきあうんで」
「そうですよね……」
「そうです」
「手に入らないから、余計に瑠斗も執着してるんだと思うんです」
「ガキですか」
「………、一週間つきあえば、飽きると思うんですが」
「一週間のうちにどこまでされるんですか」
「確かに……。困ったなあ。瑠斗、最近仕事でも集中を切らしやすくなってて」
「仕事は割り切ってしっかりやってるんじゃないんですか」
俺がそう口を開くと、「創作スピードは落ちてます」と浪内さんは言った。
あいつ、創作とどこおってんのか。ごめん、嬉しい。
「彼氏がいるならあきらめろって、僕も言ってるんですけど」
「俺のことがムカつくのも、拍車かけてんじゃないですか」
「まあ、彼氏くんのことはよく言ってないですね」
「森羽はすっごいいい彼氏ですからね」とそよ乃がきっぱり言ってくれる。
「そこは、神凪くんの言うこと信じないでください」
「分かってます。じゃあ、そよ乃さんから瑠斗を振ってもらうというのは」
「いや、振ってますけど」
「今一度、はっきりと」
「あの」と俺は軽く手を挙げる。
「待ってください。神凪のファンがですかね、けっこうそよ乃に風当たり強いんですよね。つきあったらブチ切れるでしょうけど、振っても切れそうなんですよね」
そよ乃は俺を見る。「だろ」と俺がそよ乃に確認すると、そよ乃は一考し、浪内さんに向き直って「取り巻きの子にはどのみち私はもう悪者なので」と静かに言う。
「もう一度、神凪くんを拒否してみます」
「そよ乃──」
「平気。私も神凪くんうざいし」
「ほんとにすみません」と浪内さんは深々と頭を下げた。神凪がやらかすたび、この人がこうしているのかと思うと不憫な気がした。
「あいつ、子供の頃にいろいろ苦労して、今、屈折してしまっている部分もあって。可哀想な奴と思ってくれていいんで」
可哀想、ねえ。
俺が頬杖をついてカフェモカを飲んでいると、「浪内さん、昔から神凪くんのことそうやってフォローしてるんですか」とそよ乃も不憫になったのか首をかしげる。
「まあ、はい。僕はあいつの兄貴みたいなものなんです。一時期は、一緒にバンドやったりもして。バンドから瑠斗だけ引き抜かれるとき、マネージャーでもいいから僕がついてこないと嫌だって瑠斗が言ったんで、僕ごと今の事務所に引き抜いてもらったんです」
「わがままですね」
「……わがままになるような環境だったので。何というか──ネットで非公式に流れてますが、瑠斗は親がネグレクト気味で、幼い頃から引きこもりだったんです。部屋で創作やってる時間だけが救いだったんですよ」
「……引きこもり」
「それと、ネットもずいぶんあいつの支えになったみたいです。当時憧れてたサイトの管理人さんの話は今でもよくします。もうどこで何やってるか分からない人もいて、その人とつながるために有名になりたいって、今の活動も頑張ってるんです」
「はあ……」
そよ乃は意外そうに答え、意外と地道な理由でアイドルやってんだな、と俺は香りが立ちのぼるカップを置く。
「特に、一番憧れて影響も受けてるっていう、モミジさんって人がいて。その人に会いたい気持ちは強いみたいです」
………。
──はい?
俺は一瞬固まり、ついで浪内さんを見た。
モミジ──だと。え。モミジ?
そよ乃も表情に驚きを走らせ、俺を見る。
「も、モミジって……」
「小説書いてる人だったらしいです。その小説が今では読めないから、あいつ、それがつらいっていまだに言ってます」
テーブルの影で、そよ乃が俺の手をつかんだ。俺はそれを握り返すのも忘れ、体温が白くなっていくのを感じた。
いや。いやいやいや。待て。そんな、待て。同じハンネの物書きもたくさんいるはずだ。
「あ、の……」
「はい?」
「その、モミジって奴のサイト名とか……」
「え、それは──何だったかな。ええと……あ、“Ruby Leaf”じゃなかったかな」
俺とそよ乃は顔を合わせた。お互い、完全に顔が引き攣っている。
“Ruby Leaf”。赤い葉。紅葉。モミジ。で、俺。
俺は変な声を上げて、頭を抱えた。浪内さんは唐突な俺の反応にぎょっとして、「どうかしました?」と覗きこんでくる。
心臓がばくばく暴れている。マジかよ。どんだけの低確率だよ。あの中二病サイトが神凪を支えた? つながりたかった? そのために頑張ってきた?
やっべえ……いい迷惑でくらくらする。
「え、もしかしてモミジさんに心当たりとか」
「な、ないですっ。まったくもってないです」
「そ、そうですか。びっくりした。まあ、会えることなんてないでしょうしね」
「そうですね……。もし会っても気づくわけないですしね……」
「確かに。でも、どこかでモミジさんが瑠斗を見てくれてるといいなって僕も思います」
見てるよ。ガン見だよ。ただし、たっぷりと妬む目でな。
そのあと、浪内さんはそよ乃に神凪を振ることを改めてお願いし、「お時間取ってすみませんでした」と頭を下げてカフェを去っていった。
俺は鉛のような重い息をつき、「うわー……」とそよ乃がつぶやく。俺はまぶたを伏せ、そうか、と冷静を努めながら思った。
神凪は俺のサイトを見ていたのか。あのサイトを見ていた。小説も、ブログも、SNSも──
耐えられない爆裂する羞恥心に、俺は沈没するみたいにテーブルに伏せった。
「モミジ先生」
ぽん、とそよ乃が俺の肩に手を置き、「マジでその名前やめて……」と俺は消え入りそうに言う。
「神凪くんが憧れてるらしいよ」
「やめて……」
「あの神凪瑠斗が」
「マジやめて。怖い。ほんと怖い。何であんな辺境サイト見てんだよ」
「神凪くんは、森羽の小説が読めなくてつらい」
「そよかぜさん、ほんと揶揄わないで」
「懐かしいなあ、そのハンネ」
「ありえないだろ。うわあ……。ばれたら死ぬ。いや、俺だったら幻滅してくれるかな。幻滅しそうじゃね?」
「まあ、今の印象がそうとう悪いしねえ」
「俺がモミジだってばらしたら、そよ乃から手え引くかな?」
「どうだろ。まあ、それはしなくていいよ」
「でも、それでそよ乃を助けられるなら」
「幻滅しなかったら? 今度は森羽にまとわりつくじゃん。私は森羽との時間を邪魔されたくないの」
「そうか……。あー、じゃあ、マジ秘密だからな。どうせあのサイト見てたってことはメンヘラだろ」
「ネグレクトされた引きこもりだね」
「そんなん知らねえよ。同情しねえよ」
「あのね、私、言い寄られて知ってるけど、神凪くんってすごい粘着だからね。ばれないようにね」
「分かってるよ。あー、最悪。あのサイトやってたの、マジ黒歴史だな。消したい」
「まあ、私と出逢えたことに免じて」
俺は上体を起こしてそよ乃を見て、「ほんとそよ乃だけだわ」と冷めたカフェモカを飲んだ。チョコレートの味が名残った。
それから、俺たちも席を立ち、カップを返却すると傘を連れてカフェを出た。
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