錯乱するままに
こみあげた強烈な虚しさで目が覚めた。まぶたを開けると、何も見えなくなった。
物凄い虚しさが全身を支配する。空っぽが果てしなかった。その虚しさに茫然としたのち、突如、虚しさの深奥から、空恐ろしい吐き気が奔流になってくる。
何でなのか分からない。嫌悪だろうか。哀しいのか。つらいとか苦しいとか。何なのか分からない。ともかく吐きたかった。
いや、何でもないのだ。僕は吐きたい。それだけだ。
何でもいいから、軆の中を排出したい。今すぐ自分から自分を、どこでもいいから削ぎ落としてしまいたい。
無意識にふとんを這い出た。這いつくばりながらトイレに行った。立てなかった。腰が猛烈に重たい。頭が血管の音に痛い。
頬が濡れている。誰か笑っていた。喉が捻じれそうな感覚がする。どこまでが現実で、どこからが夢の名残か分からなかった。
僕は口を抑えながらドアノブをおろし、明かりもつけずにトイレに入った。水の匂いがした。冷たい陶器を抱えこみ、そこにがくんと上体を折ると、ゆがみに喉元をこじあけられて僕は嘔吐した。
汚い音がした。汚臭もただよった。ろくに知覚できず、また吐いた。
こうなったら、胃を空っぽにするしかなかった。全部吐き尽くすのだ。何でもいいから、どこか空っぽにしたい。
僕は吐いた。出なくなったら中指を飲みこんでおびきよせた。汚れていた。その汚れは、あの穢れの象徴になっている気がした。
もしかすると、これさえ吐いてしまえば、さっぱり忘れて楽になるのではないか。だったら喜んで吐く。すりきれるまで吐く。空っぽになる。そして忘れる。逃げる。僕は苦しい。逃げたい。吐いてしまえば逃げられる。空っぽになれば。
僕はわざとあの光景を反芻した。生々しい。たった数時間前のことだ。思い出すほど吐き気がこみあげる。やっぱり、吐けば汚物に混ぜてあれを脳から捨てられるのだ。
吐きまくった。泣いていた。でも笑っていた。わけが分からなくなってくるまま、自虐的に喉元から捻じれを絞り取り続けた。
だが、妄動は急についた明かりで中断された。心臓がすくんだ。全身がこわばった。
おとうさんだ。見つかったのだ。どうしよう。
嫌だ。今日はしたくない。みんなに犯されたばかりなのに。
「萌梨く──」
「ご、ごめんなさい」
「え」
「ちがう、あの、ちょっと体調が悪かっただけだよ。何にもないから。もう寝るよ」
「………、」
「寝る、から。お、おとうさんも今日遅かったから疲れてるでしょ。僕、僕もちょっと疲れてるし。ほんとに何にもないよ。一緒に寝なくていいよ。ひ、ひとりで、大丈夫だから。心配しないで寝ていいよ。ね、寝てよ。お願い。僕、今日、今日は嫌だよ」
嗚咽に引き攣る口元をぬぐい、涙は手のひらで大雑把に拭いた。水洗しようと右手を上げたら、レバーが触れなかった。とまどって顔をあげると、なぜかレバーは左にある。
あれ、と思っていると、肩に触れられた。僕はびくんとして、一気にレバーどころではなくなる。
心臓がめちゃくちゃになって、喉が痙攣する。また、されてしまう。軆ががくがくするほかは動かない。涙だけが滂沱としていく。
「い、嫌」
しゃくりあげに混ざり、取り留めのない拒否が口元をしたたる。
「しないで。今日、昨日したばっかりでしょ。嫌だよ。僕はおかあさんじゃないよ。何で分かんないの。離して。触らないで。僕、いや、」
「もえ──」
「僕は桃恵じゃないっ、おかあさんじゃないんだよっ。やだよ、離して。どっか行って。僕、嫌だよ。もう助けて。何にもしないで……」
肩を強引につかまれて向き合わされ、悲鳴をあげた。ついで側頭部を固定される。
もうダメだ。そう思った。思った途端、力が抜けてきた。おしまいだ。震えるほか、動けない。逆らえない。真っ白に麻痺する。もう、言うなりになるしかない。
明かりがまぶしい。ここは嫌だ。明るいところは嫌だ。視覚でぐらい、助かってもいいではないか。おとうさんだって、暗いほうが錯覚しやすい。
「ここじゃ嫌だよ……」
「え」
「向こうに行って、行ったら、好きなことしていいから……」
目をつぶって、顔を背けていた。沈黙が来た。自分の息遣いで、おとうさんのあの荒い息も聞こえない。
肩の手が動いた。僕の脳は砕けた。
「萌梨くん」と聞こえた。もえり。何? 名前? 誰の? 誰にしろ、それがどうしたのか。まわりくどくなんかしなくていい。さっさと連れていけばいいのに。
「萌梨くん、分かる? 僕は──」
僕? おとうさんは俺じゃなかった? それにまたモエリだ。萌梨──は、あれ。僕の名前だ。
「聞こえる? 僕は君のおとうさんじゃなくて」
「……おとうさん」
幼い子供の声だ。混乱した。何でここに子供がいるのか。ここにはおとうさんと僕しか──
「寝てなさいって言っただろ」
「だって」
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ。だって、萌梨くん、」
壊れた息遣いが自分で耳障りだった。わけが分からなかった。幻聴でもないようだ。
この人たちは誰だ。ここはどこだろう。家か。誰かの部屋か。教室。
もしかして夢。そうか。夢だ。夢──
「萌梨くん」
にぶく目を開いた。濡れた頬が冷たかった。そこにそっと指が触れてきて、びくっとする。
だけど、その手は優しかった。おとうさんや、今日の同級生たちの手つきではない。
息を吐いた。知らないあいだに壁に後退って、はりついている。いつどうやって動けたのか憶えていなかった。正面に誰かがかがみこんでいる。僕はそっと顔をあげ──
それで、やっとすべてがつながった。
そこには、聖樹さんがいた。その後ろに、泣きそうな悠紗もいた。
何だ、と思った。そうか。そうだ。ここは──
「僕たちのこと、分かる?」
聖樹さんに不安げに訊かれ、かろうじてうなずいた。聖樹さんはほっとした色を瞳に混ぜ、僕は自分の錯乱が急激に恥ずかしくなった。
最悪だ。聖樹さんをおとうさんだと錯覚してしまった。僕は頬を熱くして、うつむいてしまう。聖樹さんは僕の頭を撫でると、悠紗にタオルを持ってくるよう言った。
悠紗はこくんとして、バスルームにいく。聖樹さんは左のレバーでトイレを水洗すると、僕を抱き起こした。協力しようとしたものの、あの麻痺もきいたせいか、脱力がひどい。
「……ごめんなさい」
「え」
「僕、あの──その、おとうさん……」
聖樹さんは僕の肩を慰撫し、「気にしてないよ」と言ってくれた。僕はびしょびしょの睫毛を伏せる。しゃくりあげや動悸の強さが、聞こえてきた夜の静寂に際立つ。
聖樹さんに助けられ、僕は骨が抜けたような体勢ではなくなる。そこに悠紗がやってきて、受け取ったタオルで、聖樹さんは僕の涙や口元をぬぐった。
悠紗は、聖樹さんの背中越しにおろおろしている。僕の顔や喉元が綺麗になると、聖樹さんは僕の腕から上体を取った。
「立てる?」
「あ、は、はい」
返事はしても、僕は聖樹さんにほとんど支えられるかたちで立ち上がった。トイレを出ると、悠紗があとをついてくる。ふとんの上におろされると、聖樹さんは悠紗に僕を任せて、トイレを片づけにいった。
僕はまだ震えていて、ひくつく胸を抑え、鼻をすする。
迷惑をかけてしまった。こんなにはならないように気をつけていたのに。
【第百三章へ】