風切り羽-105

落ちこぼれでいい

 目が覚めたのは、昼前だった。室内は暖かく、カーテンでは抑えきれない光が頬に当たっている。
 その光の具合に、あれ、と思った。いつも目覚める時刻の日光と違う。それに、だいたい普段は暖房がかかっていないか、かかっていても間もなくて、寒いのに。
 何で、と身動ぎし、すぐに分かった。明け方になる直前、僕は悪い夢で大変なことになったのだ。それを聖樹さんと悠紗が助けてくれた。普通だったら、二度寝できるものではないのだけど、聖樹さんがそばにいてくれて、疲れに溺れて眠ってしまって──
 そうだった、とため息がもれた。
 胸のあたりに、ずっしりと名残はある。生々しくはない。また嫌な夢を見ていたというのはなさそうだ。
 名残っているといっても、いつもに較べれば、ずいぶんいい。聖樹さんがいてくれたからだろう。聖樹さんがいて、めくれた傷口をそのままにせずに済んだ。
「萌梨くん」と呼ばれて、目をこすって声のした右側を向いた。駆け寄ってきた悠紗が、まくらもとにしゃがみこんでいた。その心配そうな瞳に、少し微笑みかける。悠紗は床にぺたんと座ると、思案して、「おはよ」とひとまず言った。「おはよう」と返し、時間に合わないだろう挨拶に咲ってしまった。
 起き上がろうとしたら、「がんばっちゃダメだよ」と悠紗が制する。ずれた言い方でも、無理しないで、ということだと分かった。素直に横になる。戻しまくったせいか、肉体的な疲労は重たい。
「聖樹さん、は」
「お仕事行ったよ。『ごめんね』って言ってた」
「そっか」
「何かあるなら、会社に電話していいよって」
「ううん。謝りたくて。あと、お礼と。夜でもいいかな」
 悠紗は、聖樹さんに似た瞳で僕を見つめる。
「悠紗にも。ごめんね。ありがと」
 悠紗は首を振り、「萌梨くんだったらしたかったの」と言った。僕は弱く微笑すると、視線を空中に泳がせる。
「自分でもびっくりしたな。恥ずかしいや」
「恥ずかしくないよ。だって、僕たちにはそうしていいんだもん。溜めとくほうがダメだよ」
「……うん」
「僕はね、萌梨くんがいろんなもの外に出してくれたの、嬉しかったよ。おとうさんもそうだと思う」
「そ、かな」
「うん。んー、萌梨くんには苦しかったんだよね。嬉しいってやだね。ごめん」
「ううん。苦しかったけど、悠紗たちが悪いんではないし。外に出せたのは楽になれたよ。溜めてたら、変なのになってた」
「そお。変なの、なりそうじゃない」
「うん。たぶん」
「たぶん」と言葉を拾って不安げにした悠紗に、くすりとした。
「悠紗、いてくれる?」
「いるよお」
「じゃあ、大丈夫」
 言い切ると悠紗はにっこりして、僕も自分でそう言えたことに安心できた。
 食器は聖樹さんが洗ったのとか、昼食はレンジですればいいものがあるのとかを話して、悠紗は僕をあんな状態にさせた傷については何も訊かなかった。話したほうがいいのかな、と思っていたのを、やんわり否定してくれているのだろう。
 悠紗ととりとめのない会話をして心が軽くなると、起き上がった。今度は悠紗は止めなかった。テレビのゲームが一時停止のままだ。時刻は十時半をまわっている。お腹空いたなあ、と健康的に思えることにほっとした。
 ふとんを降りて、干そうかなと思った。昨日、寝汗もいっぱいかいただろう。悠紗に言うと、「いいんじゃない」と返ってきた。そんなわけで、僕はふらつきを抑えて立ち上がり、先にトイレに行ったり顔を洗ったりを済ますと、ふとんを抱えてベランダに出た。悠紗も手伝って、敷きぶとんや毛布を窓辺に引っ張ってくる。
 気持ちよく晴れていて、太陽も柔らかにまばゆい。気温も心持ち暖かく、あんなのがなかったら洗濯していただろう。
 持ち上げたふとんを手すりにかける。軆をふたつ折りにして、その裾を腕を伸ばして整えていたときだ。
「萌梨」と声がして、顔を上げた。悠紗を振り返ると、悠紗も僕を見ている。
「呼んだ?」
「誰かが」
「こっちだって! 俺」
 正面を向き、まばたきをした。この下はちょうど正面玄関になるのだけど、そこに沙霧さんがいたのだ。なぜか制服すがたで、焦っている。
「あ……」
「鍵開けといてくれよ。いい? いいなっ。よし!」
「え、あ──」
 沙霧さんは勝手に決めてマンションに駆けこみ、僕は慌てて悠紗に鍵を開けるのを伝えた。「何ー?」と首をかしげて、悠紗は玄関に走っていく。同感ながら、ふとんを干すのは続行した。
 後ろで物音がしたのはすぐで、振り返ると悠紗とやはり制服の沙霧さんだ。紺が色調の正装とも呼べそうな代物で、手には同じく紺の通学かばん、カーキのデイパックがある。
 聖樹さんに通じるすらりとした脚に悠紗をまとわせ、沙霧さんは僕を見ると決まり悪そうに咲う。
「はは、ごめんな、いきなり。ビビらせた?」
「あ、まあ。少し」
「ちょっと焦っててさ。ありがとな。助かったよ、ほんと」
 そう言う通り、沙霧さんはマンションに駆けこんだときの焦りは落ち着かせている。何かあったのかなとふとんに留め具をして、今度は敷きぶとんに腰をかがめる。
「せーふくだね」と悠紗は沙霧さんの制服を引っ張る。
「ん、ああ。学校にいたからさ。あー、こわ」
 沙霧さんは床に座りこみ、そのそばに悠紗も座る。僕は敷きぶとんを手すりに伸ばし、何となくその会話を聞いてしまう。
「何か怖いのあったの」
「先公につかまってお説教だよ。進路希望出せとか、卒業後はどうするつもりだとか。ああ、もうやだ。てめえに俺の将来が関係あんのかよ。何で大学行かねえって言ったらみんな衝撃受けるんだよ」
 一顧する。床に突っ伏す沙霧さんに、悠紗はよく分からない顔をしている。そういう悩みは、まだ悠紗には不可解だろう。
 悠紗は僕を向き、僕は曖昧に咲った。
「おまけに、逃げようとしたら追いかけてくるし。駅までだぜ」
「逃げれたの」
「さあ。家に連絡行ってないかな。ほっといてるかな。まあここには来ない。家だったら電話されるかもしれないし、親もいるし。家に帰るのも怖いな。ちきしょう、兄貴は首席の優等生だったもんなあ。俺は落ちこぼれあつかいだぜ。首席と較べるのが間違ってんだろ」
 僕は鼻白む。首席。そうなのか。
「あのね、前に要くんが落ちこぼれはくーるだって言ってたの」
「クール、って、あの人たちと普通にやってる奴では、観点が違うんだよな」
「かんてん」
 つたない発音でそう反復し、悠紗は眉を寄せている。沙霧さんは上体を上げると、不明瞭な声と共にため息をついた。色素の薄い髪が、さらさらと額を流れている。
「もうやだ。みんな同じことしか言わねえや。やな時代だよなあ。大学行かないのは犯罪かよ。保身ばっかり取りやがって」
「ほしん」
「そうだろ。学校は卒業生を大学にやらないと名前保てないし、親は世間体があるし。やだなあ。大学。楽しくなさそう」
「楽しくないことやったら、あとで自分嫌いになるって葉月くんが言ってたよ」
「だからあの人たち──まあ、それはそうか」
「でね、楽しかったら落ちこぼれはくーるなの」
 沙霧さんは悠紗を眺め、頭をぽんぽんとした。毛布を取り上げる僕も、賢い子だよなあと思う。本当に六歳なのか疑いたくなる。でも、それは要さんと葉月さんの受け売りなのか。
 あのふたりは、生きるのが楽しくなるコツを知っている感じがする。へらへらしているのに、なぜか媚も仮面もなしに奇骨を貫いている。生きているだけで楽しそうだ。特に葉月さんは、死ぬ意味がないとも言っていた。僕にしたら、すごい言葉だ。
 六歳の子供があのふたりと接するのは、ほとんどの人には害に見えても、実はすごく利なのだろう。生きているのを楽しくする方法なんて、そう教えてもらえるものではない。

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