優しく眠る
家にたどりつけたところまで話したときには、僕は涙をこぼしてしまっていた。さっきの激しいものではなく、ぽろぽろと雫になって瞳を生まれ落ちる涙だ。
聖樹さんは僕の背中を撫でてくれている。僕は聖樹さんの肩にもたれた。聖樹さんの匂いは、悠紗の匂いと似ている。
「萌梨くんはひとりぼっちじゃないよ」
聖樹さんを見た。
「そのときはそうだったんだろうけど、今は違う。昔のこと、忘れられないよね。気持ちを切り換えられないのも分かるよ。それだったら、昔のと一緒に、今は僕たちがいるのを憶えておくのでもいい。今はもう、そこにはいないんだ。それは絶対だよ」
今はあそこにはいない。確かだ。僕はうなずく。
聖樹さんは僕の頭をいたわってさする。
「ずっとひとりじゃないよ。すごく長かったと思うけど、もう違うよ」
息を飲みこみながら、こくんとした。聖樹さんの肩に頭をもたせかける。
誰かとこうして触れ合うのは怖かった。聖樹さんなら怖くない。悠紗の軆も怖くなかった。
僕はみんなが怖かった。聖樹さんたちなら怖くない。ここには怖くない人がいっぱいいる。いるだけでやすらいだり、楽しい人がいる。
僕は、ここではひとりじゃない。そして、今、確かに僕はここにいる。
いっとき、そうしていた。僕の涙や呼吸の震えが収まってきたのを見取っても、聖樹さんは丁寧な慰撫をしてくれていた。
「僕もね」と聖樹さんはささやく。
「そういうのされたことあるよ」
「……え」
「その萌梨くんの気持ちだったら、けっこう、そうかって思える」
僕は濡れた視界で聖樹さんを見上げる。聖樹さんがちょっと微笑んだのが聞こえた。
「僕もビデオで、そこまで激しくはなくても、遠巻きに編集なしに一部始終を撮ってる奴だった。目をそらしたりするのはダメってされてね、かたち憶えたらその通りにしろって。僕も中学生だった。相手は先輩で、一対一だったけど」
僕はやや躊躇い、「されたんですか」と確かめる。聖樹さんは何も言わない──言えない代わりに、かすかに咲った。
「僕のときは、『憶えた通り』だったけど、萌梨くんは『同じことさせろ』だよね」
「あ、はい」
「その言い方、つらくなかった?」
「……そう思いますか」
「うん。女の子としてあつかって、男っていうのを否定してると思う」
分かるんだなあと感慨した。同じことをさせろ。あの台詞にそう傷つくと分かる人は、いったいどれだけしかいないのだろう。そんな隠微なトゲは、経験して屈辱にまみれてみないと分からないのかもしれない。
「何か、僕、少し構えてたよ」
「え」
「おとうさんの夢見たのかと思って」
「あ、ああ。あれは、あの日の夜中にも戻してたんですよ。眠れなくて、軆触られるのとかが残ってて。それでおとうさんにも見つかって、繰り返しみたいになっちゃって。今とあのときがごっちゃになったんだと思います。でも、現実だとあんなわめいたりできなかったですね。どこかでは夢だって分かってたんでしょうか」
「そ、う。見つかって、大丈夫だったの」
「………、大丈夫、というか、同じベッドでは寝させられました。でも、その、キスされただけです」
「……ごめん」
「いえ。そのほかはなかったです。おとうさんが眠っちゃったら、部屋に逃げましたし」
「そっか」と聖樹さんはそれにはほっとした顔になる。僕が助かったらほっとしてくれるんだな、と思った。
「けど、おとうさんでなかったとしても、ひどいね。僕、そういうビデオとか使われる気持ちは分かっても、複数にされる苦しさっていうのは正直むずかしいんだ。それはあんまり経験ない」
「そう、なんですか」
「うん。さしむかいでされるのが多かった。先生とかもあったし。先生が寄ってたかってくるのもね」
「僕は、そういう、何人かに分けられるのが多かったです。小さい頃は一対一もありましたけど、あの頃は、ショックより分からないっていうのが大きくて。何か、相手がいっぱいだと頭がばらばらになるんですよね。たくさん触られて、次から次が来て、使い捨てのおもちゃみたいです」
僕がうつむくと、聖樹さんは倦まずに僕の肩をやすんじる。
「僕もおもちゃにはされても、そういうぬいぐるみあつかいではなかった。分解されてるみたいな感じで。眺められたり、男のそれじゃないものを押しこまれたり」
聖樹さんに上目をする。そうなのか。僕はほとんど、指か性器だった。
「僕も麻痺はしたよ。でもばらばらっていうより、いつ終わるんだろうって気が遠くなるのが多かった。くらくらして」
「いつ、終わる……」
「思わなかった?」
「……です。何か、今が真っ白なんですよね。いつかは終わるって、あとのこととかは考えられなくなくて。僕のがショックとかじゃないと思います。何人もだと、どのぐらいでみんな満足するのか計れないですし。いつ終わるって、計算してみるのだけ虚しくなりそうで」
「そっか。まあ、もともと、どれが軽いとか重いとかはないんじゃないかな。つらいことはつらいことだし」
僕は首肯し、乾いてきた涙の頬をこすった。
心身の寒さは、ココアと聖樹さんのおかげでやわらいでいる。気分もだいぶ紛れていた。僕は湿った睫毛を伏せると、温いココアに口をつける。
この人がいてよかったな、とぼんやり思った。様子を気にしてもらえてよかった。もらわなかったら、僕はまた孤独の鬱に堕ちてひどい状態になっていた。
聖樹さんは僕をすくいあげてくれた。足元を取られそうになったけれど、ほとりに引っぱりあげてくれた。
ひとりだったらダメだった。きっとあのときの冷たい孤独感も加わり、死んだほうがマシだと自殺行為に走っていた。
僕は今、死ぬよりこの部屋で聖樹さんと悠紗にいるほうがいいと思える。僕だって、本当は死にたくないのだ。でも、死んだほうがマシな気分になるのが多すぎて、死にたかった。
聖樹さんも悠紗も、僕をその情念から助けてくれる。ひとりじゃなくて、しかもいてくれるのがこの人たちで、よかった。
僕の心の波長がなだらかになると、聖樹さんはそっと軆を離した。僕は聖樹さんを見る。
「気持ち、マシになった?」
マシなんて卑小なものではなくとも、こっくりとする。聖樹さんは微笑み、空になったカップを取って床に置いた。
「軆も休めないとね。軆がきついと、気持ちも安定しないし。何か食べたほうがいいのかな。食べれそう?」
僕は考え、首を振った。胃は空っぽでも、今、軆に何か入れると吐いてしまいそうだ。そうするとまた余計な迷惑──というか心配をかけてしまう。聖樹さんも強制はしなかった。
「じゃあ、お腹が空いたらね。横になるのはいいよね」
僕はうなずき、聖樹さんに助けられてふとんに横たわった。聖樹さんは寝室に帰ると思ったけれど、僕のまくらもとに座り直した。「寝ないんですか」と訊くと、「ここにいるよ」と聖樹さんは僕の長い前髪を梳く。
「ひとり、怖いんでしょう」
僕はちょっと頬を染めて伏目がちになる。
「僕も心配だしね。ちゃんとそばにいるよ」
「……いいんですか」
「気持ち、分かるから」
僕は聖樹さんを見つめた。聖樹さんが微笑んだのが、カーテン越しに部屋に映る蒼くなる空気で見えた。聖樹さんの軆にも都合はあっても、そう言ってくれるのなら僕も甘えたかった。
疲れていた。ひとりになるのも怖い。僕はあのゴミになった孤独感を、再現であっても感じたくなかった。今ひとりになったら、いくら状況が違っても、現実より錯覚が勝りそうだ。
ときどきなら甘えてもいいだろう。僕はここに、そうやって楽になっていい場所だと信じられて暮らしている。僕はおとなしく目を伏せた。
不用意にそうして、悪いものが動いた。目を閉じると、何も見えなくなってしまう。聖樹さんの気配を気取るには、夢の名残が鮮やかすぎる。暗闇にあの夢さえ浮かびそうになったとき、察したのか分かるのか、聖樹さんは僕の頭を撫でた。
僕がかすかに目を開けると、「いらない?」と聖樹さんは訊いてくる。僕はかぶりを振り、ほんとに分かるんだと心を安堵させる。
眠り足りなかったというより、心も軆も酷使して疲れていたのだろう。聖樹さんに綏撫されてやすらげると、すぐに微睡んできた。苦しかっただけに、静謐が痛切に染み渡る。
そして、僕はあんなことになったあとで初めて、ゆっくりと凪いだ眠りの沖へと連れさらわれていった。
【第百五章へ】