romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

抜殻の潮騒-3

 それでも、いっそこの耳を壊れものにしたい。本来は使い捨てのものを、しつこく使い続けているみたいだ。わざわざ波で洗わなくてはならない聴覚なんていらない。雑音にいらつかなくていいよう、怒鳴り声に怯えなくていいよう、心の痙攣に泣き出さなくていいよう、こんな聴覚は切断してしまいたい。
 その夜、未晶の夢を見た。未晶の夢を見たのなんて初めてだった。夢の中の未晶は優しかった。昔の未晶だった。僕が泣き出すと、頭を抱いて撫でてくれる。
 しかし、夢の中の僕は、いつもなら未晶が怒鳴り散らすのを知っている。なぜ今日に限って優しいのだろう。僕と向き合う気を持ってくれたのか。僕を許し、受け入れてくれたのか。
「私ね、分かったの」と未晶は言った。
「君が音を怖がるのは、子供の頃、家で──」
 僕は、拒否するように目を覚ました。
 子供の頃、家で──そんなの、違う。虐待されたわけでもあるまいし。あんなのでこうもおかしくなるなんて、被害妄想だ。
 というか、あの未晶は何だ? それに対する僕の心理は?
 じっと暗い天井を見つめてしまう。
 願望、だろうか。僕は再び未晶に根気よくつきあってもらうのを望んでいるのか。バカバカしい。未晶でなくても、誰が僕みたいな人間につきあう?
 夢が暗示する非望は僕をみじめにして、いらつかせた。強迫観念が湧きあがってくる。泣きたい。泣かなくてはならない。ざわめきがふくれあがってくる。悲鳴を上げなくては、喉が不快感に裂けてしまう。
 でも、ここはあの部屋ではない。いらいらする。抑えがつかない。もつれたうごめきに胸がつかえる。涙だけ流そうか。いや、そうしたら、うめきをわめきに崩してしまうに違いない。
 どうしよう。苦しい。泣いて吐き出したい。吐き出さなくては、取りついたいらつきに何をさせられるか──
 暗闇の中、ベッドを起き上がった。虫の声が澄んでいる。木の匂いがする。吐き気に引き攣った呼吸を、肺のあたりをさすりながらなだめた。
 いろんな意味の保身で、自分が島にいるのを心に言い聞かせた。けれど、鬱血した心は、脳の理性に咬みつき、えぐれた傷口からうねる黒雲を排出する。
 ベッドを這い出た。胸をつかみ、除湿の風をくぐってベランダに行った。鍵を開けて、ガラス戸も開けると虫の声が鮮やかになる。
 波の音が遠く響き、その音を聴いた途端、強迫観念が転換した。泣き出すのでなく、波を間近に聴ける浜辺に行きたくなった。そうしたら落ち着くような気がする。
 どうでもいい、落ち着くような気がする、と思ったことをすれば、だいたい落ち着くのだ。ガラス戸を閉め、鍵を取ると、気が暗転しないうちに部屋を出た。
 足元が闇に飲まれる階段にすくみながら、一階に降りる。しかし、玄関で僕は、勝手に鍵を開けて外出できないことに気づいた。
 深夜で麻夢さんも海里くんも就寝している。散歩に行きたいという理由で起こすのは忍びない。
 鍵を開けたまま、出かけようか。いや、それで何かがあったら責任を取れない。気になって、きっと波にも集中できない。
 海をあきらめて、ここでどうにかするか。どうにかでどうかなるのか。下手なことになっても、責任は取れない。
 彷徨うように、食堂に行った。手探りで奥に行き、窓を開けると、二階より波の音が近かった。虫の声も盛んだ。窓に身を乗り出し、ここ飛び越えていけるかな、となりふりかまわない手段を考えていたときだ。
 突然肩をたたかれて、心臓と一緒に飛び上がった。窓の白い月明かりに見取れたのは、海里くんだった。息をつく僕に、海里くんは申し訳なさそうに眉根を寄せる。僕は笑みでそれをほどくと、どうしたのと首をかしげてみせた。
 海里くんは素足をフローリングにすらせ、ついで僕を見る。どうやら、歩きまわる気配を感知したらしい。ばつが悪くなると、海里くんは咲い、どうかしたのかと僕に瞳で尋ねる。
 僕は窓の向こうをしめした。海里くんは僕を見つめ、自分の胸に触る。僕は素直にうなずいた。それで納得した海里くんは、窓を閉めると、ついてくるよう目配せして歩き出した。
 僕は何秒かまごついたものの、海里くんについていく。スニーカーを履き、海里くんは玄関の鍵を開けてくれた。僕も靴を履いて続く。海里くんは外に出、鍵を気にした僕に、平気だと首を振ると庭を横切った。僕は鍵をかえりみて、まだ気になったものの、街に暮らす感覚だろうかと海里くんを追いかける。
 眠くないのと目をこする仕草で訊くと、海里くんはうなずいて門扉を開けた。なぜか坂を下るでなく上りはじめ、僕が下りを指さすと、海里くんは上りを指さす。波が聴きたいんだけど、と思っても、海里くんもそれは分かっているはずなので従った。
 ネオンも車のライトもないここの照明は、虫がひらつく街燈と、星をまとった月だ。瞳より肌で道を覚える海里くんは、なずみなく夜道を駆けていっても、僕はそうはいかない。石につまずきかけたり、寄ってきた虫をはらったり、歩くどころではない。
 ときおり海里くんに待ってもらいながら、僕たちは緩やかな坂道をのぼって住宅街を抜けた。何となく涼しくなった風に、肌が軽くなり、踏みしめるものが柔らかくなる。目をこらすと、草だった。
 周りにも木が茂りはじめ、土の潤った冷たくすがすがしい匂いがする。地面が熱を受け入れる土なので、日中の太陽の反射がとどこおらず、夜の涼しさがただよっている。僕はこの島に来るとき、甲板で見た全景に、中央あたりが木深そうな山だったのを思い出した。
 しんとした風が夏のほてりを癒す中、海里くんについて進む。山に登るのかととまどっていると、海里くんに手を取られた。足元をしめされ、浜辺にあった岩と同じ岩肌が覗いているのに気がつく。
 山奥には行かず、海里くんはその岩肌をたどった。道はごつごつとしていき、もう頼りは月光だ。海里くんは慣れた足取りでも、僕は神経を使わないと転びそうになる。
 頬をすべった風に、ふわっと潮の香りがして、僕は出口の光を感じたように顔を上げた。波が砂浜に寄せる音がした。こんなに涼しいのに汗をかきながら、その音を励みに海里くんの足音を追う。
 そして、不意に木や草が開け、光の粒子が散らばった空が頭上に広がった。岩になった地面に足を止め、海里くんは月明かりと星明かりで望める景色を僕にしめした。
 一面、夜空のきらめきを揺らす海だった。暗くさざめく海面に、月や星が降りそそぎ、透いた金や白い銀となって反映している。光はくっきりと、でも輪郭は滲んで、波に揺らぐ天体は、空を仰ぐよりも幻想的だった。海が果てしない宝石になったみたいだ。闇に見取れない水平線に、ずっと向こうの星影は、もはや宇宙のものか海原のものか判別がつかない。
 潮の香りが強かった。波の音もたっぷりとしている。満ちているのだろう。
 深い陸風が、汗に湿りかけた髪をひんやりとさせ、僕はやっと感嘆の息をついた。海里くんを見ると、月の光に瞳が合い、にっこりとされた。僕もいっぱいになった胸に微笑をこぼす。海里くんは、海に愛情のこもった目を向けた。
 だいぶん、海の空を見つめていた。包まれるような圧倒が、次第に心に収まって、強迫観念も遠くなっていた。僕の心は、自然に息づいて、記憶におおらかになっていた。
 今はあんなのはどうでもいい。五感を中より外に広げ、澄んだ光や風の匂いに、ちっぽけにたたずんでいたい。かきむしられた神経がやすらかに横たわったところで、海里くんに腕を引かれた。
 海里くんは、浜辺への不器用な岩の階段に降りはじめた。これを降りるのか。夜だし、僕は海里くんのように慣れてもいない。転んで変なことになるのがオチだ。そんな僕の憂慮を知ってか知らずか、海里くんはもう一段降りて、僕を振り返る。僕は海里くんと見つめあい、潮騒を感じると、行ってみるかと岩に足を踏みおろした。
 岩の階段は、案の定、厳しかった。段が均一でも平面でもないし、狭いところに降りるときは、目を凝らさないと踏み外して大変なことになる。段差が大きくて、嫌でも飛びおりなくてはならないところや、ヒビが入って飛び越えなくてはならないところもあった。
 海里くんはしなやかな動物のように降りていっても、僕は冷や汗と息切れにまみれてしまった。それでも何とか、ふたりで無事に砂浜に降り立った。
 間近になった陸離とした水面に、苦労は一瞬で報われた。胸に染みこむ音が押し寄せ、砂浜に足痕を残しながら海に還り、それをくぐってまた新しい波が来る。
 上で思った通り、潮が満ちて、いつもより渚と岩場の間隔が狭かった。ふだんは海中から覗く岩は、ほぼ沈んでしまっている。
 僕たちは浜に座ると、顔を見交わし、笑みも交わした。僕の心には、何の悪い名残もなかった。部屋に帰れば、ぐっすりと眠れるだろう。それでも、潮風や白波をじっくり感じていたくて、かすかに熱を残す砂に力を抜く。
「ねえ、海里くん」
 届いていないのを知りながら、僕は抱えた膝に顎を埋めて、つぶやいた。
「僕の家って普通だけど、ときどき、おとうさんが人格が変わったみたいに怒り出すときがあったんだ。おかあさんが怒鳴られて、たまにたたかれてた。僕にはほとんど何にもなかったけど、すごく怖かった。僕がいなければ、おとうさんとおかあさんは相手と過ごす必要がなくなって、幸せになれるんじゃないかとか考えた。自分の存在を正当化したくて、昔はあんなに勉強やって、明るくしてたのかもしれない。でも、無理がつらくなって、我慢してたのを吐き出すようになったら、おとうさんもおかあさんも僕にうんざりした。偽物じゃないと、ダメなんだ。僕自身なんか受け入れてもらえない。おとうさんに、子供みたいにしてるなって言われたけど、子供の頃、怒鳴り声で自分を殺すことたたきこまれてなかったら、僕はきちんと成長できてたんじゃないかな」
 僕は海里くんを見た。海里くんも僕を見る。僕は微笑み、「ほんとは」と海里くんのきょとんとした瞳に話しかける。
「未晶は、悪くないんだ。家族を憎むと、あの声で怒鳴り返されるから、それが怖いから、行き場のない憎しみを未晶に向けてる。帰ったら別れるだろうけど、全部話して、謝らないとね」
 海里くんは僕の口の動きをたどろうとして、追いつけずに首をかしげた。「ありがとう」と言うと、これは見取れたのか、海里くんはまばたきをした。僕は笑んで膝をほどくと、深い息と共に地面に力を抜いた。
 僕はいつも未晶の罵声を責めていたけど、優しさを求めていたけど、彼女は夢の中と違って僕を何も知らない。いまさら知ってもらっても、僕を受け入れてくれるとは思わない。しかし、それでも話さないと。別れるのは、病んで甘えたわがままな僕を、ちゃんと謝ってからだ。
 夜が明ける前に、海里くんが立ち上がったので、僕もそうした。帰りはもちろん、港沿いの通りを歩いた。まだ暗いのに漁師さんが準備を始めていて、海里くんはそれをしめす。それでやっと気がつきながら、僕はこくんとする。海里くんは、漁師さんたちに仕事を教わっているのだった。
 漁師さんたちのところに駆け出した海里くんを見送り、僕はひとりで民宿に帰る。麻夢さんが作りはじめている朝食の匂いがして、何だかほっとした。食堂を覗いてみると、テーブルに白いクロスをかける麻夢さんがいて、「お散歩ですか?」と詮索せずに微笑んでくれる。「ちょっとだけ」と僕は照れ笑いを返した。
「玄関の鍵、開けたまま出ちゃってすみません」
「いいですよ。いつも海里も開けっ放しですから」
「あ、今から少し眠るので、もし九時に降りてこれなかったらすみません」
「朝食、ご用意はしておきます?」
「はい。お願いします」
「分かりました。ごゆっくり」
 僕はうなずいてお礼を言うと、クーラーをかけっぱなしだった部屋に戻った。大きく息を吐きながら、ぼふっとベッドに倒れこむ。シーツの皺は残っていても、うなされた寝汗は乾いていた。まくらに頭を預け、視界を霞ませると、心地よい疲労感に飲まれていき、僕は深く眠っていた。
 十時になる前に目を覚まし、遅めの朝食をもらった僕は、その日は民宿の食堂で過ごした。貨物船が届けた新聞を一瞥して、もう木曜日になっているのを知る。
 日曜日には向こうに帰る。憂鬱だろうか。そうでもない。ここを離れるのは残念だけど、帰るのが嫌だという気持ちはない。
 未晶を想っても、胸が重くなかった。別れると分かりきっているからか、心境の変化が起きたのか。
 僕が消えた未晶は、きっとすがすがしくやっている。今や埋もれてしまった未晶の慰撫を想うと、少し睫毛が陰ったけど。
 次の日は、浜辺で物想いにふけった。
 僕が暮らしているところには、いろんなものがあふれていた。なのに、味気がなかった。この島には生きることしかない。なのに、とても心が満たされる。僕もここにいられたらいいけど、しょせん向こうの人間だ。
 たまに遊びに来るようにはしたいなと伸ばした脚をさすり、水天の青い光に目を細めた。
「海里は、海で聴覚を失ったんです」

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