かけはなれるふたり【1】
涼が萌香を立ち上がって追いかけたとき、「聞こえないふりしてあげよう」と素早く小波はささやいて、俺の腕をつかんだ。本当は小波を突き放したかった。萌香と涼の雰囲気を、今すぐぶち壊しにいきたかった。
それでも、少しどこかで俺は日和っていた。まさか萌香が涼を受け入れるなんて、ありえないと思っていた。だって、俺が涼を紹介したときも、萌香はつまらなさそうな顔をしていたし、涼が帰ったあと俺の手を握って「そばにいる」と言ってくれた。
本当は、あのとき萌香を抱きしめたくてたまらなかったのだ。押し倒してキスをして、またつながりたかった。何となく、あのときのせいで、俺にも脈があるような変な気分になっていた。だから、小波とくだらないホラー映画なんか眺めていた。俺が割りこんでいたら、変わっていたかもしれないのに。
涼は笑みをたたえて戻ってきて、小波が「告った?」と訊く。涼はうなずいて、俺に「何かいろいろありがと」とか言った。よく理解できずに咲うと、小波は察したのか「マジで?」と映画を一時停止にする。
俺はキッチンを振り返ったけど、萌香のすがたはない。え、とひやりと幽霊の手が這ったような冷たさを背筋に感じたとき、涼が絶望的なことを言った。
「やったあ……っ。やばい、萌香さんとつきあえるとか、マジで嬉しい」
ぽかんと涼を見つめた。涼はちょっと頬に赤みを残していて、「よかったねえ」と小波に肩をたたかれて咲っている。
つきあう? 萌香が? 涼と? 何で。そんなの、……ありえないだろ。
だって、萌香は俺の、俺だけの、女じゃないか。
「ねえさん……も、涼のこと、『好き』って言ったのか?」
「ん? いや、それはまだだけど。キスして『よろしく』って言ってくれたし、デートの約束もしてくれた」
相槌を打ったようなところから、記憶にない。
外の蝉の声がぐらぐらゆがみ、砂嵐のように不安をかきたてて響いていた。視界も色あせ、あの熱く甘やかな麻痺ではない、麻酔を打たれたような腫れぼったい麻痺が指先を覆っていく。冷風が冷や汗を刺して、頭が痛かった。
無性に萌香の部屋に行きたかったことだけ、憶えている。萌香を組み敷いて、めちゃくちゃに犯して、俺のことが好きだと今すぐ言わせたかった。涼のことなど全部取り消させ、俺に服従させたかった。
萌香もそれを望んでいる。それが俺たちの本来の関係ではないか。なのに、何でいつも萌香は俺のことをもういらないとか、ほかの男とつきあうとか──
萌香は、本当に俺を愛していないのか。あんなに愛しあったのに、終わってしまったのか。確かに、俺はひどい手段で萌香を振り向かせた。あるいは、それがいけなかった? 萌香は今では俺のことを憎んでいるのか。だから、俺を苦しめるように、俺の親友なんかと……
気づいたら、日暮れになっていた。俺は一応、はたからは平静に映画を観ているように見えていたらしかった。やけに小波にべたつかれていたようだが、それもどうでもよかった。
透明色の夕暮れが射しこんで、蝉の声が影のように伸びていた。
「帰る前に、萌香さんに挨拶する」
そう言った涼は、俺たちより先に立ち上がった。「有栖にはやっぱホラーなんてお子様だったねー」と小波はDVDを片づける。
ドアの音のあと、萌香の声がして俺は振り返った。「今日のパスタもうまかったです」とか言っている涼に、「麺類しかまだ食べてもらってないわね」と萌香は確かに涼に微笑んでいた。
あの頃、俺がいつも見ていた慈しむような微笑だった。
何で。それは俺しか見てはいけない顔なのに。嫌だ。こんなの嫌だ。やめてくれよ、萌香。俺だけを見てくれよ。俺がもういらないなら、せめてどんな男も選ぶなよ。
「おねえさん、けっこう嬉しそう」
俺は小波を見た。小波は萌香と涼を見ている。
「何か、朝会ったときはちょっと気むずかしいタイプかなーと思ったけど。お昼ごはんのときも優しかったよね」
「……そう、だな」
「よかった。涼ってあんな奴だけど、有栖のおねえさんならきっと大事にするよ」
小波は、DVDをまとめたふくろをリュックに入れて立ち上がった。俺もゆっくり立ち上がり、それに続いた。「デートできるんでしょ」と小波は涼を小突いて、玄関に押していく。
俺は萌香の隣に並んで、少しその表情を窺った。萌香は涼と小波をほのかに笑んで見守っている。俺のほうは一瞥もしない。
「……涼とつきあうんだ?」
そんなことを言うと、さすがに萌香は俺に目を向けた。何だろう。まだ麻痺している。視覚も鈍い感覚があって、萌香の瞳の色を読み取れない。
「有栖の親友っていうのが、変な感じね」
「………、幸せになれそう?」
「してもらわないと」
「そっか」
「有栖は──」
くそ。まだ切ない。萌香の声が俺の名前を呼ぶ瞬間、花が開くように鮮やかに神経が甘くなる。
萌香がどう続けるのか待ったとき、「有栖ー」と玄関から涼と小波の声がした。俺は一瞬顔を背けて、舌打ちを殺すと、「今行く」と玄関に走ってふたりを見送った。
「有栖」
スニーカーを履いた涼がドアを開けると、蒸し暑い空気がぬるりと滑りこんできた。小波がサンダルを履きながら俺を見上げてくる。
「またメールするね」
「ああ」
「夏休み、時間あったらお祭りとか行こうよ」
「三人で?」
「え、と──一応、おねえさんと四人で行って、はぐれてあげるのかな?」
「……そう、だな。考えておく」
「うんっ。じゃあまた」
小波は笑顔で手を振って、「その話、俺も真剣に考えたい」という涼の声が聞こえた気がして、ドアが閉まった。
俺はしばらく、リビングより暑いそこに突っ立っていたけど、ふと背後で足音がしてはっと振り向いた。萌香が俺の脇から手を伸ばして、鍵を締めた。
萌香は俺を見上げて、首をかたむける。今日も無造作にまとめている黒髪の後れ毛が艶めく。
「今夜、鱸の天ぷらでいい?」
何で。何で、こんなに距離を感じるのだろう。家には俺たちふたりだ。萌香につめよっても、誰の目にも触れない。床に押し倒しても誰にも咎められない。
なのに、俺は動くことができない。手を持ち上げて萌香の肌に触れることが、こんなにもいけないことのように感じる。そんな罪悪感、昔に捨てたはずなのに。いや、これは姉弟に対する罪悪感ではない。萌香がほかの男のものだということが、俺をどうしようもなく傷つける。
どうしよう。俺はこのまま萌香に触れないのか。死ぬまで、萌香の軆を抱きしめられないのか。
俺には萌香だけなのに。萌香のことしか考えられないのに。
「煮つけとかソテーもできるけど──」
「何にも用意してないから」
「え?」
「涼とのこと、お祝いというか」
「……ああ。別に、」
「ハグでいい?」
「えっ」
「何か、……ちゃんと、したい」
萌香の瞳に、確かに動揺が浮かんだけど、その意味までは分からなかった。俺はじっと萌香を見つめた。萌香は息をつくと、「どうぞ」と一歩引いて両手を広げた。
俺は一度顔をうつむけて、泣きそうなのを必死にこらえた。それから萌香と向き合って、息を飲みこんでから、萌香の軆に手を伸ばして、腕で包むように肩を抱いた。
そのまま、萌香をきつく抱きしめた。やっぱり、萌香は俺と同じ匂いがした。それと少し、汗の匂いがする。それは俺もだと思うけど。
萌香の軆は変わらずに柔らかく、温かく、折れてしまいそうだった。萌香の手が俺の肩胛骨にまわったのが分かった。長い爪の指が俺のシャツをつかむ。俺は小さく萌香の頭に頬をすりよせ、髪に触った。
お互い息を止めていたのはどうしてだろう。少なくとも俺は、息をしたら言葉が弾けてしまいそうだったからだ。
ダメだよ。無理だよ。俺はやっぱり、萌香が好きだ。あんたを抱きしめて、震えるほど泣けてくるほど軆が痺れるんだ。あんたを誰にも取られたくないよ。今すぐ部屋に監禁して、俺だけの奴隷にしてしまいたい。たとえ通じ合わない気持ちだとしても、俺は萌香を愛してるよ。
萌香はずっと抵抗しなかった。お互いが汗ばんできても、俺の腕の中にいた。
萌香の耳が、俺の鼓動に重なっている。俺の心臓は少し速かったと思う。その意味を萌香は考えただろうか。好きな女を抱いているからだと考えてくれただろうか。
でも、何も訊けなかった。静かに腕をほどいて軆を離した。こちらを見上げた萌香に、俺は咲って、心にもないことを言った。
「おめでとう、ねえさん」
──それから、萌香と涼のつきあいが始まった。萌香に仕事がない日、涼はちゃんと家まで迎えに来て、デートが終われば家に送り届ける。朝帰りなんてなかった。
すぐ八月になって、小波が言っていた通り四人で花火大会に出かけたりもした。予定通り人混みに紛れてはぐれて、俺は草いきれの土手に座って、小波と夜空に咲いては散る花火を見上げた。打ち上がるたびに歓声が上がる。小波が俺の肩にくっついてきて、その体温を俺は億劫に感じた。
これが萌香だったら、俺は花火をろくに見ないほど、暗闇に任せてキスをしていたのかもしれない。この人混みの中なら、俺と萌香が姉弟なんて知る人もきっといなくて、俺はおもむくまま萌香を求められていた。
でも今頃、そうしているのは俺ではなく涼なのだ。萌香のあの潤んだ瞳には、涼が映っている。花火の音で言葉を交わせない代わりに、唇を重ねている。
萌香の体温が恋しい。小波の体温が届いているのに、それでは何も満たされない。萌香のあの匂いと温もりが欲しい。
その花火大会の日、萌香は初めて家に帰ってこなかった。
小波も俺を引き留めて一緒に過ごしたかったようだけど、俺は鈍感なふりをしてはぐらかし、終電で家に帰った。萌香が家に帰ってこないのは初めてだな、と気づいて喉に穴が空いたように息ができなくなった。
家はやはり暗くて、萌香の靴もなく、俺は唇を噛んで自分の部屋に入ろうとして、足を止めた。ちょっと迷ってから、萌香の部屋のドアに手をかけた。
明かりをつけて、ベッドと本棚くらいの質素な部屋を見渡し、クローゼットを開けた。かすかに煙草のにおいがしたのは、並んだ仕事用のスーツのせいだろう。萌香のスーツは、意外とパステルカラーが多かった。あんまり似合わねえなと、ちょっとだけ笑ってしまう。
足元の引き出しを開けると、下着を見つけた。ブラとショーツがほとんどセットで、こっちは黒とか紫とか青とか濃い色が多い。金の糸で縫い目をわざと見せている、メッシュ加工の黒い下着のショーツだけ盗み、俺は萌香の部屋から自分の部屋に移った。
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